ジャック・フットレル「正体不明の男」(五)



 時おりすすり泣きが聞こえるほかは、しばらく沈黙が続いたが、女はハッチに激しくしがみつき、顔を彼の肩にうずめたままだった。それからこう言った。
 「私を憶えてないの?」彼女は繰り返し聞いた。「あなたの妻を? 本当に憶えていないの?」
 ハッチは科学者の顔に笑みが浮かんだままなのが見て取れたし、なにも言わなかった。
 「この人は間違いなくあなたのご主人なんだね?」と《思考機械》はきっぱりと問いただした。
 「あら、もちろんですわ」と女はすすり泣きながら言った。「ああ、ジョン、私を憶えてないの?」彼女は少し身を引いて、記者の顔をじっと見つめた。「憶えてないの、ジョン?」
 「お会いしたことがあるとは言えませんね」とハッチは心底から言った。「私は・・・その・・・実を言うと・・・」
「ドーン氏は記憶を完全に失っているのだ」と《思考機械》は説明した。「それはそうと、あなたなら彼のことを説明できるだろうね。彼は私の患者なんだ。私も関心を持っていてね」
 その声にはなだめるような響きがあり、ずっといら立っていた様子もしばし収まったようだった。女はハッチのそばに座った。彼女の顔は目が覚めるほど美しかったが、その顔を問いかけるように《思考機械》に向けた。片方の手は記者の手を軽くたたいていた。
 「どこのご出身ですか?」と科学者は言った。「つまり、ジョン・ドーンの出身地はどこかということですが」
 「バッファローですわ」と彼女はもっともらしく答えた。「この人はそれも憶えていませんの?」
 「職業は?」
 「この人、しばらく体の具合がよくありませんでしたので、今は実質的な仕事はしておりませんの」と女は言った。「以前は銀行の仕事をしておりました」
 「最後に会ったのはいつですか?」
 「六週間前ですわ。ある日、家を出て、それ以来消息が知れなくなりました。ピンカートン探偵社の探偵を雇って捜索させたんですけど、そしたら、ヤーマス・ホテルにいると報告してきまして。すぐに行きましたわ。これから一緒にバッファローに戻ります」彼女はハッチのほうに悩ましげな顔を向けた。「そうでしょ、あなた?」
 「ヴァン・ドゥーゼン教授のおっしゃるとおりにするよ」とどっちつかずの答え方をした。
 面白がっている様子が《思考機械》の細めた目からゆっくりと消えていった。ハッチが見ていると、彼の口は固く引き結ばれた。爆発が起きる、とハッチは感じた。しかし、科学者が口を開くと、その声は前にもまして柔らかかった。
 「ドーン夫人、一時的に記憶を喪失させる薬物のことはご存知ですかな?」
 彼女は目を見張ったが、自制心は失わなかった。
 「いいえ」とようやく言った。「なぜですの?」
 「むろん、この人があなたの夫でないことはご存じでしょうな?」
 今度はその質問も効果があった。女は突如立ち上がり、二人の男を見つめると、顔色が青ざめた。
 「夫ではない? どういうことですの?」
 「つまり」と答える声にはまたもやいら立ちが感じられた。「つまり、この件に関して本当のことをおっしゃっていただけなければ、警察を呼んであなたを引き渡さなくてはならぬということです。お分かりですかな?」
 女の唇が固く引き結ばれた。罠にはまったことに気づいたようだ。手袋をはめた手をきつく握り締めた。青ざめた顔は、次第に怒りのせいで血の気が上って赤くなった。
 「それと、まだ私の言う意味が分かっておられぬかもしれんので」と《思考機械》は説明した。「銅取引のことはみな知っていると申し上げよう。ここにいるジョン・ドーンなる人物がその被害者となった取引だよ。彼の症状はもう分かっている。君が本当のことを言えば、監獄行きは勘弁してやる。言わないなら、かなり食らい込むよ。それも君だけじゃない。仲間の共謀者たちもだ。さて、話す気になったかね?」
 「いいえ」と女は言い、出ていこうと立ち上がった。
 「それはやめたほうがいい」と《思考機械》は言った。「そのままじっとしていたほうが身のためだ。どのみちぶち込まれる。ハッチ君、マロリー部長刑事に電話を」
 ハッチは立ち上がり、隣の部屋に入っていった。
 「だましたわね」女はいきなり激しく叫んだ。
 「そう」と相手は満足げに言った。「次は、自分の夫くらい分かるようにしておくんだね。ところで、ハリスンはどこにいるのかね?」
 「これ以上話すつもりはないわ」とすぐさま答えが返ってきた。
 「いいだろう」と科学者は穏やかに言った。「マロリー部長刑事は数分でここに来る。それまでここのドアは鍵をかけておく」
 「あんたにそんな権利は・・・」と女は言いかけた。
 その言葉にとりあおうともせず、《思考機械》は隣の部屋に入っていった。そこで三十分ほど、ハッチ、ドーンと熱心に話し込んだ。話し終わると、ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」のマネージャーに次のような電報を打った。

 「来客帳簿に、三年前の一月、ファースト・ネームをハリーまたはヘンリーという男の名が載っていないか? 載っていたら、名前と特徴を回電願いたい。彼を客として招いた人物の名もあわせて知らせたし」

 この電報を打って数分後、玄関のベルが鳴り、マロリー部長刑事が入ってきた。
 「なにがあったのかね?」と彼は尋ねた。
 「隣の部屋に君の獲物がいるよ」と《思考機械》は答えた。「女だ。ジョン・ドーンを欺こうとした謀議で告発するよ。とりあえずその名で呼んでいるが、それが彼の本名かどうかは分からない」
「どれだけのことをご存じなんですか?」と部長刑事は聞いた。
 「実に多くのことを知ってるよ。しばらくすれば、もっと分かる。時が来れば話すよ。それまでは、その女を捕まえておいてくれ。君たちは、今晩、どこか出かけてもらったほうがよかろう。戻ってくる頃には、電報の回答も届いているだろうし、それでこの問題もはっきりするはずだ」
 抗議もむなしく、謎の女はマロリー部長刑事に連行されていった。ドーンとハッチは、すぐあとに出かけた。《思考機械》が次にとった行動は、モンタナ州ビュートのプレストン・ベル夫人に電報を打つことだった。その電報にはこう書いてあった。

 「ご主人は一時的な記憶喪失にかかってこちらにいる。至急おいでいただけないか。要回答」

 メッセンジャー・ボーイが電報を届けに来たとき、玄関口の階段に男がいた。《思考機械》が電報を受け取ると、マーサにマニングと名乗った男は《思考機械》に取り次がれた。
 「またマニングか」と科学者は心の中でつぶやいた。「ご案内してくれ」
 「どうしてこちらに伺ったか分かりますか?」とマニングは言った。
 「おお、もちろん」と科学者は言った。「ドーンの名前を思い出したんだね。それで、名前は?」
 マニングはあからさまに驚きの色を表し、答えに詰まって、科学者の顔を見つめるばかりだった。
 「ええ、そのとおりですよ」とようやく言い、にっこり笑った。「彼の名はピルスベリーです。やっと思い出しましたよ」
 「どうして思い出したのかね?」
 「雑誌の広告に、その名が大文字で出ていたのを見たんです。すぐに、それがドーンの本名だったことを思い出したんですよ」
 「ありがとう」と科学者は言った。「それで、例のご婦人は? 彼女は誰かね?」
 「どのご婦人ですって?」とマニングは聞いた。
 「いや、なんでもない。知らせてくれて感謝するよ。ほかに思い出したことはあるかね?」
 「いえ」とマニングは言った。少し当惑した様子で、しばらくして帰っていった。
 《思考機械》は、一時間ほど、指先を合わせながら天井を見つめていた。その黙想もマーサが来て破られた。
 「また電報でございます」
 《思考機械》は待ちかねたように受け取った。ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」のマネージャーからだった。

 「ヘンリー・C・カーニー、ハリー・メルツ、ヘンリー・ブレイク、ヘンリー・W・トルマン、ハリー・ピルスベリー、ヘンリー・カルバート、ヘンリー・ルイス・スミス。以上がその月のクラブへの来客。どの人物について追加情報をご所望か?」

 《思考機械》はピッツバーグに長距離電話をかけ、一時間以上も話した。電話を終わると、満足したようだった。
 「さて」と彼は心の中で言った。「あとはベル夫人からの回答を待つのみだ」
 回答が届いたのは深夜近くだった。ハッチとドーンはすでに劇場から戻ってきていて、電報が届いたときには、科学者と話をしていたところだった。
 「なにか重要なことでも?」とドーンは不安げに聞いた。
 「うむ」と科学者は言い、封筒の折り返しに指を差し入れた。「これではっきりする。最初から最後まで興味深い問題だったよ。ようやく・・・」
 彼は電報を開き、ちらりと見た。それから、当惑の色を浮かべ、かすかに口を開けると、テーブルの席に深々と座り、身をかがめて頭を抱えた。電文がテーブルに舞い落ちたので、ハッチは読んでみた。

 「ボストンにいる男性は夫ではありません。夫はいまホノルルにいます。今日も夫から電報を受け取ったところです。
プレストン・ベル夫人」
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