『時の娘』再考 事件の概要

 英国史とミステリといえば、真っ先に思い出すのはジョセフィン・テイの『時の娘』。そこで、最近の読書の副産物ですが、ロンドン塔の二王子を巡る昨今の議論など御紹介してみたいと思います。

 御存知ない方のために、この歴史上の謎の概略を御紹介しておきます。
 ランカスター派との戦いに勝利を収め、王位を確立したヨーク家のエドワード四世は、1483年4月に41歳で世を去ります。彼は遺言で、12歳の長男エドワードを後継者に指名し、王子が成年に達するまでの間、弟のグロースター伯リチャードをエドワードの後見人とし、摂政として政治を委ねます。
 リチャードはバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードの協力も得て、先王の王妃エリザベス・ウッドヴィルとその一族による権力掌握の企てを未然に防ぎ、エドワード王子を保護下に収めます。王子は、バッキンガム公の提案により、ロンドン塔に移されます。その後、ウェストミンスター寺院の至聖所に他の子供達と共に難を避けていたエリザベス・ウッドヴィルは、リチャードの要請に応じて、もう一人の王子ヨーク公リチャードを引き渡し、リチャード王子もロンドン塔に移されることになります。
 エドワード王子の戴冠式の準備が進められていた1483年6月、バースとウェルズの主教スティリントンは、エドワード四世が、王妃エリザベスと結婚する三年前にエリナー・バトラーという別の女性と婚姻の予約(precontract)をしていたという衝撃的な事実を明らかにします。事実であれば、当時の教会法の下では、婚姻の予約は婚姻と同様の拘束力を持つとされていたため、先王と王妃の婚姻は無効とされ、その間に出来た子供達は庶子となり、王位継承権を失うことになります。
 6月25日、招集された議会は、スティリントンの証言に基づき、エドワード四世の子供達を庶子とし、リチャードを正当な王位継承権者とする議決「王位継承法」(Titulus Regius)を採択し、リチャードは、議会の決定を受け入れて、7月6日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、リチャード三世となります。その二週間後、リチャードは王妃アンと共に即位後の巡幸に出発しますが、その最中にバッキンガム公の反乱が起こり、また、ロンドン塔に居住していたエドワードとリチャードの二王子が殺されたという噂が生じます。バッキンガムの反乱は鎮圧されますが、その後、二王子は歴史の表舞台から消えてしまいます。
 1485年8月、ランカスター家の祖ジョン・オブ・ゴーントの庶流の子孫、ヘンリー・チューダーは、大陸からイングランドに侵攻し、ボスワースの戦いで勝利を収め、リチャード三世は戦死します。ヘンリー七世として権力を掌握した彼は、「王位継承法」を破棄させ、エドワード四世の長女エリザベス・オブ・ヨークをヨーク家の嫡出子として王妃に迎えます。(現在の英王室は、ヘンリーとエリザベスの娘であり、ジェームズ一世の曾祖母であるマーガレット・チューダーを通じて、ヘンリー七世の子孫ということになります。)
 ロンドン塔の二王子がどうなったのかについては、同時代の記録も不確かな噂や伝聞を記しているのみです。『クロイランド年代記』は、「先王エドワードの息子達が殺害されたという噂が生じたが、どのようにして殺されたのかは不確かだった」とし、マンシーニの報告書も「エドワード王子が本当に殺されたのか、またどんな死に方をしたのかは、これまでのところ、私も全く知らない」としています。また、二王子殺害の詳細な経緯を報告している、後のトマス・モアでさえ、「彼らの死と非業の最期は、これまでも疑問視されてきており、彼らがリチャードの時代に殺されたのか否か、なお疑う者がいる」と言及しています。
 それでは、まずこの歴史上の謎を論じた研究書から御紹介してみたいと思います。
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