ナイオ・マーシュ『死の序曲』

 『死の序曲』("Overture to Death":1939)は、ロデリック・アレン首席警部の登場する長編。邦訳があるので、詳しいあらすじは省くが、教区公会堂でのピアノ演奏の最中に起きた殺人を描く。
 土曜の夜、ウィントン・セント・ジャイルズの教区公会堂で、資金集めのためにアマチュア演劇が上演されることとなる。序曲を演奏するミス・アイドリス・カンパヌラが、ラフマニノフの前奏曲嬰ハ短調を弾き始めるが、新たに購入されたピアノにはリボルバーが仕掛けられていて、彼女は観客の見ている前で頭を撃ち抜かれて絶命する。本来、演奏を担当するはずだったミス・エリナー・プレンティスが指を痛めたため、直前になってミス・カンパヌラと交代していたことから、狙われていたのは実はミス・プレンティスだったのでは・・・という展開。
 本作は、一時期、マーシュの代表作として挙げられることが多かった。ジェームズ・サンドーの名作表(1946)、ヘイクラフト=クイーンの里程標(1952まで)、ジュリアン・シモンズ選の「サンデー・タイムズ」ベスト100(1957-58)は、いずれもマーシュの作品として本作を選んでいる。その後の主要なリファレンス・ブックでは、メルヴィン・バーンズの“Murder in Print”(1986)が、“Artists in Crime”、『ランプリイ家の殺人』、“Died in the Wool”、『道化の死』と並んで本作を挙げている。
 比較的最近のリファレンス・ブック等ではあまり見かけなくなったし、シモンズも“Bloody Murder”では本作に言及していないが、上記バーンズがマーシュの後期作について、「味わいのある登場人物を造形し、巧妙な謎解きを構築する能力はほとんど衰えなかった」と述べているように(以前紹介したロバート・バーナードも同様のことを述べている)、これは、マーシュが後年になっても筆力の衰えが目立たず、むしろ1950年代以降に円熟味の増した佳作が多いこととも無関係ではないだろう。
 ピアノとリボルバーの仕掛け自体は、メカニカルで大したものではないのだが、本作の評価が高いのは、リボルバーをピアノに仕掛ける機会のあった人物を絞り込むプロット構築の綿密さや、登場人物の錯綜した人間関係の描写などに見るべきものがあるからだろう。我が国にありがちな傾向だが、殺人のトリックだけに焦点を据えて評価するという、視野狭窄な捉え方をしてしまうと、海外における評価の高さは理解し難いかもしれない。
 ただ、残念なことに、1959年に出た邦訳は、原書と照らし合わせてみると首を傾げる箇所が多いし、訳文の古さもあって非常に読みにくく、原作の味わいが十分伝わりきらないうらみがある。我が国でさほど注目されてこなかったのは、こうした訳の問題もあるのかもしれない。
 なお、殺人の序曲となる、ラフマニノフの前奏曲嬰ハ短調は、クラシック・ファンにはよく知られた名曲で、クレムリンの鐘の音に着想を得て作曲されたことから、日本では「鐘」というニックネームでも親しまれている。フィギュア・スケートの浅田真央選手がフリープログラムで用いた曲(管弦楽編曲版)としてご存知の方も多いだろう。
 「鐘」は、リストのピアノ曲「ラ・カンパネラ(鐘)」でも知られる通り、イタリア語で‘Campanella’という。この曲を弾いて殺害される被害者の名を「カンパヌラ(Campanula)」としたのも、しばしばタイトルに工夫を凝らす、マーシュらしい隠し味ではないだろうか。
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