アガサ・クリスティによるペンギン・ブックスへの序文

 緑色の表紙のペンギン・ブックスは、私自身、イギリスにいた時によく買って読んだ懐かしい叢書なのだけれど、アガサ・クリスティは、1953年に、新たな序文を付した10作のペーパーバックをこの叢書から一度に出している。
 その内訳は、

 『アクロイド殺害事件』
 『書斎の死体』
 『死が最後にやってくる』
 『ナイルに死す』
 『ヘラクレスの冒険』
 『ミス・マープルと13の謎』
 『動く指』
 『謎のクイン氏』
 『パーカー・パイン登場』
 『ねじれた家』

 であり、53年当時の自選ベスト10といえる。(お気に入りの一つとされる『終わりなき夜に生まれつく』は当時まだ出版されていないので、入っていない。)
 これらのペーパーバックには「出版社のノート」が冒頭に掲げられ、この10作がクリスティ自身によるチョイスであり、それぞれの序文に、作品の背景や執筆の動機、お気に入りの10作に選んだ理由などを解説していると記されている。
 裏見返しにも同趣旨の記載があり、元々の版元であるコリンズ社の了解を得て出版されたと記されているが、今日流布しているハーパー・コリンズのペーパーバック版にはこれらの序文は掲載されていない。ペンギン叢書に寄せた特別な序文だからかもしれないが、埋もれさせるには惜しい気がする。
 気づいた限りでは、これらの序文の邦訳が載っているのは、創元文庫の『アクロイド殺害事件』、『ミス・マープルと13の謎』、『クィン氏の事件簿』、早川文庫の『書斎の死体』、『ナイルに死す』。(早川はポケミス版や「クリスティー文庫」版の新訳などもあり、他社も含めて網羅的に調べたわけではないので、ほかに翻訳が掲載されている版があるかもしれない。不明を御容赦願いたい。)
 『死が最後にやってくる』は、著名なエジプト学者である友人に触発されて執筆を思い立ったものであり、8冊の分厚いエジプト学の書物を持ち帰り、戦時中の爆撃すら忘れて読みふけったとのこと。その学者に電話をかけ続け、時代背景などを細かく質問して悩ませたらしいが、本が完成すると、熱烈な支持を得たとしている。
 『ヘラクレスの冒険』では、「ネメアのライオン」、「レルネーのヒドラ」、「クレタ島の雄牛」の執筆は楽だったが、「エリュマントスのイノシシ」、「ヒッポリュテの帯」には相当苦労したようだ。なかでも、「ケルベロスの捕獲」は、題に見合った内容を思いつけず、半年もお蔵入りさせたことを明らかにしている。それが、ある日、地下鉄のエスカレーターを上がっている時に突然アイデアが湧き、興奮して8回もエスカレーターを上り下りし、帰り道にあやうくバスに轢かれそうになったというエピソードを披露している。
 『動く指』は、「中傷の手紙」という古典的なテーマに挑んだ作品だとした上で、造形した登場人物の中でもミーガン・ハンターが特に気に入っていたことを明らかにしている。この作品の居心地よい村の雰囲気や登場人物が好きだとし、興味を引く犯罪は身近に出合うような人々の中で起きるものでなくてはいけないとしている。
 『パーカー・パイン登場』のパイン氏は、「コーナー・ハウス」で昼食をとっていた時に、うしろのテーブルで統計についてしゃべっていた、禿頭でメガネの、輝くような笑みを湛えた男性がモデルだったことを明らかにしている。お気に入りの作品は「不満な夫の事件」、「大金持ちの婦人の事件」で、後者は、執筆の10年前、ある店のウィンドウを覗いていて、見知らぬ女性に話しかけられた出来事がヒントになっているとのこと。
 『ねじれた家』では、「この本は私自身の特にお気に入りの作品」とし、あとの方でも、「私のベストの一つ」と呼んで、特別な思い入れがあることをうかがわせる。そのアイデアを何年も温め続け、練り上げた作品であり、「純粋な楽しみ」から書いたことを強調している。

 『自伝』によると、『死が最後にやってくる』は、助言者だったグランヴィル博士と結末の付け方で激論になり、助言を受けた負い目もあったために、珍しく自分の考えを撤回して博士の判断に従ったとされる。
 『自伝』では、その結末を今でも変えたいと悔やんでいるのだが、この序文を読む限りでは、そんなことはおくびにも出していない。(ロバート・バーナードも『欺しの天才』の中で、その結末を「骸骨同然」と酷評している。)死後に出版する予定だった『自伝』で初めて本音を漏らしたということか。お世話になった人への感謝の気持ちもあって、10冊の一つに選んだと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。
 クリスティが本来考えていたこの作品のプロットがどんなものだったかは、最近翻訳が出た『アガサ・クリスティーの秘密ノート』に手掛かりが残されている。そこに示唆されている、異なる結末の構想は、確かに意外性に富んでいて、クリスティらしいツイストの効いた魅力的な結末になったはずなのに、と少し残念に思う。
 同様に、「ケルベロスの捕獲」についても、同じく『アガサ・クリスティーの秘密ノート』に、別のバージョンがあったことが明らかにされていて、序文に書かれている以上に、完成に至るまでには複雑な経緯があったことをうかがわせる。
 現在のバージョンに出てくる、ポアロとロサコフ夫人がエスカレーターですれ違う場面は、まさにクリスティ自身がこの作品のアイデアを思いついた時の体験を反映したものだと分かる。
 作者自身による執筆の背景や思い入れが明らかになることで、それぞれの作品に対する見方や理解も新たな発見に触発されて深まっていくのが面白い。その意味でも、これらの序文は、いずれも短いものではあるが、貴重な記録ではないかと思う。

ヘラクレスの冒険

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