脱線の余談――右も左も分からない

 ここのところ、クリスティの戯曲に関する記事を立て続けにアップしているのだけれど、戯曲を読んでいてややこしいと感じるのは、舞台特有の位置関係の表示だ。演劇関係者にとっては当たり前の常識なのかもしれないが、素人にとっては、これが実に紛らわしいのだ。クリスティの場合、こうした位置関係の指示が実に煩雑に出てくるので、きちんとフォローして読もうとすると、配置図を頻繁に見返しながら読むはめになる。
 日本語では、舞台の右側を下手、左側を上手と言うが、これは舞台に立つ俳優の視点からの方向指示であり、観客に向かって下手(右側)、上手(左側)ということになる。従って、観客席から見ると、これは逆になるわけで、舞台配置図を見ると、下手(右側)と表示されたドアや家具が図面の左側にあるため、事情を知らないと、「なんだ、逆じゃないか」と言いたくなるのだ。
 Yohan Peal Libraryから出ていた“Murder on the Nile”では、おそらくこうした誤解を避けるため、最初の頁に、「Left(上手)」と「Right(下手)」は、俳優から観客に向かっての視点によるものであり、「Up」は奥の壁に向かってということだ、と、親切にも、原書にはない注意書きを英文で挿入している。
 このため、Rightは「下手」、Leftは「上手」、Upは「奥」、Downは「手前」と訳を振るのが普通であり、早川文庫から出ている戯曲の訳も、訳者は異なっても、みな概ねこのルールに従って訳している。
 なぜこんなことを説明してきたかというと、邦訳の『ねずみとり』における位置関係の訳語が混乱しているからだ。この訳書では、舞台写真と平面図の参照を指示する言葉に続けて、「なお左右の指示はすべて観客席の側からである」と加筆してある。おそらく訳者は、これも親切から加筆したのだろうが、ということは、通常の舞台用語における左右の指示とは逆にしたということになる。
 確かに、「観客席の側」からの方向に一致させれば、舞台配置図を参照しても、右側のドアと書いてあれば、それはそのまま図面の右側に表示されているドアを指すことになるし、右側に行くとあれば、そのとおり右側に行くことになるわけで、読者の視点に立っても、読んでいて実に分かりやすい。
 ところが、『ねずみとり』の訳文を原書と突合してみると、妙な処理をしていることに気づく。この訳書では、下手、上手、右手、左手という訳語が混在している。仮にそうでも、下手=右手、上手=左手と一貫していれば、さほど気にならないのだが、なぜか、下手と訳している箇所は、原文では‘Right’、上手は‘Left’と、通常のルール通りに訳しているのに、右手と訳している箇所は、原文では‘Left’、左手は‘Right’という具合に、「左右の指示」として訳している箇所だけ、訳語を逆転させているのである。
 例えば、「モリーが上手のアーチから現れる」という訳の原文は、‘MOLLIE enters from the arch Left’だが、「ソファの左手に進み」という訳の原文は、‘Moving down to Right of the sofa’となっているのだ。
 このため、‘CHRISTOPHER WREN enters through the arch up Right with a suitcase, which he places Right of the refectory table.’という文章は、「クリストファ・レンが下手奥のアーチから登場し、手にしたスーツケースを大テーブルの左手におく。」と訳す結果になっている。同じ‘Right’を訳しているのに、一方では「下手」、他方では「左手」と訳すものだから、この訳者の我流のルールを事前に理解していないと、なにがなんだか分からなくなってしまう。
 ただ、最初に書いたこととも関連しているが、演劇の素人であれば、上手、下手が左右どちらの方向を指すのか知らない人も多いだろう。だから、読み物として漫然と読み流している分には、特段の支障を感じることもなく、どっちの方向を意味するのかもよく考えないままに、すんなり読めてしまうことにもなりかねない。私の知る限り、この訳書について、上記の問題が取り沙汰されたことなど、ついぞ聞いたことがないのだが、おそらくはそういう事情にもよるのだろう。
 とはいうものの、我が国で「ねずみとり(マウストラップ)」を実際に上演した例は過去に幾つもあるはずだ。その際に、この訳書に依拠したのか、それとも、無視して原書を用いたのか、はたまた、オリジナルなどにはこだわらず、自由に演出したのかは知らないが、もしこの訳書に依拠したとすると、とんだ方向違いを犯している可能性がある。まさに右も左も分からない事態に陥りそうだ・・・。
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