アガサ・クリスティ 戯曲『アクナーテン』

 『アクナーテン』(Akhnaton)が実際に執筆されたのは1937年、ちょうど同じくエジプトを舞台にした『ナイルに死す』を執筆していた時期に当たる。しかし、結局、クリスティの生前に劇場で上演される機会がないまま、1973年にようやく刊行された。
 その理由について、チャールズ・オズボーンは、「この物語が侵略者に対し宥和政策をとることの愚かしさに論及しているからであろう。このような見方は1937年にあっては一般の世論の支持するところではなかったのである」と述べている(『アガサ・クリスティー生誕百年記念ブック』(早川書房)74頁)。オズボーンのこの論旨は、イギリス人にはピンときても、日本人には分かりにくいかもしれないが、当時は第二次大戦前夜であり、時の宰相、ネヴィル・チェンバレンによる対独宥和政策が念頭にあるのだ。チャーチルの『第二次世界大戦』も、前宰相への遠慮もあってか、あからさまな批判はしていないが、宥和政策さえなければ第二次大戦は回避できたという無念が行間からにじみ出ている。セイヤーズならともかく、クリスティが時局的な政治的主張を自作にひそかに織り込んでいたとは考えにくいが、オズボーンは、『アクナーテン』が当時としては先見の明のある政治的洞察を示していたと言いたかったのかもしれない。
 この戯曲の執筆に当たっては、クリスティが自伝で記しているように、アマルナの発掘などで知られる著名なエジプト学者で、夫マックス・マローワンの友人でもあった、スティーブン・グランヴィル博士の協力を得たとされる。なお、以前の記事でも言及したように、グランヴィルは、『死が最後にやってくる』執筆の際の助言者でもあったが、ミステリとしての結末の付け方にまで口を出し、クリスティは不本意ながらもその助言に従ったと自伝には記されている。
 それはともかく、実際の上演機会に恵まれなかった結果、ある意味、この戯曲はクリスティの加筆作業のプロセスを知る重要な手がかりにもなっている。サミュエル・フレンチのような演劇関係の版元ではなく、コリンズやドッド・ミードのような通常の出版社から刊行されたという事情もあるかもしれないが、初版を参照しても、この戯曲の刊行本には、小道具リストや照明の指示はおろか、舞台配置図すら載っていない。これらは版元の判断で省かれた可能性も否定はできないが、注目すべきはト書きだ。
 本作のト書きは他の戯曲に比べて驚くほど簡素で、上手・下手の方向指示も少なく、登場人物の舞台への登場・退場すら、どちらの方向からなのか分からない箇所が多い。他の戯曲では「中央下手寄りのテーブルのうしろを通って、誰それの上手側に行きながら」といった事細かな指示がいたるところに出てくるのだが、『アクナーテン』では簡潔な動作や表情の指示が大半だ。
 もちろん、この点については、執筆時期も考慮に入れなくてはならないかもしれない。『アクナーテン』は、クリスティにとって、『ブラック・コーヒー』に続く二作目の自作戯曲であり、この時期、まだ戯曲作家として十分な経験を重ねておらず、未経験の拙さが残った形のまま刊行された可能性はある。
 しかし、1930年に初演が行われ、1934年に刊行された『ブラック・コーヒー』の初版を参照しても、『アクナーテン』よりはずっと詳細なト書きが記入されている。ということは、クリスティは、最初はセリフを中心にして、ト書きについては、上演前の段階では簡単な指示にとどめた形で執筆し、実際の上演経験を踏まえてから詳細なト書きの加筆を行った可能性が高いのではなかろうか。ちょうどマーラーの交響曲のように、最初は作曲家の視点でスコアを書き、そのあと、実際に指揮する経験を踏まえて、指揮者の視点から事細かな演奏上の指示をスコアにびっしり書き込んでいったのと似ている。実際、「大地の歌」や交響曲第九番のように、マーラーが生前自ら指揮する機会のなかった曲のスコアは、それ以前の曲のスコアに比べて書き込まれた指示が非常に少ないのだが、そうした例と比較すると分かりやすい。『アクナーテン』も、著者の生前に上演機会があったなら、おそらくはもっときめ細かい指示が書き込まれていたに違いない。
 マーラーの交響曲も、作曲家の指示が指揮者を拘束しすぎるとして、フルトヴェングラーのように嫌う指揮者もいたし、今でも指示を大胆に無視する指揮者が少なくないのだが、そういう意味では、『アクナーテン』は演出家や俳優が自発性を発揮しやすい作品と言えるのかもしれない(もっとも、「三幕十場にエピローグが付き、十六年という歳月の経過が描かれ、九ハイのセット、“その他大勢”を除いて二十人の登場人物といった大がかりな芝居」(『アガサ・クリスティー読本』早川書房189頁)とあっては、なかなか上演の難しそうな戯曲ではあるのだけれど)。
 なお、アクナーテンの元の名はアメンホテプ四世であり、「アメンホテプ」は「アメンは満足する」という意味の名。従来の多神教を捨てて太陽神アテンに帰依したファラオは、第十八王朝のこの伝統的な名を捨てて、「アクエンアテン」(アテンに有用な者)と改名したのである。この点は、私自身、『オシリスの眼』の解説で触れたことだが、従って、早川文庫の登場人物表に、アクナーテンの説明として「後のアメンヘテプ四世」とあるのは明らかに間違い(私以外にも、他のサイトで指摘しておられる方がいる)。
 原書にも冒頭に登場人物表があるが、ツタンカーテンのところには、‘Afterwards called Tutankhamun’と説明が付されていて、ここは「後のツタンカーメン」という訳も合っているし、歴史的にも正しい。ツタンカーテンは、ファラオ即位後に再び都をテーベに戻し、アメン信仰に回帰して、アテン神ではなくアメン神の名を取り入れた名に改名したからだ。
 ところが、Akhnatonのところは、単に‘Amenhotep Ⅳ’と記してあるだけで、「後の」は翻訳で付加されたものと分かる。従って、著者クリスティの誤りではなく、明らかに訳の誤りなのだが、この箇所はクリスティー文庫に移行した際も訂正されていないようだ。
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