レスリー・ダーボン脚色 戯曲『ひらいたトランプ』

 レスリー・ダーボンが脚色した『ひらいたトランプ』は、1981年12月9日、ロンドンのヴォードヴィル・シアターで、ピーター・ソーンダーズのプロデュースにより初演が行われた。この台本は、翌1982年にサミュエル・フレンチ社から刊行されている。
 チャールズ・オズボーンによる『ブラック・コーヒー』や『招かれざる客』のように、著者クリスティの没後、他者が戯曲を小説に書き改めたものがある一方で、ダーボンが脚色した『予告殺人』や『ひらいたトランプ』のように、小説を戯曲に脚色したものも出ているわけだ。
 もちろん、クリスティの生前にも著者以外の脚本家による戯曲版は幾つもあったし、なかでもよく知られているのは、『アクロイド殺害事件』を脚色したマイケル・モートンの『アリバイ』と、「ナイチンゲール荘」を脚色したフランク・ヴォスパーの‘Love from a Stranger’だろう。
 クリスティ自身がギネス記録を持つほどの神話的な戯曲作家であり、生前は他人の脚色した自作の劇化作品に厳しい目を向けた人でもあっただけに、彼女の没後に原著に手を加えた人々も、それなりにプレッシャーを感じたであろうことは想像に難くない。
 オズボーンによる戯曲の小説化は、原著を意識しすぎて元の作品の構成に過度にとらわれ、かえってオリジナリティの乏しいつまらなさがつきまといがちだったが、これは、許可を与えた遺族への配慮があるだけでなく、クリスティという偉大な存在への畏怖の念もあってのことではないだろうか。同様のことがダーボンの戯曲からも感じられる。
 クリスティは、最初の戯曲『ブラック・コーヒー』を除いて、以後のポアロ物の長編の戯曲化に際しては、ポアロをことごとく登場人物から省いた。プロットを単純化する必要性、ポアロの具象化の忌避など、理由はいろいろあろうが、ポアロというオーラの強烈すぎる存在が場をあまりにも支配しすぎ、他の人物の個性や要所での見せ場を霞ませてしまうという危惧もあったためではないだろうか。
 ダーボンは、『ひらいたトランプ』の脚色に当たって、クリスティの例に倣ってポアロを省いた設定にしている。いかにも原著者の精神を継承したと言わんばかりだが、実際は似て非なるもので、オリジナリティがないだけでなく、かえって原作長編よりはるかに魅力の乏しい代物になってしまったように思える。
 ポアロに代わって謎解きをするのは、原長編にも登場するバトル警視。ところが、原作では唯一主役を務めた『ゼロ時間へ』でもこれほどではなかったと思えるくらい、いきなり聡明な「名探偵」に変貌してしまっている。知らない人ならともかく、警視の登場作品を読んだことのある読者なら、ブリッジの得点表をもとに滔々と弁じ立てる謎解きに目を丸くすることだろう。当たり前だ。本来、ポアロが大見得を切った謎解きを代わりにやっているのだから。それも、原作では、犯人が逮捕されたあとに、ポアロが謎解きの解説をしているのだが、戯曲では劇的効果や効率化も計算してか、謎解きから犯人の逮捕まで畳みかけるように展開するものだから、ポアロもかくやと思わせるほどの快刀乱麻ぶりだ。クリスティ自身の戯曲「ゼロ時間へ」では、トリーヴズ弁護士とうまく役割分担していたため、そこでも警視の推理の切れ味はそれほど鋭利ではなかったというのに。違和感ありすぎのバトル警視なのだ。
 クリスティの場合は、ポアロを省いたとはいっても、この不世出の名探偵に代えて、(『死との約束』は例外かもしれないが)それなりに個性のある、然るべき探偵役を新たに設定してオリジナリティを生み出すのが常だった。‘Murder on the Nile’のペネファーザー司祭、『ホロー荘の殺人』のカフーン警部、『殺人をもう一度』のジャスティン・フォッグ弁護士がそうだ。『死との約束』も、サラ・キング医師に、元の長編以上に強烈な個性を賦与することで代役を果たさせていると見ることもできる。
 だからこそ、‘Murder on the Nile’のクライマックスにおけるペネファーザーと犯人との対峙、『殺人をもう一度』のラストにおける意外なエンディングといった、小説とは一味違った独自の見せ場を盛り込むことができたといえるだろう。
 ところが、ダーボンの『ひらいたトランプ』では、ポアロを省いた代わりに、探偵役をバトル警視にシフトさせただけで、単なる「一名減員」になったにすぎず、戯曲版ならではの新たな魅力もなければ、見せ場もない。役所の行革や企業のリストラではあるまいし、人を減らせばコスト削減と効率化を達成できるというものでもあるまい。
 厳しめの言い方をして恐縮だが、ポアロを省くという皮相的な手法だけを模倣してみても、その意図するところや、これに伴う工夫を消化し切らない限り、クリスティ自身がその手法で実現した戯曲ならではの魅力やオリジナリティは到底達成できないことを示す悪い見本のように思えてならなかった。もっとも、ダーボンの脚色から翻ってクリスティ自身の戯曲化のテクニックを顧みることで、その卓越性に改めて気づくという皮肉な成果もあったのだけれど。
 なお、長編の邦訳では、被害者の‘Shaitana’という名は「シャイタナ」と表記されているが、戯曲版の「プロダクション・ノート」には、「セイタナ」と発音すると注意書きが付されている。
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