脱線の余談――Iadadoveandasweedovedied-

 タイトルをご覧になって「なんだこれは?」と思われた方が多いだろう。実は、この意味不明の文字羅列は、アガサ・クリスティの『死との約束』に出てくる言葉なのだ。
 邦訳の第二部第十章をご覧いただきたい。通訳ガイドのマフムード(邦訳では「マーモード」と表記)がポアロに向かって英語の詩を引用してみせるくだりがある。
 邦訳では、マフムードが、「ぼくはこれでもミッション・スクールで教育を受けてるんですよ。ひとつ、キーツか、シェリーの詩を暗唱してごらんにいれましょうか――」と発言する。これを受けて、「ポアロはいささかこれには閉口した」という反応を示したことになっている。
 原文を見なくても、ポアロが「閉口した」というからには、「これ」に相当する実際の引用があるのではないかとピンとくる人も多いだろう。そう、実際、原文を参照してみると、マフムードの発言は、

“Now I, I have advantage of Mission education. I recite to you Keats—Shelley—‘Iadadoveandasweedovedied—’”

となっている。この最後の‘Iadadoveandasweedovedied’の部分を邦訳は省いてしまっているのだ。
 私も詩に詳しいわけではなく、キーツとシェリーの代表的な詩に当たってはみたものの、見方が悪いのか、それとも、気づかなかった他の詩があるのか、これだと突き止めることができなかった。邦訳の訳者も、おそらく、このひどく訛った引用の原型がどんな詩なのか見当がつかず、いい加減に訳すよりは、いっそ省くという選択肢を選んだのだろう。
 ヒントになるかどうか分からないが、戯曲版の『死との約束』には、マフムードを原型にした、アイッサという片言の英語を話す通訳ガイドが出てくる。アイッサも、自分がミッション・スクールで教育を受けたという証に、やはり英語の詩を引用するのだけれど、これは

 ‘Hail-to-the-blysprut Birtoneverwort’

となっていて、登場人物のミス・プライスが、パーシー・シェリーの「ひばりに寄せて」だと気づく。有名な詩だが、原詩の冒頭部分は、

 Hail to thee, blithe spirit!
 Bird thou never wert,

となっていて、なるほど、これが訛ったものかと分かる。「ごきげんよう、陽気な妖精! 君は鳥とは思えないよ」といった意味だ。しかし、残念ながら、小説のほうの引用は結局分からずじまい。どなたか詩にお詳しい人がいたら、ぜひご教示いただければ幸いである。
 ちなみに、第一部第五章で、ジェファースン・コープが「ペトラのローズ・レッド・シティ(the Rose Red City of Petra)」と言及しているのは、ジョン・ウィリアム・バーゴンの詩「ペトラ」に由来する。
 さらに、第一部第十章で、サラ・キング医師が「死の谷へ――死の谷へと降りて行くのだ……」(Down into the valley of death-down into the valley of death...)と独白しているのは、アルフレッド・テニスンの詩「竜騎兵の突撃」(The Charge of the Light Brigade)からの引用だ。

 なお、『死との約束』には、ほかにも聖書からの引用があって、さすがにこれは突き止めやすいのだけれど、邦訳では必ずしも分かるようになっていないようだ。
 まず、邦訳の第一部第十二章に、

 「多くの人のために一人が死ぬということなら、われわれにとっては好都合ですがね」と、ジェラール博士はまじめに言った。

というくだりがある。原文では、

 “It is expedient for us that one man should die for the people!”quoted Gerard gravely.

となっていて、‘quoted’とあるのだから、明らかに引用と分かるのだが、邦訳では医師自身の言葉としか思えない。
 これは新約聖書「ヨハネによる福音書」第十一章五十節、大祭司カイアファの言葉の引用。新共同訳では、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」となっている。
 また、その少し先に、やはりジェラール医師が、「わたくしはさかのぼって」云々と、延々と引用するくだりがあるのだが、これは旧約聖書「コヘレトの言葉」第四章第一~三節からの引用。
 あえて該当箇所の全体を新共同訳から引用すれば、以下のとおり。

 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。
 見よ、虐げられる人の涙を。
 彼らを慰める者はない。
 見よ、虐げる者の手にある力を。
 彼らを慰める者はない。
 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。

 いかにも旧約の知恵文学らしい、暗唱に適した韻文だが、『死との約束』の邦訳では、「圧制者」、「権力」といった政治的な意味合いを持つ語彙を用いつつ、いかにも散文的に訳しているため、現代の文献からの引用と錯覚しかねない。
 以前も別の記事で述べたけれど、日頃からせめて聖書とシェークスピアぐらいには親しんでおくことが英米文学を理解する上で役立つことが多いものだ。などと偉そうなことを言いながら、うっかり見過ごすことも少なくないので、これは自戒の言葉でもある。
 まして、詩の引用となると歯が立たないことも少なくない。推理小説でも、例えば、セイヤーズなどは、登場人物にポンポン引用させるものだから、腹立たしくなって本を投げ出したくなったことが何度もある。故浅羽莢子さんは几帳面に出典を突き止めて訳注を付けておられたが、本当に頭の下がる思いがしたものだ。
 情けないことながら、私はおよそ詩心とは縁がなく、自分で作るのはもちろんのこと、詩の傑作とされるものを読んでも、まるでモダンな抽象画を鑑賞しているみたいにピンとこないことのほうが多い。「盗まれた手紙」には感心しても、「アナベル・リー」となると、はてさて・・・(笑)
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ジャンル : 小説・文学

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Iadadoveandasweedovedied の出典

いつも楽しく読ませていただいています。

今回のエントリで話題になっている、"Iadadoveandasweedovedied"についてですが、もしかしてジョン・キーツの"I had a dove, and the sweet dove died"ではないでしょうか?
(詳細はこちら⇒ http://mural.uv.es/ancampe/keats.html

シェリーの「ひばりに寄せて」とともに、鳥をモチーフにしたロマン派の詩ということで、どうもそれらしい感じがします。

素晴らしい!
よくぞご教示くださいました!
感謝申し上げます。
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