脱線の余談――物は言いよう

 ヘレン・マクロイの『小鬼の市』を読み終えたという友人。なかなか面白かったという。ところが、同じ本を話題にしているのに、妙に話がかみ合わない・・・。その部分の会話を補正も加えて再現すると、概ね以下のとおり。
 「僕も『小鬼の市』はそれなりに面白いと思ったけど、戦時中に書かれただけあって、一種の反枢軸国プロパガンダになっているところがちょっと気にはなったね。もちろん、時代背景を抜きに理解も評価もできないんだけどね。
 実は僕は米初版で読んだんだけどさ。なにしろ、1943年という大戦のさなかに出版されたものだろ。扉に「ビクトリー・エディション」と記されていてね。「この本の活字のサイズと型は、戦時生産委員会の紙資源保護令に従っている」なんて説明があるのさ。紙資源保護令というからには、できるだけ活字を小さくして紙を無駄にしないように規制をかけたんだと思うけど、実際はさほど細かい活字でもないし、なるほどよくよく見れば余白が比較的少ない印象はあるんだけど、そう言われない限り気づかないよ。
 戦時の制約があったといっても、70年も前の本だというのに、いまだに保存状態もいいし、黄ばみや痛みもほとんどないのは、元の所有者(注-写真家のアルフレッド・アイゼンスタット)が大切に保存していたというだけじゃなくて、実際、紙質もいいからなんだ。食糧すら満足に確保できなかった当時の日本と比べて、アメリカはこれほど悠々とした生活水準を維持していたんだな、と思ってね。しかも、こっちは言論も出版も自由ではなかった時に、アメリカでは、人々はこんな娯楽作品を読んでたんだ、なんてことまで思っちゃったわけよ。なにしろ日本への言及がチクチクと出てきたからね」
 「へえ、原書で読んだのかい。確かに、当時、アメリカは日本と戦争してたわけだけど、さいわい、ストーリーはナチス・ドイツを敵に想定した話になっていて、日本のことはそれほど出てもこなかったし、あんまり気にならなかったけどね。確か、『暗い鏡の中に』では、ウィリングは日本に行ってたって話も出てきたよな。案外、マクロイは日本が気に入ってたのかもしれんぞ。「燕京綺譚」なんて東洋趣味の短編まであるくらいだし」
 「ずいぶんと寛大な見方するじゃない。けっこう日本人のことを悪しざまに書いてたのに。登場人物の一人が、香港にはジャップどもがゴキブリのようにうようよ群がってると吐き捨てる場面だってあったじゃないか」
 このあたりまで来て、友人はなんとなく違和感を抱き始めたようで、
 「・・・悪いけど、そりゃなんかの勘違いだろ。そりゃ、俺たちは親も戦争を知らない世代に属するわけだから、大戦は既に「歴史」の域に入っちゃってるわけだけどさ。「ジャップ」なんて言葉が出てきたら、さすがに俺だって目に留まるし、気づくぜ」ときたものだ。
 そう言われると気になってしまい、訳本を借りて確かめてみることにした。すると・・・
 まず日本が言及されるのは、邦訳81頁以下。スタークを暴漢が襲うシーンだ。この暴漢たちが使う技は、「またしても日本式だ――きわめて素朴で強靭な人々が暮らす、極東の島国で生まれた技だ」(82頁)という。
 原文は、

More Jap stuff—a trick from the lonely outlying islands of Nippon where the people were unusually simple and savage…

 「孤立した辺鄙な(lonely outlying)」島国に住む「単純で野蛮(simple and savage)」な民族が生み出した技だからこそ恐ろしいのではないのか。「素朴で強靭」とは、まるで褒められてるみたいだ。
 その少しあとに出てくる「冷徹で、しかも腕が立つ」も、原文は、‘skillful and ruthless’。「冷酷(ruthless)」と「冷徹」は一字違いだが、意味合いは随分違う。
 同頁の「暴漢二人組は日本人ほど痛みに強くなかった」は、原文では

They were not as impervious to pain as Japanese would have been.

 日本人は「痛みに無感覚(impervious to pain)」だとは、まるで神経が他国民より麻痺しているみたいだが、「痛みに強い」というと、実に忍耐強い民族だと褒められているような気がする。
 会話に出てきた香港云々の部分は、邦訳では164頁。「日本人がうようよしているのが玉に瑕ですがね」とエメットが語る箇所だ。原文は、

Tiresome to think of those wretched little Japs swarming all over it like cockroaches…

 ‘wretched little Japs’が「ゴキブリのように」うようよしていると言っているのだが、随分と丸く省いて表現してくれたものだ。
 もちろん、著者のマクロイを批判する意図があって原文を示しているわけではない。それを言うなら、エラリー・クイーンだって、1945年の『フォックス家の殺人』では、「日本兵を何人ぐらいやっつけましたかね?」などと登場人物に臆面もなく発言させたりしているわけだが、これだって時代的制約を無視して理解することはできまい。今は英語教育に力を入れている日本だって、「鬼畜米英」などと呼んで英語の使用を制約していた時代があったのだ。そんなことに目くじらを立てて、来日もし、日本ミステリのアンソロジーも編んだほどの親日家だったクイーンが反日感情の持ち主だったと思う者はいないだろうし、来日の際に『フォックス家の殺人』の記述を持ちだして誰かがダネイ氏に詰問したなどという話もついぞ聞いたことはない。けだし当然だろう。
 ただ、以前の記事でも書いたように、マクロイは後年、戦争への言及は今日ではそれ自体が歴史的な関心の的だという理由から、初期作品における第二次大戦への言及が後の版で削除されたのは間違いだったと語っていた。戦後間もない頃は、敵国から同盟国・友好国になったばかりの日本やドイツに対する配慮もあって、過去の刺激的な記述を削除・訂正することが適切と思われた時期もあったかもしれない。しかし、大戦が歴史に属するものにもなった現在、そんな配慮よりも、同時代を理解するよすがとして、当時の記述をそのまま活かすことがむしろ適切な対応ともいえるからだろう。
 その意味で、個人的には、原意を活かして訳せばいいのに、とも思うし、貶し言葉が褒め言葉に代わってしまうようでは如何なものかと思わぬでもない。とはいうものの、いくら世代が違うとはいえ、日本人を貶す表現が出てくれば気分がいいものではないし、だからこそ印象にも残ったわけだ。もしかすると同書の訳者は、読者にミステリとして素直に楽しんでほしいとの願いから、要らざる不快感を与えまいとの配慮を訳に反映させたのかもしれない。そのことを多とする読者もきっといることだろう。なので、良し悪しを云々するつもりはないし、そこは一人一人の読者の判断かもしれない。
 さらなる余談になるかもしれないが、邦訳では省かれているものの、原書には、

To the Air Raid Wardens
Of Sector Ⅰ, Zone A, Precinct 15,
In the City of New York

という献辞がある。これも戦時を偲ぶよすがというものだろう。
 なお、近々、同書の続編、“The One That Got Away”の邦訳も刊行されるそうだ。お気に入りの作品だけに、これも友人に勧めたいところだ。


小鬼の市
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テーマ : ミステリ
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