チェスタトンはいつ「ディテクション・クラブ会長」になったのか?

 前の記事の続きで、チェスタトンの「ディテクション・クラブ」会長就任の問題をさらに詳しく紹介しておこう。
 ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、バークリーからチェスタトンにクラブ参加の打診をしたのは、1929年12月27日付けの書簡とされている。これと、1930年1月4日付けの「会員名簿」の存在から、グリーンは、クラブの創設は1929年暮れか1930年初頭と推測しているわけだが、この問題については前の記事で述べたので繰り返さない。
 問題は、上記のチェスタトン宛て書簡は、あくまでクラブへの参加を打診したものであって、会長就任への要請ではなかったということだ。従って、チェスタトンがクラブに加わったのが仮に1930年だったとしても、会長就任はもっとあとだった可能性も否定はできないことになる。
 “Detective Fiction: The Collector’s Guide”(1994)のジョン・クーパーの記述によると、1928年に設立されたクラブの会合は、当初、ロンドンのキングリー・ストリートで行われ、バークリーが名誉幹事(honorary secretary)だったという。(アール・F・バーゲニア編“Twelve English Men of Mystery”(1984)でバークリーの部分を担当しているウィリアム・ブラッドリー・ストリックランドも、やはり、バークリーが1928年に「ディテクション・クラブ」を創設し、「クラブ」の名誉幹事になったとしている。「名誉幹事」の役職は、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”でバークリーの項目を執筆しているメルヴィン・バーンズも言及している。)ジェラード・ストリート31番地に場所を確保したのは、リレー長編などの刊行で資金を得られるようになってからのことなのだ。
 とすれば、チェスタトンが事実上の会長となるまで、バークリーが「名誉幹事」としてクラブを仕切っていたと考えることも可能だろう。『毒入りチョコレート事件』(1929)の「犯罪研究会」会長、ロジャー・シェリンガムは、クラブの名誉幹事にして作者であるバークリー自身を投影したものと考えれば、なんの不自然さもない。チェスタトンに「似ていないのも道理」だ。
 サイモン・ブレットによれば、チェスタトンの会長就任については、1930年とするソースがある一方で、他の幾つかの典拠では、「チェスタトンは1932年になるまで会長のマント(職責)を引き継ぐことはなかった」とされているという。典拠の例として、1930年としているクラブの「会員名簿」と、チェスタトンの治世は1932年に始まったとしている、クラブのヘッダー付き便箋を挙げている。
 興味深いのは、1930年としているソースには、「会長(president)」ではなく、「リーダー(leader)」と言及しているものもあるとブレットが述べている点だ。つまり、1930年にチェスタトンがクラブに参加した時点で、仮にチェスタトンがクラブの会長に擬せられていたとしても、それはまだ正式なものではなかった可能性があるのだ。
 もちろん、これはあくまで推測だが、チェスタトンは、ブラウン神父の生みの親、英ミステリ界の重鎮として、1930年の時点で、事実上、クラブのリーダーに擬せられていたのかもしれないが、会合において「会長」という役職を正式に定め、チェスタトンがこれに就任するという手続きを踏んだのは、クラブの会則が定められた1932年のことだったと考えれば辻褄が合う。それ以前の呼称がソースによってまちまちなのも、そう考えれば分かりやすい。
 ブレットは、慎重にも、ここまで大胆な推測は述べていないのだが、もしそうだとすれば、ディテクション・クラブは、さながら、私的な会合から、正規会員からなる任意団体を経て、代表や定款も定めた法人にまで成長していったようなプロセスを辿ったと見ることができる。その間に、リレー長編のような活動も行って資金を得、のちには常設の会合場所も確保できるようになったわけだ。
 年代記風に整理すると、概ね以下のようになる。
 1928年       バークリーから他の作家たちへの定期的夕食会開催の呼びかけ(ロードの証言)
 1929年12月27日 バークリーからチェスタトンへのクラブ参加打診
 1930年1月4日  クラブ会員名簿の作成
 1930年       「屏風のかげに」の「リスナー」誌連載
 1931年       「ザ・スクープ」の「リスナー」誌連載
 1932年3月11日  クラブ会則の制定(チェスタトンの会長就任?)
 どの時点をもってクラブの正式な創設と見るかは、それこそ法律の規定に基づいた法人設立でもないわけで、捉え方の問題ということになってしまうが、会則制定をもって正式にクラブとしての形を成したとみなすのであれば、カーをはじめとする1932年説もあながち誤りではないとも言える。チェスタトンの正式な会長就任もこの時であったのなら、なおさらだろう。もっとも、リレー長編などの活動が既に行われていたことを考えると、さすがに無理があるのだが。(カーがクラブに加入したのは、1936年。)
 (蛇足かもしれないが、いわば、鎌倉幕府の成立が、頼朝が征夷大将軍になった時(1192年)か、日本国総追捕使・総地頭になった時(1185年)か、南関東に実質的な勢力を確立した時(1180年)か、という議論と似たようなものだ。かつての教科書では、「イイクニつくろう鎌倉幕府」で1192年と教えられていたものが、学説の変遷を踏まえて、今では「イイハコつくろう鎌倉幕府」で1185年になっているのだが、学習上の便宜として、ある年に特定するのは仕方ないにせよ、現在の支配的な見解は、ある時点をもって幕府が一度に成立したのではなく、段階を経て徐々に成立していったというものだろう。いずれにしても、頼朝の征夷大将軍任官という形式的なメルクマールをもって幕府成立と見なす説は現在では分が悪いから、教科書も改められたのだ。)
 ブレットも、“The Detection Collection”(2005)の序文で、クラブ創設の正確な日付については議論があり、1930年のほか、1929年、1932年とするものもあるとしているが、それも上記の推移をご覧いただければ分かるだろう。1928年頃に始まったとされる最初期の会合をカウントしていないのは、巻末の略史ではこれを「前史」と位置付けているからだろう。
 以上は、乏しい情報をもとにいささか大胆な推測も交えた再構成であり、どこまで事実を捉えているかは今後の検証を俟ちたいと思うが、このように、ディテクション・クラブには未だに興味の尽きない謎がいろいろあるようだ。
 なお、自身、現会長でもあるブレットは、会長がまとうローブについて触れている。それは赤いサテンの学者風のローブで、新メンバーの入会の儀式の際にまとうものだが、ゆったりした輪郭に裁断されているため、初代会長のチェスタトンの体格に合うように仕立てられたものであり、セイヤーズの体格にもちょうどよかったのだろうと想像しそうになる。ところが、実は、オリジナルのローブは1960年代にサヴォイ・ホテルでの夕食会のあとに紛失してしまい、現在のローブは複製品なのだそうな。
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