アガサ・クリスティ 戯曲『評決』

 『評決』(Verdict)は、クリスティのオリジナル戯曲だが、クリスティ自身の思い入れとは裏腹に初演時から不評で、ドッド・ミード(ハーパー)の戯曲集版に序文を寄せたアイラ・レヴィンも、「デイム・アガサは、『検察側の証人』を別にすれば、これを自分の戯曲のベストと考えていた。私はそこまで高くは評価しないが、ここでの私の役割は、とやかく言うことではなく、ご紹介すること」と素っ気ない言及ですませている。
 初演は、1958年5月22日、ピーター・ソーンダーズのプロデュースにより、ロンドンのストランド・シアターで行われた。初日の舞台では、舞台監督の助手が手違いで終幕の幕を数十秒(J・C・トレウィンによれば30秒、チャールズ・オズボーンによれば40秒)早く降ろしてしまい、肝心の結末部分が失われてしまうというハプニングがあったらしい。
 邦訳があるのでストーリーの紹介は省くが、邦訳は、もともと「ミステリマガジン」1985年4月号に掲載され、2004年に早川のクリスティー文庫『ブラック・コーヒー』に標題作とともに収録された。単行本化されるまでに要した時間もさることながら、「ブラック・コーヒー」と併録されたのも、単独ではさすがに売れないと版元も見込んだのだろうか。
 本作の初版は、サミュエル・フレンチ社から1958年に刊行されたが、例によって、フレンチ社の台本版とドッド・ミード等の戯曲集版とではテキストに異同がある。戯曲集版のテキストはト書きの改行やスペースをやたらと詰める傾向があるのですぐ分かるのだが、邦訳は戯曲集版を底本にしている。
 フレンチ版では、冒頭に「注(Note)」が掲げられていて、「アマランス:“Love-lies-bleeding”と呼ばれる植物の別名。しぼむことのない想像上の花。語源は、ギリシア語のamaranthos(決してしぼまない)」と記されている。この花の名が重要であることを強調する意図もあったのだろう。戯曲集版には、この「注」は欠けており、邦訳にも載っていない。
 クリスティは当初、「アマランスの野はなし(No Fields of Amaranth)」というタイトルを考えていて、「評決」よりこちらのほうがよかったのではないかと思っていたようだ。ラストの場面からも分かるように、実際、「アマランス」という花の名は重要な役割を演じているのだが、邦訳では、「注」を省いたのもさることながら、読んでいても、この花の名がどこに出てくるのかよく分からない。
 邦訳の第一幕第一場で、ライザが、「その墓の此岸に常世の花の野はなし」というウォルター・サベイジ・ランドーの詩を引用するが、この「常世の花」の原語が‘amaranth’(次のライザのセリフに出てくる「永遠の花」も同じ)。(文庫版では、それぞれ「永遠の花の野」、「枯れない花の野」と表現が変わっている。ほかにもあちこち訳文に手を入れているようだ。)邦訳では、特定の花の名だと分からないし、「常世(永遠)の花」の「野」なのか、「常世(永遠)」の「花の野」なのか紛らわしいのだが、邦訳『アガサ・クリスティー読本』204頁の「不凋花」という訳語のほうがまだしっくりくるかもしれない。
 永遠にしぼむことのない花のような理念を追求するばかりで、そのために、かえって現実に存在する身近な人々に苦しみをもたらしてしまうカールに向かい、「アマランスの野は彼岸にしか存在しない」とライザが語る場面にこそ、この戯曲のクライマックスがあることが分かるだろう。
 何度か出てくる「ラフマニノフのピアノ協奏曲」は、巻末の小道具や効果の手配を見ても第何番か指定されていないが、もちろん、あの有名な「第二番ハ短調」のことだろう。第三番も悪くない曲だが、第二番の人気にはかなわない。映画では、デビッド・リーン監督の「逢びき」、ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンロー主演の「七年目の浮気」でも使われた。(リヒテルやアシュケナージの名盤はつとに有名だが、個人的には、冒頭の和音をアルペッジョなしで弾いているリヒテルの演奏のほうが気に入っている。)
 戯曲集版は、例によって巻末の舞台配置図、小道具や照明等の手配を載せていない(さらには、なにゆえか、初演時のデータも省かれている)。ところが、なぜか邦訳には舞台配置図が載っているではないか。なので、フレンチ版も参照したのかと思ってしまいそうになるのだが、改めて照らし合わせてみると、邦訳の舞台配置図はフレンチ版の図とかなり異なっていることに気づく。
 おそらく、訳者(もしくは編集部)は、舞台配置図が底本に掲載されていなかったものだから、本文の説明やト書きから再構成して、みずから図面を描いたのだろう。すごいことをやるものだ・・・。
 ご参考までに、フレンチ版に掲載されている舞台配置図をアップしておく。


評決
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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No title

こんにちは。
昔の早川ミステリ文庫のブラック・コーヒーには収録されてなかったような覚えがあります。
だからクリスティー文庫借りて読んでみることにします!
確か自伝にも出てきた名前だったので読んでみたかったんですよねー

僕は「ミステリマガジン」掲載版を持っていますが、確かめてみると、文庫収録版はかなり訳文に手を入れてますね。文庫版のほうが改善されていると思います。
もうじき“Hercule Poirot and the Greenshore Folly”も刊行されるし、これもいずれは邦訳が出るかも。読破したと思っていると、新しい発掘品が出てきたりして、ポアロ物って全部で何作だっけ?・・・と次第に怪しくなってきちゃいました(笑)
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