アガサ・クリスティ ‘The Tragic Family of Croydon’

 『警察官に聞け』の新版に収録した‘Detective Writers in England’は好評をもって受け止められたらしく、続いて“Six Against the Yard”の新版を出す際、出版社は、推理作家たちが完全犯罪に挑戦した同書の性格に応じて、クリスティが完全犯罪をテーマに書いたものがないか保管文書を調べてほしいと要請した。こうして見つかり、この新版に収録されたのが‘The Tragic Family of Croydon’である。
 ここで扱われているのは「シドニー事件」。1928-9年にサリー州サウス・クロイドンで三人が毒殺された実際の事件である。
 最初の犠牲者は、エドマンド・クレイトン・ダフという59歳の男性。1928年4月26日、夕食後に気分が悪くなり、翌日死亡。検死解剖の結果、自然死と判断された。
 翌年2月14日、今度は、ヴェラ・シドニーという40歳の女性が昼食後に気分が悪くなり、同じ食事をとった料理人、母親のヴァイオレット・シドニー、飼い猫にも症状が表れるが、彼らは回復し、ヴェラだけが16日に死亡。最初の犠牲者のダフ氏は、ヴァイオレットの娘婿だった。
 最後の犠牲者はヴァイオレット自身で、翌3月5日、昼食後に気分が悪くなって死亡。疑惑を抱いた親族が調査を要請し、ヴェラとヴァイオレットの遺体が発掘されて解剖が行われる。その結果、二人の遺体からはヒ素が検出。その後、未亡人の反対を押し切って発掘されたダフ氏の遺体からもヒ素が検出される。
 家庭内の人間が犯人であるのは確実と思われ、ヴァイオレットの息子トマスをはじめ、家族や料理人も疑われたが、第一容疑者はダフ氏の未亡人、グレースだった。地元の人々は、彼女が、クロイドンの検死官で、三人の事件の証拠を処理したジャクスン医師と不倫関係にあり、医師がダフ氏の死にも関与し、事件をもみ消したのだとゴシップを囁いた。夫の殺人がうまく片付いたので、グレースは財産目的であとの二人も殺したのではないかというのが人々の噂だった。グレース・ダフは1973年に死去し、事件は未解決のまま今日に至っている。
 ‘The Tragic Family of Croydon’は、この「シドニー事件」に関してクリスティが「サンデイ・クロニクル」紙に1929年8月11日付けで寄稿した要請文である。遠い過去の事件ではなく、近々に起きた事件に関わるものであることから、推理作家の立場で未解決事件の推理をしたものというより、主眼は無実の事件関係者への同情を表明し、関係者への配慮と事件の早期解決を訴えることにあったようだ。
 そうは言っても、クリスティは、断定的な判断は慎重に避けつつも、それなりの推理を展開している。
 クリスティは、ダフ氏、ヴェラ、シドニー夫人の三人の死について、個別になら動機を持つ者がいたとしても、三人全員を殺す動機を持つ者を見出すのは難しいとしている。シドニー家の家族は、ヴェラとシドニー夫人の死により利益を得るが、ダフ氏を殺しても金銭的な利益を得る者はいないからだ。その一方で、三人ともヒ素で毒殺されていることから、犯人は一人に違いないと考える。
 そこから、事件解決の手がかりは最初のダフ氏の殺人にこそあると考え、ダフ氏の死の謎を解くことが、ほかの二人の殺人の解決も導くに違いないとクリスティは考えている。一つの可能性として、ヴェラとシドニー夫人がダフ氏の殺人の真相に気づいたか、疑いを抱いたのかもしれないと示唆している。ダフ氏に敵がいたのは確実であり、その敵が誰かを明らかにすることに事件全体の解決の鍵があるとクリスティは考える。
 しかし、クリスティが最も気にかけているのは、世間から猜疑や好奇の眼で見られ、私生活すらも穏やかに過ごせなくなっている無実の家族たちのことだ。特に、悪意のある匿名の手紙に悩まされ続けていることを推察して、マスコミがこうした手紙の主に対する抗議行動を取ってほしいとしている。クリスティは、シドニー事件が一日も早く解決して、無実の人たちが疑惑から解放されることを希望し、心からの同情を表明して要請文を結んでいる。
 穿った見方かもしれないが、クリスティが示している同情には、自身、ほんの数年前に失踪事件を引き起こして、大衆やマスコミの好奇の目にさらされた、みずからの辛い経験が色濃く根ざしているのではないだろうか。推理作家としての洞察よりも、クリスティの人柄がにじみ出たエッセイとなっているようだ。
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