『そして誰もいなくなった』の叙述と翻訳――差別用語の難しさ

※『そして誰もいなくなった』のネタばれをしていますので、未読の方は御留意ください。

 アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は、1939年の英初版では、“Ten Little Niggers”というタイトルで発表された。ところが、‘nigger’が差別用語だということで、1940年の米初版では“And Then There Were None”と改題され、1964年の米ペーパーバック版では“Ten Little Indians”というタイトルも用いられたことはよく知られている。
 この言葉はタイトルだけでなく、本文にも島の名前や童謡などで出てくるため、これらの言葉はのちの版ではほぼ‘Indian’に改められた。早川文庫の清水俊二氏による旧訳は、これに従って、島の名前も「インディアン島」、童謡も「十人のインディアンの少年」になっている。ところが、最近では、「インディアン」も差別用語と見なされるようになり、現役のペーパーバックでは、さらに‘Soldier’と改められた。「クリスティー文庫」の新訳は、ハーパー・コリンズのペーパーバックを底本にしたと断ってあるが、これに従って、「兵隊島」、「小さな兵隊さんが十人」となっている。
 このあたりの経緯は、クリスティのファンであれば、ほとんど常識として知っていることだろうから、詳しい解説は不要だろう。問題は、こうした言葉の変更が叙述やプロットにも微妙に影響を与えていることで、意外とその点は指摘されることが少ないようだ。
 なお、『そして誰もいなくなった』の叙述トリックについては、若島正氏が「明るい館の秘密――クリスティ『そして誰もいなくなった』を読む」(「創元推理」No.15所収)という論稿で詳細な分析を試みている。その論稿では清水訳の問題箇所も指摘されていて、新訳が出たのもそれがきっかけだったと言われているほどなのだが、そこで言及されているポイントについては重複を避ける意味でもここで繰り返そうとは思わない。
 ただ、これは若島氏の指摘ともオーバーラップすることなのだが、作中におけるウォーグレイヴ判事の独白は、いかにもクリスティらしい叙述の仕掛けが随所に隠されているため、読む(訳す)にあたっては注意が必要なのだ。しかも、それは時として微妙な表現を用いて仕掛けられているために、差別用語の置き換えのようなテキスト改変が重大な結果をもたらす場合がある。ここでは、その具体例をお示ししようと思う。
 例えば、新訳の57-58頁にかけて、判事が手紙の差出人のコンスタンス・カルミントンのことを考え、そこからさらに、島にいるほかの女たちのことを思い及ぶくだりがある。「女というのは、そろいもそろってあてにならない」という独白の原文は、‘Undependable like all women’。つまり、女がみんなそうであるように、カルミントンという女性もあてにはならない、と言っているのだが、彼女がいい加減な女性であることが、のちに判事が自分宛てに来た手紙を説明する際の重要なポイントになる。それはそれで邦訳を読んでも伝わるだろう。問題はそのあとだ。
 この言葉に続けて、判事は、エミリー・ブレント、ヴェラ・クレイソーン、エセル・ロジャーズのことを考え、そこから執事のロジャーズ夫妻に思い及び、彼らのことを「きちんとした夫婦のようだし、仕事も心得ている」(Respectable pair and knew their job.)と評する。一見すると、いい加減な女たちが多い中で、執事夫妻は信頼が置けると評価しているように見えるが、実際は、しっかり者の執事夫妻には用心しなくてはいけないと警戒しているのだ。
 そのあと、判事は執事のトマス・ロジャーズに、コンスタンス・カルミントンは島に来る予定かと問い、執事は、知らないときっぱりと答える。邦訳では、判事はこれを受けて、(兵隊島だと? いささか、興ざめだな)と独白したことになっている。
 この独白の箇所は、本来、‘Nigger Island, eh? There’s a nigger in the woodpile.’となっていた。‘nigger in the woodpile’は、隠れた障害や困難、いかがわしいことや怪しげなことを意味する慣用句だが、これも差別用語を忌避する観点から最近では使われなくなった表現で、『そして誰もいなくなった』の最近の版でも、‘fly in the ointment’と置き換えられているようだ。『もの言えぬ証人』の第18章の章題もこの慣用句が使われているのだが(邦訳では「隠れた殺人者」)、最近の版では‘Cuckoo in the Nest’と改められているようだ。
 つまり、判事は、「黒人島(Nigger Island)」にひっかけてこの慣用句を用い、自分の誘導に乗ってこない執事のことを(やっかいな奴がいる)と警戒しているのだが、真意を知らずに読むと、カルミントン女史が来るという情報がないことに(どうもあやしいな)と言っているように聞こえる。ダブル・ミーニングを得意としたクリスティ女史の面目躍如たるところだろう。(日本語訳としてどう表現するかは難しいところだが、あくまで試訳なるも、「黒人島ねえ。どうもこいつは白黒見極めがたいな」とでもしてはどうだろうか。)
 ところが、この部分を、清水訳では、どうやら慣用句であることを理解せず、「まきの中にくろんぼが一人いる」と直訳して、なにがなにやら分からなくなっている。新訳も(仮に原文が新たな表現に置き替えられているとしても)、「興ざめ」という訳がどこから出てきたのかよく分からないし、文脈上どうつながるのかも不明だ。(「玉に瑕」だと「興ざめ」してしまうと考えたのだろうか。新訳は、上記論稿で指摘のあった箇所(邦訳179頁)だけはしっかりと直しているのだが・・・)
 邦訳はともかくとして、苦肉の策とはいえ、‘fly in the ointment’では、本来の慣用句の語呂合わせやニュアンスを十分カバーしているとは言い難く、差別用語だからというので単純に置き換えてしまうことの難しさを感じないわけにはいかない。ある意味、プロットにまで影響しているだけに軽微な問題ではない。
 さらに、第7章では、ヴェラがエミリーの言葉を受けて、‘Our black brothers – our black brothers. Oh, I’m going to lough. I’m hysterical. I’m not myself…’(新訳では151頁)と独白する箇所がある。これは、‘Ten Little Niggers’を前提にして初めて意味が通る箇所で、‘our black brothers’という言葉と、自分たち自身が‘Ten Little Niggers’に見立てられている現実とが重なり合うからこそ、ヴェラは激しく動揺しているのだが、「インディアン」や「兵隊」に置き替えられてしまったバージョンではその意味が伝わらない。
 言葉だけ単純に置き換えても、叙述やプロットの微妙な意味合いを損なわずにすますことはできないことが分かっていただけただろうか。だからというので、差別用語の問題は、そうした用語の使用によって傷つく人がいたり、社会的偏見を助長することにつながる可能性がある以上、決して無視していい問題ではないのも確かだ。
 ただ、『そして誰もいなくなった』の場合は、日本語でも「黒人」という特に支障のない普通名詞に訳せばいいと思われるし、これを敢えてのちのバージョンに従って「インディアン」や「兵隊」と言葉を置き換える必然性がどこまであるのかという疑問も感じる。いずれにしても、差別的表現が用いられている古典文学の場合でも、断り書きを入れることで原文をそのまま活字化している例は少なくないし、プロットというミステリとしての根幹に関わる表現でもある以上、『そして誰もいなくなった』はオリジナルのテキストこそが本来チョイスされるべきものではないかと思われる。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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No title

こんばんは。
Niggerにそんな慣用句があるとは知りませんでした。戯曲の翻訳はその辺どうだったんでしょうね。読んだけど、そこまで気がつかなかったです。
フチガミさん翻訳のそして誰もいなくなったが読みたいですね。

いいご質問です!
実は戯曲版にも同じ表現が出てくるんですよ。
せっかくですので、記事にしますね。
自分で翻訳してみたいところですけど
『そして誰もいなくなった』は早川書房が
翻訳権を持ってますのでねえ・・・(笑)

No title

版権がありましたね…

もっとも、早川の翻訳は旧訳、新訳いずれも改訂版を
底本としていると見なし、英初版はこれらと別物と見なせば
「10年留保」に該当する翻訳権フリーのテキストと
解することもできるかもしれませんけどね。
でも、さすがに無理があると思うし、そんなことして
物議醸そうとまでは思いませんけどね(笑)

No title

『そして誰もいなくなった』を読了して、色々と解説を読みたかったのでネットで調べていたところこの記事にたどり着きました。
最後まで読んでから読み返した時に、判事の「兵隊島だと? いささか、興ざめだな」の独白部分にはかなりの違和感を受けました。自分で舞台を設定しておきながら興ざめってどういうこと?何も知らないのを装うための発言ならまだしも、独白っておかしいんじゃないか?と思ったのです。
原文通りだとしても、若干つながりに違和感あるように思えるのですが、疑問は解けました。

早川は版権を取っている関係上、遺族(権利保有者)の意見を尊重しながら底本を選んでいるのではないでしょうか。
現行のハーパー・コリンズのペーパーバック版を底本に使ってくれと言われれば、これに従わざるを得ないという事情もあるのかもしれません。
クリスティー文庫の新訳がおしなべて現行のペーパーバック版を底本にしているのもそんな事情がなんとなく見えるのですが、やはり底本の違いにまで踏み込まないと、本来の意味すら曖昧になってしまうといういい例だと思います。
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