コーネル・ウールリッチ『聖アンセルム923号室』

 ウールリッチ(アイリッシュ)の作品には、いつもどこか切なく感傷的な雰囲気がつきまとう。その雰囲気の魅力に取りつかれてしまうと、プロット自体はたいしたことのない作品でも、もう一度あの雰囲気に触れたいという気持ちから次々と作品に手を出してしまうようなところがある。
 『聖アンセルム923号室』(1958)は、比較的後年に書かれた長編であり、実はミステリとすら言えない作品だ。ミステリ的な要素もないわけではないが、普通小説と言ったほうがふさわしいだろう。聖アンセルム・ホテルが開業した日のエピソードから閉館になる日までの7つ(2番目と3番目のエピソードは内容的に連続しているので実質は6つ)のエピソードから成り立つ、長編というより連作短編集と言うべきかもしれない。
 新婚早々のコンプトン夫妻、第一次大戦で入隊が決まったテッドとその恋人のジーン、ギャングのアバッツィア、自殺の覚悟を決めたジョン・スミス氏、反対する家族のもとを飛び出して結婚を夢見るケンとその恋人、そして再びホテルを訪れた老コンプトン夫人という具合に、各エピソードの登場人物たちは、出自も違えば、ホテルに泊まる理由もそれぞれに違う。読んでいる途中は、同じ部屋を舞台にしていることを除けば、一見バラバラのエピソードを綴ったもののように思える。ところが、最後の7番目のエピソードまで来て、全体のエピソードが一つの円環をなし、ホテルの部屋を人生になぞらえた大河的ストーリーとして完結していることが分かる仕掛けになっている。その結びは、まさにウールリッチらしい、切なく感傷的な幕の閉じ方と言っていい。
 もちろん、一つ一つのエピソードは、単独で読んでもそれなりの味わいがあり、切り離してアンソロジーに入れても何ら不都合のない作品でもある。特に、6番目のエピソードは、日本人にとっても他人事と思えないが、その後の展開を読者の想像に委ねる、一種のリドル・ストーリーといってよい、余韻を残す作品だ。
 にもかかわらず、本作は全体の一貫性を持った長編でもある。ウールリッチは、舞台となる部屋を同じにするだけでは、エピソードを貫く一貫性を読者に意識してもらいにくいと考えたのだろうか。漫然と読み流していると見逃しそうになるが、注意して読むと、実はすべてのエピソードに共通したモチーフがあることに気づく。ネクタイだ。
 6つのエピソードすべてにネクタイが出てきて、それは、エピソードの重要なファクターである場合もあれば、たまたま登場人物が身なりを整えるために結び目を直すだけの場合もある。だが、必ずネクタイが出てくるのだ。そして、ウールリッチがネクタイを一貫したモチーフに選んだのは、まさに全体のエピソードを円環として完結させる最後のエピソードを際立たせるために、敢えてそうしたことがそこで分かるようになっているのだ。
 『黒衣の花嫁』や『幻の女』のように、書きながら考えたとしか思えない、場当たり的なプロット構成がしばしば目立つウールリッチだが、本作に関しては、事前によく考えたプロットが光っているように思えるし、一見ミステリとは言えない連作短編にもかかわらず、よくまとまった印象を与えるのはこのためだろう。
 なお、ホテル探偵ストライカーの登場する、ウールリッチにしては珍しい密室物の「九一三号室の謎」も、部屋こそ違うものの、舞台は同じ聖アンセルム・ホテルだ。晩年に至るまでホテル暮らしを続けていたウールリッチにとって、ホテルは格別思い入れのある舞台だったようだ。
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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