エセル・リナ・ホワイト『バルカン超特急』

 『バルカン超特急』と言われて大抵の人が真っ先に思い出すのは、1936年に出たエセル・リナ・ホワイトの原作ではなく、二年後の1938年にリリースされたヒッチコックの映画のほうだろう。実際、映画の影響力は圧倒的で、本来は“The Wheel Spins”というタイトルで刊行された原作も、のちに映画と同じ“The Lady Vanishes”に改められたほどだ。
 ヒッチコックのフィルモグラフィーを見れば分かるが、彼が映画のために選んだ原作は、無名のまま今も埋もれているような作品が多い。中には、バカンの『三十九階段』、モームの『アシェンデン』、デュ・モーリアの『レベッカ』、アイルズの『犯行以前』のようなもとからの有名作もあるが、ゴードン・マクドネル(「疑惑の影」)、ポール・アンセルム(「私は告白する」)、フレドリック・ノット(「ダイヤルMを廻せ!」)、マックスウェル・アンダースン(「間違えられた男」)と言われても、ミステリ・ファンでもほとんど名前すら聞き覚えのない原作者たちだろう。
 「第三逃亡者」(テイの『ロウソクのために一シリングを』)、「裏窓」(ウールリッチ)、「鳥」(デュ・モーリア)のように、それなりに知られた原作者の作品でも、大幅に設定を変えてしまったり、元は中・短編にすぎないものを大きく膨らませたものが多く、「レベッカ」や「めまい」(ボワロー=ナルスジャック)のように、原作の筋に比較的従っているもののほうが珍しい。それどころか、ハイスミスの『見知らぬ乗客』、ブロックの『サイコ』のように、むしろヒッチコックの映画のおかげで原作が知られるようになり、作者自身も世に出たという例も珍しくない。
 ヒッチコックにとって原作はあくまでインスピレーションを得るための素材にすぎず、この巨匠は、ある程度は原作のファクターを使うことはあっても、ほとんど自己流に映画を作り上げてしまう。『バルカン超特急』も例外ではなく、原作と映画を比べてみれば分かるが、サスペンスものに属する原作をすっかりエスピオナージュものに変えてしまっている。
 原作では熱中症で意識を失ったことになっているヒロインも、映画では何者かがミス・フロイを狙って落としたフラワーボックスで頭を打ってしまうという設定に変わっているし、列車の窓にミス・フロイの名前が浮き上がるシーンも、映画ではミス・フロイ自身が実際に指で窓に書くシーンを追加するなど、ヒッチコックならではの演出で効果を上げている。音楽の暗号やラストの銃撃シーンは映画の完全なオリジナルで、原作には一切出てこない。
 実際、原作だけ読むと、ミス・フロイの消失の謎も盛り上げに乏しく、サスペンス自体が薄味の上に、結末は拍子抜けの感が否めない。映画のほうが人間消失の謎もクライマックスもはるかに効果的な演出が施されているといえるだろう。
 やや脱線になるかもしれないが、自分が一緒にいた人物のことを、目撃していたはずの証人たちの誰もが、そんな人物はいなかったと証言するという同様の謎を設定した作品はほかにもある。ご存知、アイリッシュの『幻の女』と、もう一つはジョン・ディクスン・カーのラジオ台本「B13号船室」だ。
 カーは、さすが謎解きの巨匠、証人が本当は知っていながら、買収されたり悪党の仲間だったりして嘘をつくといった安易な設定は採らない。カーの場合は、見ていたはずなのに、証人自身が本当に見ていないと信じているのだ。このプロットの鮮やかさは、「ミスディレクションのキング」の面目躍如たるところだろう。アイリッシュの場合は、カーのようなプロットの巧妙さはないが、手に汗握るサスペンスの効果は抜群で、『バルカン超特急』はこの両作に比べてもいかにも盛り上げに欠け、見せ場も乏しい凡作としか言いようがない。
 その意味で、原作の邦訳が長年刊行されなかったのも頷けるのだが、近年になって小学館から刊行されたのは、おそらくH・R・F・キーティングが『海外ミステリ名作100選』に本作を選んだことも影響しているのだろう。それ以前にも名作表の類に選ばれたことはあるが、映画の影響による面が強いと見るべきだ。キーティングは、映画に比しても原作を随分と高く評価しているのだが、高尚な鑑識眼の表れとも言うべきユニークな評が大衆読者層にどこまで賛同を得られるかは些か疑問に感じるところでもある。現に、邦訳は既に品切れになって久しいようだ。
 『レベッカ』や『めまい』とは違った評になるが、本作については、原作よりも映画から入ることをお勧めしたいところだ。
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