『時の娘』再考 研究書紹介

書簡や会計記録などの同時代の資料や文献は、研究の基本となるものであり、出版されているものも一部ありますが、こうした原資料については随時言及することとし、それらに基づいてリチャード三世の評価やロンドン塔の二王子の運命などを論じた、古今の代表的な歴史書、研究書などをまずは御紹介してみたいと思います。

トマス・モア“The History of Richard the Third”
 英語とラテン語の二つの未完成稿があり、いずれもモアの死後に出版。手書き原稿に基づく英語版(1557年)を出版した甥のラステルによれば、執筆年はモアが35歳の時の1513年(ラテン語版は1566年に出版)。
 二王子殺害の詳細な経緯を記した最初の記録であり、モアによる暴君リチャードの描写は、大法官、人文主義者、殉教した聖人というモアの権威もあり、シェークスピア作品をはじめ後世の歴史書や文学などに大きな影響を与えました。
 なお、ジョージ・バック、クレメンツ・マーカムのように、本書の真の著者はモアではなく、モアが少年時代に一時期同居していたカンタベリー大司教ジョン・モートンであるとの説もありますが、今日では、モートンが主要な情報提供者だったとしても、著者はモア自身とする説が一般的です。
 テキストは、ポール・マーレイ・ケンダル編“Richard the Third : The Great Debate”に下記ウォルポールの著作とともに収録されています。

ジョージ・バック“The History of King Richard the Third”(1619年)
 5部構成からなる最初の本格的なリチャード擁護論。バックは、ボスワースの戦いでリチャードとともに戦った祖先をもち、自身はジェームズ一世に仕えた廷臣でした。
 バックは生前に本書を完成できず、1646年に同名の甥の息子が手を加えて出版したテキストは、オリジナル原稿を不正確に縮約したものと批判されてきましたが、1979年に、現存するオリジナル原稿に基づいた校訂版が出版されました。
 リチャードとの結婚の希望を示唆したエリザベス・オブ・ヨーク(二王子の姉で、後にヘンリー七世の王妃)の書簡やリチャードの庶子ジョン・オブ・グロースターの末路など、現存していない資料の引用や情報も豊富に含んでおり、当時は未出版だった『クロイランド年代記』(リンカーンシャー所在のベネディクト派のクロイランド修道院で書かれた同時代の記録)の原稿を最初に参照した研究書としても知られています。

ホーラス・ウォルポール“Historic Doubts on the Life and Reign of King Richard the Third”(1768年)
 英国の初代首相ロバート・ウォルポールの子息で、ゴシック・ホラー小説『オトラント城』の作者。
当初は、伝統的なリチャード像を支持していたウォルポールは、バックの著作に触れて見解を改め、本書において、モアの記述の不正確さや矛盾を突き、啓蒙主義思想の観点から、リチャードに帰せられてきた悪行の数々が人間の行為として不自然でありすぎることなどを指摘して、リチャードを擁護しています。
 本書は当時のベストセラーとなり、有識者の間で議論を引き起こし、哲学者デイヴィッド・ヒュームから反論を受けたり、また、捕囚の身にあったルイ十六世により仏訳されたりもしました。ウォルポールは専門の学者ではなかったため、資料検証が十分ではなく、伝統的な見解の内在的な矛盾を指摘する議論に傾きがちとの批判もあります。

キャロライン・ハルステッド“Richard the Third”(1844年)
 2巻からなる、千頁を越える浩瀚なリチャードの伝記。リチャード時代の王室記録、議事録、年代記の他、同時代の書簡や地方の記録など、下記ガードナーやケンダルの著作と比しても、より広範な資料を参照しており、これまでに出版された最も詳細なリチャードの伝記とされています。下記マーカムも「これまでで最も完全で、最も価値ある」伝記と評価しています。
 リチャードを高潔な君主として描いた彼女の伝記に対しては、ケンダルのように、ヴィクトリア朝風のロマンチックな傾向を指摘する批判もあります。

ジェームズ・ガードナー“History of the Life and Reign of Richard the Third”(1878年)
 著者は15世紀の研究に関する当時の権威。同時代の資料に基づいて伝統的見解を修正しつつも、同時代資料が語らない部分は、モアやヴァージルなどのチューダー朝時代の歴史家を信頼する傾向が強く、下記のマーカムから厳しい批判を浴びました。
 マーカムは、1891年に“English Historical Review”誌上で、ヘンリー七世犯人説を提唱し、これにガ―ドナーが反論して論争へと発展します。ガードナーは、この論争を踏まえて1898年に本書の改訂版を出し、マーカムは、下記著作の最後に本書を批評した章を設けています。

クレメンツ・R・マーカム“Richard the Third: His Life and Character”(1906年)
 マーカムは、本書の前半でリチャードの生涯を叙述し、後半で、会計記録や書簡等の同時代資料を検証しながらリチャードに帰せられてきた悪行の数々を論駁しています。また、バックやウォルポールが二王子の海外脱出説を支持しているのに対し、ヘンリー七世犯人説を新たに提唱している点でも注目されます。
 マーカムの描いたリチャード像は、あまりに聖人君子的であり、反対に、リチャードの敵を全て悪党に描く傾向があるため、チューダー朝時代の歴史観の白黒を反転させた極論だという批判があります。しかし、マーカムの議論は、単なる心情的な偏見の産物ではなく、綿密な資料検証に基づいており、その後も彼の議論に追随する者が少なくありません。バックの上記著作をオリジナル原稿に当たって参照した最初の研究書でもあります。

 以上は、どちらかといえば古典の部類に入る著作と言えます。二十世紀に入ってからも新たな発見・進展がありました。一つは、1933年、二王子のものと推定される遺骨が医学的に調査されたこと、もう一つは、1934年、イタリア人僧侶ドミニク・マンシーニが書いた報告書(1483年12月完成)がフランスのリールで発見されたことです(“The Usurpation of Richard the Third”として英訳あり)。
 マンシーニは、エドワード四世の死の直前からリチャードの即位直後までイングランドに滞在し、その後フランスに戻り、ヴィエンヌの大司教アンジェロ・カトーに報告書を提出しました。同報告書には、ロンドン塔の二王子が、塔の別棟に移されて、日を追う毎に目撃されることが少なくなり、ついに全く姿が見えなくなったこと、二王子に仕えていた医師アルジェンティネの証言として、エドワード王子が死の迫っていることを感じ、日々、懺悔をしていたことなどが報告されています。
 1484年1月、フランスの高官ギヨーム・ド・ロシュフォールがリチャードを二王子殺害で公に非難した事件について、マーカムは、当時フランスに逃げていたジョン・モートンが、その情報提供者であったと推測していますが、今日では、このマンシーニの報告がロシュフォールの情報源であったという説が有力です(ロシュフォールはカトーの知人であり、また、マンシーニがブルゴーニュで報告書を完成させた時、同じ地域に住んでいた)。
 マンシーニは英語が話せなかったこと、また、二王子殺害の噂はマンシーニがイングランドを離れた後に流れたと考えられることなどから、二王子に関するマンシーニの情報は自身の見聞ではなく、後に医師アルジェンティネ(マンシーニが大陸に戻ってから出会った)から得たものではないかとの説もあります。アルジェンティネは、ヘンリー・チューダーの強力な支持者であり、後にヘンリーの王子アーサーの医師として仕えています。

 『時の娘』出版以後の研究書としては、以下のものが独自性のある興味深い研究と言えるでしょう。

ポール・マーレイ・ケンダル“Richard the Third”(1955年)
 著者は、ばら戦争時代の研究者で、他に“Warwick the Kingmaker”、“Louis the Eleventh”等の著作があります。
 ケンダルは、基本的にチューダー朝時代の資料を退け、マンシーニの報告書を含む同時代資料に基づいたリチャード像の再構成を試みており、今日入手可能なものとしては最もスタンダードなリチャードの伝記として定評があります。基本的に修正論に近い立場を採っていますが、マーカムのように極端な聖人君子的描写に傾かないことも好評の一因と言えるでしょう。
 二王子殺害の謎を巡る議論においても、バッキンガム公ヘンリー・スタッフォード犯人説を示唆している点で注目されます。

オードリー・ウィリアムスン“The Mystery of the Princes”(1978年)
 基本的に修正論の立場に立っており、二王子殺害の実行犯とされてきたジェームズ・ティレルの一族に伝わる伝承を掘り起こし、二王子が、リチャードの許可を得て、母親エリザベス・ウッドヴィルとともにティレル家の領地で生活していた可能性を示唆するなど、斬新な説を提示しています。
本書は、1978年、英国推理作家協会よりノン・フィクション部門ゴールド・ダガー賞を授与されています。

アリスン・ウィア“The Princes in the Tower”(1992年)
 著者は、“Lancaster and York”、“The Six Wives of Henry the Eighth”、“Children of England”など、ばら戦争からチューダー朝時代にかけての人物像に焦点を当てた著作で最近注目されている作家。
 チャールズ・ロス“Richard the Third”、A・J・ポラード“Richard the Third and the Princes in the Tower”など、伝統的な見解を支持する人は今日も少なくありませんが、本書ほど徹底したリチャード糾弾に貫かれた著作は希有でしょう。リチャードが二王子殺害を命じたと断定しているだけでなく、今日ではほとんど否定されているリチャードの体の奇形でさえ事実であったと示唆するなど、チューダー朝時代の宣伝が復活したかと見紛うほどです。
 議論の多い二王子の遺骨の調査結果を過度に重視し、同時代の資料より、モアやヴァージルのようなチューダー朝時代の著作を過信しがちな彼女の議論は、下記フィールズからも批判されていますが、ある意味で、モアの権威が今日なお衰えていない一つの証左とも言えるでしょう。

バートラム・フィールズ“Royal Blood”(1998年)
 著者はアメリカの弁護士。フィールズは、リチャード派、反リチャード派双方の申し立てを取り上げ、立証の決め手となる動機や機会などの要素を吟味しつつ、リチャードの有罪を今日の法廷の基準に照らして立件可能かどうか検討しています。試み自体も非常にユニークですが、資料の解釈についても独自の洞察を随所で示しています。
 フィールズは、どちらの立場にも与しない審判者の姿勢を維持していますが、ウィアに対する批判が随所に見られるなど、全体のトーンとしては修正論に近いと言えるでしょう。

 次は、二王子の謎に関する主要な説と、それを巡る議論を御紹介してみたいと思います。



マンシーニ
マンシーニの報告書の英訳版

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