ヘレン・マクロイ “Do Not Disturb”

 “Do Not Disturb”(1943)は、マクロイが初めて手がけたノン・シリーズもののサスペンス小説。刊行順としては、『家蠅とカナリア』(1942)と『小鬼の市』(1943)の間に位置する。タイトルは、ホテルのドアに掛けておく札の表示の〝起こさないで下さい〟を意味する。

 ストーリーはエディス・タルボットという女性の一人称で進行する。
 雨の降る夜、エディスは、行く先々のホテルで満室を理由に断らたれあと、手元のリストにあった最後の〝ホテル・マジェスティック〟に行く。フロントの係員は最初、空き部屋はないと断るが、エディスに頼み込まれると、二日目から別の部屋を用意すると告げて、ためらいつつもなにやら訳ありらしい部屋に案内する。
 ところが、彼女が入浴中、換気のために窓を開けると、すすり泣きらしい声が聞こえてくるのに気づく。翌朝、フロントの係員に事情を話すと、エディスの部屋は、実はメルチャーという精神科医が隣の1404号室とともに押さえていた部屋だったが、彼女に頼まれて一晩だけのつもりで貸したと係員は説明する。メルチャー医師には腹部の手術を受けたばかりの息子がいて、痛みで頻繁に泣いたり呻いたりするため、迷惑がかからないようにエディスのいる隣室も押さえていたという。だが、聞こえてきたのは確かに大人の男の泣き声だった。
 二日目の晩、彼女は再びつんざくような叫び声を聞き、〝起こさないで〟というドア札を無視して隣室のドアをノックする。すると、ドアが開いて男が現れる。部屋の奥には、カーキ色のレインコートを着た頭の禿げた男がぐったりと椅子に座っているのが垣間見えた。出てきた男は、ニューヨーク警察のゴーガス警部と名乗り、身分証明証らしきものも示す。ゴーガスは犯罪の容疑者から自白を引き出すために〝拷問を伴う尋問〟を行っていたのであり、その声が隣室に聞こえないように、病気の息子を持つ医師と偽って隣の部屋も借りていたのだという。
 翌日、彼女は友人のクララが泊まっているホテルを訪ねる途中、車にはねられそうになるが、車は故意に彼女を狙ったものと思われた。さいわい大事に至らず、エディスは治療を受けたあと、クララを訪ねるが、そこで思いもかけず、別れた夫のルシアンと出くわす。
 その後、エディスがホテルの部屋に戻ってくると、部屋には頭の禿げた男の死体が横たわっていた。その男は明らかに、前夜、彼女が隣の部屋で垣間見た〝拷問〟を受けていた男だった・・・。

 その後の展開は、謎の追跡者に追われるエディスの逃避行となるが、乗り合わせたバスの乗客や彼女を拾ってくれたドライバーはもちろん、彼女の治療に当たった医師までが皆正体を隠した追っ手と分かり、疑心暗鬼の心理にとらわれながら、自分が誰に、何のために追われているのかも分からない、警察すらも信じられないという設定がサスペンスを盛り上げる。
 エスピオナージュ的な要素もあるが、のちの“The Further Side of Fear”のように安易なスパイ小説的追跡劇に陥ることなく、追跡者が求める物品の謎や殺人犯の正体の意外性など、謎解き的な要素も巧みに配しながら、最後まで緊張感を維持したサスペンスと考え抜かれたプロットが光る作品となっている。
 のちの“Panic”や『殺す者と殺される者』もそうだが、やはりマクロイの全盛期の作品は、同じサスペンスでもプロットを十分に練り上げた跡が窺え、1960年代以降のサスペンス作品と比べると、緻密さに格段の違いを感じざるを得ない。もちろん、後期のサスペンスも、他のサスペンス作家たちの作品と比べて決して遜色があるわけではないのだが、50年代までの作品があまりに水準が高いために、どうしても見劣りがしてしまうのだ。第二次大戦とナチスという時局的な背景が色濃く覆っている作品ではあるが、“Do Not Disturb”は、マクロイが脂の乗っていた時期のサスペンスの佳作として今なお十分読むに値する作品と言えるだろう。
 なお、この時期に書かれた作品らしく、マクロイは本作についてものちに改訂版を出しており、今日入手可能な英オライオン社のMurder Room叢書版も改訂版のテキストに従っている。例によって、本文には戦時の時局的言及の刈り込みや時点修正(WAAC(婦人陸軍補助部隊)をWAC(婦人陸軍部隊)に直すなど)を行う一方で、初版にはなかった章題を加筆し、初版では、第一章に「プレリュード」、第八章に「フーガ」、第十章に「ダ・カーポ」、第十六章に「フィナーレ」とあるのみで、他の章に章題はないのに対し、改訂版では、第一章「夜のすすり泣き」、第二章「〝起こさないで〟」、第三章「1404号室」・・・という具合に各章に章題が入っている。本作の場合は、『小鬼の市』や『逃げる幻』と同様、第二次大戦が背景設定として重要な役割を果たしているだけに、ナチスや日本への生々しい言及が出てくるなど、戦時の雰囲気がより直截に表れている初版のテキストのほうがずっと味わい深い。
 しかし、仮に翻訳紹介するとなると、章題の扱いは悩ましいところだろう。『あなたは誰?』の場合は、初版には章題が全くなかったので単純に補えばよかったが、本作の場合は、初版の章題が省かれて新たに章題が加筆されているからだ。敢えて取捨選択を迫られるなら、私なら、よりリアルで面白い改訂版の章題のほうを採り、あとがきか注で初版の章題について解説するところだろうか。


Do Not Disturb
米初版ダスト・ジャケット
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テーマ : ミステリ
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