『時の娘』再考 リチャード三世犯人説

 最も一般的で伝統的な見解。トマス・モア、ポリドア・ヴァージルなどチューダー朝以降の代表的な歴史書は勿論のこと、アリスン・ウィアをはじめ、今日でも支持する者は少なくありません。
 同時代の資料としては、クロイランド年代記、マンシーニの報告書などが二王子殺害の噂や伝聞を記録していますが、いずれも噂や伝聞の域を越えないものであり、詳細な出来事の推移を記録したのは、トマス・モアの“History of Richard the Third”が最初ということになるでしょう。モアによれば、1502年、ジェームズ・ティレルとジョン・ダイトンの二人が反逆罪で逮捕され、二人はその際、二王子殺害の真相を告白し、その内容は以下のようなものだったとされています。

 リチャードは、即位後の巡幸(1483年7月に出発)でグロースターに滞在中、二王子殺害を決断し、信任の厚いジョン・グリーンに二王子を殺すよう指示した手紙と信任状を持たせてロンドン塔の長官サー・ロバート・ブラッケンベリーのもとに派遣しますが、ブラッケンベリーが指示を拒否したため、失敗に終わります。
 リチャードは、今度は、ある従者から紹介されたジェームズ・ティレルという人物に、塔の全ての鍵をティレルに渡すよう指示した手紙を持たせてブラッケンベリーのもとに派遣し、二王子殺害を委ねます。ティレルは首尾よく鍵を手に入れ、ブラック・ウィル、又の名をウィリアム・スローター(スレイター)という人物一人を除いて、他の付添人全てを二王子から遠ざけます。ティレルの指示により、看守の一人マイルズ・フォレストと、ティレルの下僕ジョン・ダイトンが深夜に二王子の部屋に入り、寝ている二人を布団で窒息させて殺害します。
 殺害後、ティレルらは、遺体を階段の下の地下深くに埋め、ティレルは、ウォリック滞在中のリチャードに経緯を報告します。しかし、リチャードは、彼らが国王の子であることを理由に、もっとましな場所に埋葬するよう指示し、ある僧侶が別の場所に秘密裏に改葬しますが、その後、僧侶が死んでしまったため、埋葬場所は不明となってしまいます。

 現代の伝統支持派の中でも、アリスン・ウィアは、モアのこの記述を基本的に受入れ、同時代の衣装管理記録に、ティレルが、1483年9月8日に行われる皇太子叙任式用の衣装と壁掛けを取りに行くため、ヨークからロンドンまで馬で移動している記録があることを指摘しています。ウィアは、二王子殺害はその際に行われたとし、この日付から起算して、ティレルが二王子を殺害したのは、リチャードがウォリックに滞在していた8月半ばではなく9月3日であり、ティレルがリチャードに報告した場所も、ウォリックではなくヨークだとして、若干の修正を行っています。
 これに対しては、ティレルは、あくまで衣装等を取りに行っただけであり、こうした記録の方がティレルを二王子殺害の犯人とする噂の源泉になった可能性があるという反論もあります。

 ジョージ・バックは、リチャードには庶子の宣告を受けた二王子を恐れる理由がなかったこと、リチャードが、甥のウォリック伯エドワードを、自分より優先する王位継承権を有するにもかかわらず厚遇したこと、二王子の母親エリザベス・ウッドヴィルが、フランスに逃げていた息子ドーセット公爵(二王子の異父兄)に、リチャードに臣従すれば厚遇されるからイングランドに戻れと勧める手紙を送っていること、彼女も二王子の姉エリザベス・オブ・ヨークも、最後までリチャードと親しい関係を維持し続けており、子供や弟を殺された者がそんな態度をとるはずがないことなどを挙げ、リチャードの無罪を主張しています。同様の議論は後のマーカムなども引き継いでいます。
 同時期以降にも二王子が生存していた証拠として、マーカムは、1485年3月9日付のロンドン塔の会計記録に、‘the Lord Bastard’(爵位を持つ庶子)に対し、豪奢な衣類を供与するよう指示した記録があることを指摘します。リチャードの庶子ジョンは、爵位を有していないため‘Lord’と称される資格はなく、他の会計記録でも単に国王の庶子と記されていることから、ここで言及されているのはジョンではないとし、他方、エドワード王子は、エドワード四世の庶子であるだけでなく、庶子の宣告を受けた後も、なおマーチ及びペンブロークの伯爵位を有していることから、庶子にして爵位を有するのはエドワード王子のみであるとし、上記会計記録は、エドワード王子に言及したものであり、ボスワースの戦い(1485年8月)でリチャードが戦死する4ヶ月前になお、エドワード王子が生存し、厚遇されていた証拠だ、とマーカムは論じています。
 これに対しては、リチャードの庶子ジョンは、厳密には‘Lord’と称される資格はないが、国王の庶子として儀礼的にそう呼ばれたのではないかという反論もあります。ケンダルも、その可能性を指摘していますが、それでも、この記録を「実にミステリアス」だと評しています。
 モアによれば、ティレルは二王子殺害の功績によりナイトに叙されたことになっていますが、マーカムは、ティレルがその12年も前にナイトに叙されており、1482年に対スコットランド戦役でバーウィックを奪取した功績によりKnight Banneretに叙されているが、二王子を殺害したとされる時期以後に叙勲等を受けている記録はないことも指摘しています。
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