脱線の余談――『オシリスの眼』の感想を聞くと・・・

※『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。

 『オシリスの眼』は読者の皆様のご好評をいただいているようで、まずは読んでいただいた方々に感謝申し上げたい。読まれた方も増え、身近な人とも感想を共有できるようになったおかけで、いろんな意見を聞く中で認識を改めたこともいろいろ出てきている。息抜きにちょっとそんなことをざっくばらんに書いてみたい。
 以前の記事でも書いたが、読まれた方の感想などを聞くと、必ずしも「ゲームの慣習」で容易に真相を見抜く人ばかりではないようで、トリックや意外性の点でも評価しようとする向きが多いのに気づく。「死体隠蔽のアイデアが面白い」、「発見された骨のまとまり方のホワイダニットがユニーク」といった意見が特にそうだ。後期の代表作『猿の肖像』は、ナルスジャックが分析しているように、ロジックこそ緻密ではあるのだが、真相があまりに見え透いていて「ゲームの慣習」で早々と見抜いてしまう読者が多く、その点が不評の一因でもあったようだ。こうした観点からすると、『オシリスの眼』はロジックとトリックのバランスがうまく取れた作品と見ることもできるのだろう。
 その一方で、「犯人を当てた」という人の意見も、いろいろ聞くと興味深い。その「推理」のプロセスを集約すると、「ベリンガムの遺言書には、犯人に対して一定の金額のほか、エジプト関連のコレクションを遺贈するとされている。犯人はエジプト学に一方ならぬ関心を抱いている。コレクションの中に、犯人がどうしても欲しい貴重な遺物が含まれており、それが殺人の動機だと思った」、「遺言書に記載のある人間の中で、消去法で行くと、そいつが一番盲点の人物らしいから」という推論をした人が多いようだ。直接当事者は犯人として見え透いているから、意外性を狙って、犯人は目立たないもう一人の遺言執行者、動機は金銭よりも考古学的価値のある遺物、というわけだ。「ゲームの慣習」による推論なら、まあこんなものかもしれない。実際、こんなプロットでも十分成り立つし、傑作とまでは言わずとも、レッド・ヘリングをうまくちりばめて錯綜させれば、立派に水準以上の作品が出来上がるのではないだろうか。
 やや脱線するが、なぜか我が国では評判の高い『証拠は眠る』にしても、この作品をフーダニット、ハウダニットの側面から「代表作」と考えている人がいかに多いかを感じる。実際、これがフリーマンの代表作のように見なされているのは日本の特殊現象のようなものだが、その一方で、同書第17章以降でソーンダイクが展開する緻密な推論の積み重ねの非凡さに言及する人は少ない。多くの読者が「トリック」に目を奪われて、フリーマン本来の特長を意識しないまま作品を読んでいるのはこんなところにも表れている。とはいうものの、推理小説の読み方にルールがあるわけではないし、従来型の読み方の中からも、いろんな目の付け所があることが分かって興味深かった。
 ちょっと意外だったのは、現代の法医学の水準からすれば、古代人の骨を現代人の骨と取り違えることはあり得ないという指摘も一方であるのだが、こうした時代的制約をプロットの限界や瑕疵と捉える人はそれほどいないことだ。我が国の読者はこうした点については意外とおおらかなように思える。例えば、国産ミステリで言えば、1990年代に出たよく知られた作品があるが、その中で、一方では当時最先端のIT知識を盛り込みながら、いくら親子で似ていたとしても、十五歳も歳の違う娘の死体を医師が母親と間違えて気づかないという、信じがたい設定が平気でまかり通っている。確かにこんな例に比べたら、時代的制約があるとはいえ、フリーマンの科学捜査の描写のほうがリアリティがあると言えるかもしれない。
 もう一つ意外に思ったのは、バークリー医師とルース・ベリンガムの恋愛エピソード。私などは、いかにも旧時代的なお約束の恋愛描写のように思えて仕方なかったのだが、これを好ましいと思う読者の方が予想以上に多いのに驚かされた。悠然としたストーリー展開も、そんな恋愛エピソードのおかげで読み応えがあるという意見も聞く。チャンドラーがそんな描写を好んだというのも、実はそれなりに理由のあることだったのかもしれないと認識を改めつつあるところだ。確かに、最近の犯罪小説で描かれるような、ドロドロした男女関係やあからさまな性描写にうんざりしている読者にとっては、一服の清涼剤なのかもしれない。
 百年以上前の作品とは思えないほど文章がモダンで古さを感じさせないという意見も聞く。訳者の立場として誠にありがたい評価なのだが、これは要は、翻訳という作業が、単に横のものを縦に直すだけでなく、古いものを現代風に言い表す作業でもあるからだ。
 同書の英初版が刊行されたのは百年以上前の1911年。それは優雅に二輪馬車が走り、ガス灯がともるロンドンの描写からも伝わってくる。我が国で言えば、明治44年。文学では、島崎藤村や夏目漱石が作品を発表していた時代だ。この時代の小説を今日の我々が読めば、舞台背景の描写はもちろんのこと、表現や文体に違和感を覚えるものがあるのは当然で、現在出ている文庫本等が、今日の読者が読みやすいように漢字や仮名遣いなどに最低限の修正を加えているのも当然だ。
 実は英語とて例外ではない。クラシックなミステリを読んでいると、今日では廃れてしまった表現がいろいろ出てくるし、語彙だけでなく、もってまわった言い回しも多い。原文は、若い人が読めば眉をひそめるような表現に溢れている。おそらく、『オシリスの眼』のようなクラシックを原書で読む英語圏の読者は、古い英語表現にあちこち引っかかりながら読んでいるに違いない。しかし、翻訳で読む読者は、言語だけでなく、表現も現代風に訳されたものを読んでいるため、そのことに気づかない。ある意味、翻訳で読む読者は英語圏の本来の読者よりも得をしている面もあると言えるのかもしれない。
 最後に、疑問に思われた方もいるようなので、バジャー警部の最期について簡単に触れておこう。『赤い拇指紋』では、ミラー警視が刑事裁判所から犯人を尾行するものの、捕まえる場面はない。のちの短編「前科者」では、犯人を見失ったことが言及されている。倒叙に分類してもいい“When Rogues Fall Out”は、『赤い拇指紋』の続編でもある作品で、この逃げおおせた犯人が再び登場し、ソーンダイクと対決することになる。バジャー警部はこの犯人に殺されてしまうのだ。ソーンダイクにも平気で食ってかかるユニークな警部だが、さすがにお気の毒である。
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