エジプト史が触発する『オシリスの眼』の魅力

 医師だったフリーマンの作品には、医科学ミステリというイメージがあるが、実際、長短編ともに専門知識を前提にした作品が多い。その点、海外のレビューなどを見ても、『オシリスの眼』は、専門知識を前提としなくても読者に洞察のチャンスがある作品の一つとして好意的に受け止められているのだが、一般人の知識では簡単に推理できない、難解な玄人好みの作品が長編にも少なくない。
 これは理科系の知識という点に限らない。人文知識の面でも一定の知識を容赦なく読者に求める傾向がフリーマンにはある。最近刊行された『アンジェリーナ・フルードの謎』も、当ブログでも何度か解説したとおり、ディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』を前提にして初めて作者の真意を理解できる仕掛けになっている。もちろん、予備知識なしに読んでも推理小説として理解できる作品ではあるが、読者にしてみると、(まずはディケンズを読んでからでなければ・・・)という心理的ブレーキがかかりそうなもの。同作とディケンズとの関連を最初に指摘したのがドロシー・L・セイヤーズというインテリ女史だったというのも頷けるというものだ。
 『キャッツ・アイ』も、ジャコバイトの反乱や聖書の翻訳史のような歴史的知識を前提にしないと背景がよく分からず、訳者としては、読者の便宜に資するよう、けっこうこまめに解説を書いたつもりだが、それでも知人の意見などを聞くと、難解すぎると思った人も少なくなかったようだ。(自分で言うのもなんだが)歴史大好き人間の私は予習なしでも知っていたが、ヒエロニムスだ、〝若僭王〟だと言われても、高校の世界史に出てくるかどうかも怪しいマニアックな知識をいきなりぶつけられては、歴史に興味のない人にはピンとこないし、いちいち解説を読んで予習してから読むのもウザいと思うかもしれない。
 『オシリスの眼』も、エジプト学の知識をふんだんに取り入れた作品という意味で、本当は同様のリスクを持っていたはずの作品なのだが、その点がハンディにならず、むしろ人気を集める一因となったのは、実はその後の歴史的展開が幸いした面もあるように思えてならない。
 以前の記事でも解説したが、1911年にエジプト学を取り入れたミステリとして、『オシリスの眼』は先駆的作品だった。とはいえ、エジプト学に大衆の関心が集まるようになるのは、むしろ、1922年のハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発掘が一番大きなきっかけだろう。黄金のマスクをはじめ、発見された眩いばかりの埋蔵物が世界中のマスコミを騒がせ、さらには、発掘スポンサーのカーナヴォン卿の謎めいた死をきっかけに「ミイラの呪い」の噂がセンセーションを引き起こし、それ以降、古代エジプト史とミイラといえば、いかにも歴史上の謎や「呪い」といった神秘的な雰囲気がまとわりつくようになってしまったのだ。ミステリの題材としては格好のネタというものだろう。復活したミイラが人間を襲うなどという映画も、これが契機にならなければブームになっただろうか。エリザベス・ピーターズの『砂州にひそむワニ』のような設定が、現代の読者には推理小説のプロットとして違和感がないとしても、フリーマンの時代はどうだっただろうか。ポオの「ミイラとの論争」(1845年)に登場する、何の怖さも特別な能力もない、滑稽ですらある目覚めたミイラを想起すれば、それ以前のミイラがどんなイメージだったか想像がつくというものだろう。
 フリーマンの時代には、古代史の魅力や聖書との関連などでエジプト学にそれなりの関心が寄せられていたとしても、ツタンカーメン王墓発掘以降のような大衆的関心を集めるような題材では決してなかったはずだ。それは、アルバート・J・メネンデスの“The Subject is Murder”の「考古学」の項目を見ても、ツタンカーメン王墓発見以前のミステリ作品は『オシリスの眼』だけだという事実にも表れている。まして「ミイラの呪い」などというテーマは同時代には想像もできまい。『オシリスの眼』を読んでいて、いくら触発する個所が随所にあるにしても(例えば、ポールとルースが暗い博物館の展示物の不気味さに怖気をふるう場面など)、そこについつい、エジプト史の神秘性や「ミイラの呪い」のようなミステリアスな雰囲気を感じ取りつつ読んでしまうとしたら、それはいわば、ツタンカーメンのエピソード以降の現代人の感覚で無意識に先入観を読み込んでいるにほかならないのだ。
 ただ、その意味でも『オシリスの眼』は幸運な作品だったといえる。もしかすると、読者にとっては煙たい専門知識になったかもしれないエジプト学が、むしろミステリ・ファンの関心をそそる親しみのあるテーマになってしまったのだから。『オシリスの眼』が古典としての価値だけでなく、いつまでも親しまれる作品として多くの読者の支持を集めてきたのは、一つにはそうした歴史的偶然が働いた面もあると思うのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示