アガサ・クリスティの戯曲に新たな光

 ジュリアス・グリーンの“Curtain Up Agatha Christie: A Life in the Theatre”(2015)は、戯曲作家としてのクリスティの業績を詳細に追跡した研究書で、遺族の了解も得て私蔵文書にも当たり、これまで知られていなかった未刊行の戯曲の存在も明らかにしている。
 作家としてデビューする以前に執筆した‘A Mosque from Italy’や‘The Conqueror’などの一幕物の非ミステリ作品も幾つかあるが、やはり興味深いのは、‘The Last Séance’(「死の猟犬」の戯曲版)、‘The Wasp's Nest’(「スズメ蜂の巣」の戯曲版)、‘Someone at the Window’(「死んだ道化役者」の戯曲版)といったミステリ作品のほうだろう。
 グリーンは、さらに、既刊の作品についても執筆の経緯に光を当てている。興味深いのは、フランク・ヴォスパーが脚色したとされる‘Love from a Stranger’だ。これは従来、クリスティの短編「ナイチンゲール荘」をベースにヴォスパーが単独で脚色したものと考えられてきた。ところが、実際は、クリスティ自身が脚色した‘The Stranger’という未刊行の戯曲があり、ヴォスパーはこれを素材に用いて‘Love from a Stranger’を執筆したのであり、ヴォスパーの創作と考えられていた前半部分も、実はクリスティ自身の戯曲をベースにしたものであることをグリーンは明らかにしている。
 クリスティは、1968年にカリフォルニアのマイケル・プリチャード(孫のマシュー・プリチャード氏とは無関係)という学生からの照会に応じて、書簡で各戯曲の執筆経緯を明らかにしているのだが、その中でも、(不正確ながらも)ヴォスパーの作品が自分の戯曲を基に執筆されたものであることを認めている。
 その一方で、モイエ・チャールズとバーバラ・トイによる戯曲『牧師館の殺人』については、ジャネット・モーガンの『アガサ・クリスティーの生涯』(邦訳は早川書房)が、エドマンド・コーク宛ての書簡を引用しつつ、クリスティ自身が書いた原形にチャールズとトイが手を加えたものであるかのように説明しているのだが、グリーンは、「『アリバイ』、『牧師館の殺人』、『邪悪の家』の戯曲化には関与していない」という上記プリチャード宛て書簡のクリスティ自身の説明を根拠にこれを否定している。
 グリーンは『ゼロ時間へ』について、クリスティが単独で執筆した未刊行の戯曲があることを明らかにしているが、プロデューサー側からクライマックスの設定に注文を付けられ、試験興行も失敗してお蔵入りになった経緯を紹介している。ジェラルド・ヴァーナーとの共作とされる現行版については、ほぼヴァーナーの単独作であり、クリスティは名貸ししただけではないかとグリーンは推測しているのだが、クリスティ自身は、上記プリチャード宛て書簡の中で、「『ゼロ時間へ』では、ジェラルド・ヴァーナーとある程度の共同執筆をした」と認めているし、微に入り細を穿つようなト書きもいかにもクリスティらしく、議論の余地があるように思える。
 『そして誰もいなくなった』の戯曲版についても、結末の変更については、クリスティ自身が自伝の中で、「やがて私はもう一歩踏み出した。これを劇にできたらすばらしいと思ったのだ。はじめは無理だと思えた。説明する者が誰も残らないので、かなり変更を加えなくてはならないからだ。元のストーリーを一点変更すれば、完全に筋の通った戯曲を作れそうだと思った。(以下略)」と述べていて、もっぱら自分の発案だったように語っているのだが、グリーンは、当時の書簡から、実はプロデューサー側からも変更の示唆があったことを明らかにしている。 (余談だが、「はじめは無理(impossible)だと思えた」の箇所は、早川文庫の邦訳(下巻399頁)では、「一見、それは可能のようだった」と意味が真逆になっている。翻訳のミスか、それとも、校正乃至印刷の段階で「不」の字が落ちてしまったのか?)
 そのほか、『アクナーテン』について、イーデン・フィルポッツの娘アデレイドが執筆した同名戯曲との内容の酷似をめぐる議論など、グリーンの研究書は興味深い情報が満載だ。
 遺族の了承が鍵となるだろうが、今後、明らかにされた未刊行の戯曲の公表を期待したいところだ。
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