脱線の余談――主従逆転?

 まるで下剋上みたいなタイトルだが、『代診医の死』に関連して、もう一つ余談を。
 シリーズ・キャラクターの存在は、作家の人気を左右する大きなファクターでもあるが、作者自身が自分の人気シリーズ・キャラクターを嫌いになってしまったり、いつの間にか背景に退かせてしまう例は少なくない。
 そもそも、あのシャーロック・ホームズにしてからが、原作者のドイルはいったん滝壺に落として葬り去ったほどだし、エルキュール・ポワロもクリスティから嫌われ、メグレ警視だって、シムノンはいったんシリーズに終止符を打ったのをファンからの懇望を受けてシリーズ再開した経緯がある。
 そこまで極端ではなくとも、いつの間にか存在感が希薄になって他のキャラクターに主役の座を取って代わられる人も中にはいる。例えば、エミール・ガボリオが創造したタバレは、『ルルージュ事件』の主役で、ルコックは脇役にすぎないが、その後は主従逆転してルコックが主役となり、『ルコック探偵』では、タバレの登場はごくわずかで、タイトルロールのルコックに助言を与える役割にすぎない。
 ジョン・ロードが創造したランスロット・プリーストリー博士も似た例と言えるだろう。初期作品では活発に行動していた博士は、“Hendon’s First Case”(1935)でジェームズ・ワグホーン警部(のち警視)が登場したのに伴い、次第に不活性化し、ウェストボーン・テラスの土曜例会で発言するだけの存在に変わっていくのだが、ちょうどタバレのように、自分は第一線を退き、後進に節目節目で助言を与えて育てる役目になったかのようだ。
 後期の作品になると、自分で大団円の謎解きをすることすらしなくなり、主役は文字どおりワグホーン警視になってしまった感がある。“The Paper Bag”(1948)、『電話の声』(1948)、“Death at the Inn”(1953)、『吸殻とパナマ帽』(1956)、“Robbery with Violence”(1957)、“Twice Dead”(1960)、“The Vanishing Diary”(1961)などは、博士は解決を導く手がかりとなる洞察を助言の中で示しはしても、最後に事件を解決するのは、プリーストリー博士ではなく、ワグホーン警視だ。この頃のプリーストリー博士は、土曜の例会で意見を述べるだけの役割にほぼ限定され、特に晩年の作品になると、時おり自分の老いや衰えに言及し、なにやら「終活」モードに入ってしまった感なきにしもあらずだ。
 とはいえ、ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィンみたいに、まるでサイボーグかと思うほど、年代が変わってもまったく歳を取る気配のないシリーズ・キャラクターもいるわけで、活発な行動家から安楽椅子探偵、さらには老いと衰えを口にする後進へのよき助言者という具合に、経年変化が比較的分かりやすい点は、まだ人間味があっていいのかもしれないが。
 おそらく、作者のロードにとって、ストーリー中間のあーでもないこーでもないと延々続く尋問と議論こそは、一番書き甲斐のある情熱を注いだ部分だったのではなかろうか。その部分の中心を担うワグホーン警視は、作者にとって一番愛着を感じる登場人物だったのであり、思い入れも博士から警視のほうに移っていったのかもしれない。そう考えると、やはり退屈の象徴とも思える中間部分は、決して紙数を増やすための埋め草ではなく、ロードが推理小説で本当に書きたかったことだったのかもしれない。ただ、自分の思いと裏腹に、大衆読者層にどこまで受け入れてもらえたかは別問題だったのだろうけれど。
 ところで、以前の記事でも触れたが、邦訳書の冒頭にある登場人物表の大半は、邦訳が慣行としてサービスで加えているものであり、ナイオ・マーシュのような例外はあるが(演劇に情熱を注いだマーシュは自作でも配役表を好んで掲げた)、原書にはないのが普通だ。ちなみに、『オシリスの眼』も『代診医の死』も、原書に登場人物表はなく、いずれも私が作成したものに編集者さんが手を加えられたものだ。
 何が言いたいのかと言うと、邦訳『吸殻とパナマ帽』では、おそらく訳者も編集者も、すっかり存在感が希薄になってしまったプリーストリー博士を脇役以下の存在としか認識せず、冒頭の登場人物表に載せずにすませているのだ。黄金時代の本格推理小説で、メイン・シリーズ・キャラクターの探偵でありながら登場人物表から落とされてしまった人は空前にして絶後か。
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