fc2ブログ

ジョゼフ・グッドリッチ『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』

 標題書は、作家エラリー・クイーン、つまり、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの共同執筆作業に関わる往復書簡を収録したものである。時期としては、『十日間の不思議』、『九尾の猫』などのライツヴィルものを執筆していた頃の書簡だ。随所に編者グッドリッチの解説が付され、さらに、邦訳では訳者・飯城勇三氏の訳注が付されている。
 ダネイとリーの共同作業の中身が、構想担当:ダネイ、執筆担当:リーというものであり、二人の議論が常に激しいものであったことは、既に語られてきたことであり、本書はその裏付けとなる資料を提供していると言えよう。その意味で、これらの書簡に見られる実際の議論の激しさに接しても、多くのクイーン・ファンにとっては、もはやそれはまったくの驚きというより、予想どおりの具体例を改めて知らされたというところではないだろうか。
 この書簡集の主眼ともいうべき二人のやりとりの面白さは訳者あとがきでも触れられているし、屋上屋を架すような感想をここで述べるのは避けたい。むしろここでは、議論の激しさや楽しさよりも、その中から浮き彫りになる同時期の作家クイーンの探偵小説観を取り出し、そこから暗示される我が国におけるクイーン評価の問題性を取り上げてみたいと思う。

 エラリー・クイーンは本国アメリカにおいては既に忘却されつつある作家だ。オットー・ペンズラーが主催するミステリアスプレスが健気に刊行を続けてはいるが、大衆読者層にアピールする力はもはやない。これは他人の受け売りではなく、自分自身が現地で受けた印象でもある。ヘレン・マクロイ『あなたは誰?』のあとがきでその現実に触れたが、「本当に?」という半信半疑の反応もあった。そのあとがきで引用したフランシス・M・ネヴィンズも述べているように、我が国はクイーンが人気を維持しているほぼ唯一の国だ。日本のクイーン・ファンがその現実を驚きと失望をもって受け止めたとしても当然だろう。言語と地理的距離という制約の下で、我が国の読者の多くは英米の傾向を必ずしもよくは知らない。本書でも、グッドリッチは、「エラリー・クイーンは、ミステリ界の〝忘れられた男〟である」(同書337頁)と容赦なく書いている。彼もまた数少ないクイーン・ファンの一人であることを自覚しつつ論じているのだ。
 こう言えば、ネヴィンズの『エラリー・クイーン 推理の芸術』や本書のようなクイーンの研究書も本国で出ているではないか、という声も聞こえてきそうだ。だが、この二著はいずれもPerfect Crime Booksというミステリ専門の小さな版元から出ているものであり、遠慮なく言えばマニア層を想定した版元だろう。チャンドラーやスタウトのペーパーバックのように、大手出版社から刊行され、身近な書店でごく普通に目にする本ではあるまい。
 我が国でのクイーンの人気を支えている主な作品は何であろうか。明らかに「国名シリーズ」と「ドルリー・レーン四部作」だ。つまり、ネヴィンズの言う「第一期」に属する作品群である。我が国のクイーン・ファンは、主にこれらの作品が持つ謎解きのプロットやロジックを愛する。(もちろん、我が国にも「第三期」のライツヴィルものを最も高く評価するファンも、たとえ少数派であっても存在するだろうし、本国にも国名シリーズのほうを評価するファンもいて当然だ。ここでは大きな傾向を捉えて単純化していることを念のためおことわりしておく。)
 我が国のファンには、あからさまに言えば、クイーンには、ライツヴィルものへと移行するよりも、国名シリーズのような作品をもっともっと書いてほしかったと思う人が多いはずだ。有栖川有栖の国名シリーズのように、クイーンの「第一期」作品を意識した作品が我が国で続々と出、人気を博しているのは、作者も読者もこうした作品を求めているからにほかならない。その一方で、「第三期」のライツヴィルものは我が国の国産ミステリにほとんどインパクトを与えていない。
 「私がやろうと試みていることは、X氏、X氏だけが犯行をなし得たことを証明する古い〈クイーン方式〉から離れることなのだよ」(同書191頁)というダネイの言葉に、訳者・飯城氏は「初期の国名シリーズなどの愛読者はこのダネイの言葉に衝撃を受けるだろう」と注を付けている。さらに言えば、「衝撃」だけでなく、それを「退行」と受け止めるファンも少なくないはずだ。
 だが、本国のクイーン・ファンの認識は違う。本書の著者もこれを代弁していると見ていい。グッドリッチは、「第三期(1942―1958)は『災厄の町』で始まり、12の長篇で勝利に勝利を重ねていった」(31頁)とし、「『十日間の不思議』はクイーン長篇の最高傑作である」(47頁)と言う。我が国で究極の傑作と見なされている『Yの悲劇』は本国ではほとんど評価されておらず、本国での一番人気作『災厄の町』をはじめとするライツヴィルものこそがクイーンの絶頂期の作品と考えられている。そして、それは作者クイーン自身の認識でもあるのだ。
 ダネイは、「〈意外な犯人〉そのものが時代遅れなのだ――それは探偵小説における、より人工的な策略の一部だが、私の意見では、われわれはもうそこから卒業してしまったのだ」(70頁)、「物質的手がかりと決定的で超論理的な推理から、私は逃れようとしてきた」(191頁)と語り、リーもまた、「僕は〔……〕人間たちの物語を求めて、そこから出て行った――並外れた性格、あるいは並外れて興味深い性格、そして/あるいは、対立する人間関係、そして/あるいは、見覚えがあり興味深い背景――論理パズルというより人物、関係、出来事の総合体である物語を求めて」(107頁)と語る。
 探偵エラリーもまた、大きく変わった。グッドリッチが、「『ローマ帽子の謎』の気取った血の通わない好事家は、『十日間の不思議』の良心に苦しめられる血肉を備えた人間とは、何一つ似ていない」(338頁)と述べるように。そして、作者クイーンも本国のファンも、そこにエラリーの「成長」を見出す。「退行」ではなしに。
 こう見てくると、我が国のファンと本国のファンは、同じ〈クイーン・ファン〉と称しても、まるで違う志向性を持った〝異質の〟ファンだと言っても決して極言ではあるまい。クイーンはほぼ日本でのみ人気を保っているというだけでなく、作者や本国のファンの見方とは違った形で受容されているともいえる。
 以前の記事でも述べたが、作品の評価は一人ひとりが下すものであり、日本人には日本人の評価があっていいはずだし、それが本国での評価に比べて的が外れているとは断じて言えない。グッドリッチも、「初期の頃の長篇を好むファンは、常にEQの後期における遠出に魅了されるわけではない。そして、その逆も言える」(338頁)と述べている。ただ、少なくともこうは言えるのではないかと思う。本国のクイーン・ファンの見方は、我が国のファン以上に、作者自身が真摯に格闘した課題をよく理解し、作者自身が本当に評価してほしいと望んでいたポイントをまっすぐに見つめているのだと。
 ダネイは、『クイーン談話室』の中で、「吸ガラをどこに棄てたらいいのかね――天井にか」という言葉のきっかけから、「数ヶ月にわたる構想と構成、焦燥と選択の後に、『チャイナ橙の謎』という小説ができあがった」と書いている。おそらく、この頃の二人の議論は、同じ激論でも、まさにこうした謎解きのプロットやロジックを練り上げることに費やされていたことだろう。そして、我が国のファンにとっては、そうした議論の過程こそが興味深く、本当に知りたいと思うことではないだろうか。
 だが、先述したように、ライツヴィルものの構想は、二人の作者が初期の頃のそうした議論を消化し切ったあとに辿り着いたものなのだ。本書での二人の議論が何を論じているのかをよく見てほしい。プロットに触れかねないので詳細には立ち入らないが、それはトリックでもロジックでもない。一人ひとりの登場人物が読者にリアルで説得力のある存在として受け止めてもらえるにはどうしたらいいかを激しく論じ合っているのだ。探偵小説の核心は、技術的な〈トリック〉や解決で示される〈ロジック〉という部分要素ではなく、登場人物一人ひとりの存在とその関係が不可欠の要素として全体を織りなす〈プロット〉にあるという、本来は当然の認識がそこにはあるからだ。
 繰り返しになるが、我が国の探偵小説ファンが国名シリーズのロジックを至高のものとする認識を捨てる必要はないし、『Yの悲劇』を世界一の傑作とする考えを改める必要もない。だが、本書を読む醍醐味は、「いかに」激しく議論しているかという表層ではなく、「何を」論じているのかという点にありそうだ。そして、二人の作者がその議論に注いだエネルギーと時間、そこにかけた情熱を本書から垣間見る時、「第一期」の作品に比べて過小評価されてきた作品群の本当の面白さが見えてくるのかも。その時、クイーンの作品が驚くほどの多様性を持つだけでなく、たゆまず成長を続けてきた過程がそこにはあることに気づくかもしれないし、これまで思っていた以上に豊かな拡がりを持つシリーズとして眼前に現れてくることだってあるだろう。本書は読者にそのきっかけを与えてくれる書だと言えるのではないだろうか。


            グッドリッチ
スポンサーサイト



プロフィール

S・フチガミ

Author:S・フチガミ
お問い合わせ等は
fuhchin6491
(アットマーク)
hotmail.co.jp
へどうぞ

カテゴリ
フリーエリア
天気予報
リンク
検索フォーム
アクセスカウンター
RSSリンクの表示