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メグレ警視シリーズの面白さ

※『メグレと謎のピクビュス』のプロットを明かしていますのでご留意ください。


 探偵小説作家で、アガサ・クリスティに次ぐ世界的発行部数を誇る作家は、おそらくジョルジュ・シムノンだろう。ノーベル文学賞の候補に推薦されたことも何度もある。だが、シムノンは我が国では驚くほど不遇だ。メグレ警視シリーズは河出書房のシリーズや雑誌『EQ』での掲載もあって全訳されたが、その大半は現在入手困難であり、普通小説に至ってはバーゲン本扱いになったものまである。彼我におけるこの驚くべき差異は何に由来するのだろうか。
 答えは明白だ。我が国の読者の多くは謎解きを主な関心として探偵小説を読む。シムノンの作品を初めて手に取った探偵小説ファンはどんな視点で読み始めるのだろうか。おそらく、「犯人は誰か? 殺害方法は?」といったところだろう。場合によっては、世界的人気を誇る探偵小説作家に対し、大いに期待を抱き、これにふさわしいフーダニットやハウダニットの大仕掛けが待っているのではとワクワクして謎解きを待ち受けるかもしれない。ところが、最後まで読み終えると、犯人は特に意外でもない人物、殺害方法もごくありきたりと分かる。事件そのものも日々の新聞で目にしそうな陳腐なものだ。そして結局、「こんなものに何を大騒ぎするんだろう?」と肩をすくめながら引き返してくる――これがシムノンを手にした我が国の読者の多くが示す反応ではないだろうか。

 はっきり言えば、こうした読者は、(ロバート・バーナードの表現を裏返せば)金鉱で石炭を掘り当てようとする人たちなのだ。

 プロットで勝負する探偵小説作家、たとえば、アガサ・クリスティは、彼女自身が述べているように、探偵小説を技術的な観点で執筆する。まずはプロットを練り上げ、これに即して物語を構築する。個々の登場人物もプロットにふさわしい個性と役割を与えられる。時に批判されるように、彼女の登場人物はボール紙から切り抜いたような薄っぺらな造形でしかない場合が多い。だが、それが彼女の作品の場合にはふさわしい。深みのある人物造形が施されたならば、そんな人物が到底行い得ないような犯罪やその人間性に反する動機を設定することはできなくなるからだ。我々は彼女の作品の結末で、ある人物がそれまで想定していたのとはまるで異なる性格の人物であり、思いもかけない動機を内に潜めていたことを知るが、そこに矛盾を感じることは少ない。

 シムノンは、クリスティとはまったく異なる執筆方法を採る。まず一人ひとりの登場人物の住所、家系、病歴、子どもの頃の思い出などを詳しく書き出し、さらには各人の家の間取りをドアや窓に至るまで詳細に図面化するという。そうやって、それぞれの人物に自分がなり切ることができたと納得した時、初めて執筆に取りかかる。シムノン自身述べているが、彼はプロットを予め考えない。登場人物たちが一度動き始めたら、あとは自分の手を離れて動いていくからだ。シムノンの作品が概ね短いのは、それらの登場人物になり切ることができる期間が限られているからであり、途中で中断すると、再びその作品を書くことはできなくなるという。

 メグレ警視も、シムノンのこうした人物造形の中で生み出されたキャラクターだ。ジュリアン・シモンズは Bloody Murder の中でこう書いている。「ホームズは鳥打帽、虫眼鏡、推理能力の組み合わせであって、人間ではない。ウィムジイは知性はあっても相変わらずふざけたバーティー・ウースターだ。ポワロはお定まりの滑稽な外国人。ネロ・ウルフは食事、ビール、蘭との関わりの中でしか存在しない」と。だが、「メグレは、小説の探偵はおしなべて薄っぺらだという法則を打ち破っている」。
 実際、ジル・アンリが『シムノンとメグレ警視』において、メグレ警視の人となりを詳細に再構成したように、メグレはまるで実在の人物のような具体的な来歴と豊かな人間性を具えている。アンリはこう書く。「その主人公がまるで実在の人物であるかのごとくに考えられるということは、それを創作した小説家に対する最大の賛辞ではないだろうか」(桶谷繁雄訳)と。他の探偵小説の探偵であれば、その人物像を描こうとしても、たとえば、ロジャー・シェリンガムのように、数ページのプロフィールで終わってしまうだろう。アン・ハートの『名探偵ポワロの華麗なる生涯』にしても、年代記的な記述を拾い上げて整理したものであり、作品数が多いから一定の分量になっただけで、ポワロの人となりをリアルな姿で伝えてはくれない。
 
 メグレ警視が事件と取り組む姿勢は、シムノンの執筆方法とまさにパラレルのものだ。メグレは事件の関係者たちと接しながら、彼らの一人ひとりになり切ろうとする。彼らがメグレにとって将棋の駒などではなく、血肉を具えた人間として理解された時、初めてメグレは真相に辿り着く。
 一つの例として、『メグレと謎のピクビュス』を取り上げてみよう。ある女占い師が殺される。事件の真相は実に呆気ない。だが、殺人犯とは間接的な関係しか持たない人々のおぞましい過去が捜査の過程から浮き彫りになる。ある船医が大金持ちの娘の命を助けてやり、その娘から感謝のしるしとして毎年二十万フラン受け取るようになる。ところが、その船医は病死。船医の妻は二十万フランの定期収入を失うことを恐れ、夫の死体を隠し、彼に似た浮浪者を拾って夫に仕立てる。その男は文盲で領収書にサインができなかったため、指を切り落とし、事故で字が書けなくなったことにする。二人はいつの間にか本物の夫婦のようになり、娘を儲ける。
 船医の妻、ル・クロアガン夫人の造形は実に見事だ。メグレは夫人や偽のル・クロアガンと接しながら、彼らという人間を理解していき、夫人の密やかな恐れや後ろめたい過去を我が事のように共有する。人間性の深奥に潜む不可解な動機は大金持ちの女性にはさっぱり分からない。彼女にとって二十万フランははした金だ。「かわいそうなひとね!……ちょっとわたしに手紙をくれればいいのに……わたしはその二十万フランのことはすっかり忘れてましたよ……その件は代理人に任せてあります」(長島良三訳)と語り、ル・クロアガン夫人のやったことを興味本位的に面白がるだけだ。それが通常人の反応なのかもしれない。だが、メグレにとってはそうではないのだ。
 
 メグレ警視はただの謎の解明人ではない。〈運命の修理人〉だ。どこかで狂った運命の果てに事件に巻き込まれた人々に接し、彼らを理解するように努め、事件の捜査(解決するとは限らない)を通して彼らの運命を〈修理〉するのだ。『オランダの犯罪』の記事でも触れたように、事件現場に溶け込み、一人ひとりの関係者と接する中で彼らに同化しながら犯罪発生に至る必然性を再構築しようとする〈運命の修理人〉メグレの姿を我々はそこに見るのである。
 メグレ警視のシリーズを楽しむためには、このシリーズに固有の特質を理解することが不可欠だ。謎解きのプロットを重視する視点を切り替え、メグレがいかに事件関係者たちと接し、一人ひとりの人間性や彼らの人間模様に迫っていくかを見つめることができるようになれば、そこには、他の探偵小説では得られない物語の醍醐味が見えてくる。
 
 こう力説してみたところで、そんなものは探偵小説ではない、あるいは、探偵小説の邪道だ、とすら言う人も一定数いることだろう。そうした人たちにシムノンの作品を無理に勧める必要はない。ロバート・バーナードの言葉を借りれば、「気にしなさんな。読んでみて面白くないのなら、きっと趣味に合わんのでしょ」(『欺しの天才』小池滋、中野康司訳より)とお答えすればいいと思う。こんなことを論じてみたところで、シムノンが俄かに読まれるようになるとはどのみち思えない。それに、シムノンは多作家だったため、時に気の抜けたような凡作を書くこともある。常に当たりがいいとは限らないのだ。
 ただ、我々は探偵小説を読む際に視点を一つに限定する必要はない。フリーマン『オシリスの眼』のあとがきでも述べたが、ロジックを重視した作品はトリックを重視する視点を切り替えることでその面白さを新たに理解できるようになる。シムノンの場合も同様だろう。そして、そうした視点の切り替えができるようになれば、より幅広い作品の面白さを味わうことにもつながるのではないか。そのことを理解してくれる人が一人でも増えてくれればと願うばかりである。
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