『時の娘』再考 ヘンリー七世犯人説

 クレメンツ・マーカムによる説。
 ウォルポールも、「リチャードではなく、おそらくヘンリーが、ウォリック伯同様、本物のヨーク公を亡き者にしたのである。エドワード五世が殺されたのかどうかは不確かだし、たとえそうだとしても、誰の命令で殺されたのか不確かだ」とヘンリーが犯人である可能性を示唆していました。
 マーカムは、二王子はリチャードの時代には厚遇され、北方のシェリフ・ハットン城でウォリック伯エドワード(リチャードの兄クラレンス公ジョージの息子)とともに生活し、ヘンリー・チューダーによる侵略の危機が迫った時にロンドン塔に戻されただけであり、実際は、ヘンリーの権力掌握後、彼の命令により殺害されたという説を提示しています。
 ヘンリーは、権力掌握後、エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルとの婚姻が無効であり、その間に出来た子供達が庶子であることを宣言した議会の議決を覆し、エリザベス・オブ・ヨークをエドワード四世の嫡出子として王妃に迎えますが、この措置により、二王子の王位継承権を回復してしまうことにもなり、それがヘンリーの二王子殺害の動機だったとマーカムは考えます。
 マーカムは、モアが伝えているティレルとダイトンの「告白」に注目します。まず、ティレルは処刑されていますが(但し、二王子殺害とは全く関係のない罪で)、もう一人のジョン・ダイトンは、他の記録によれば、ティレル処刑後もカレーで自由な生活を送っており、また、ティレルにはジョン・ダイトンという名の下僕はいなかったことも明らかにします。
 さらに、マイルズ・フォレストという人物は、ロンドン塔から244マイルも離れたバーナード城の衣装管理係であり、そこで妻と息子とともに暮らし、1484年9月に死去しており、これに伴い、家族が年金を受けていることを突き止めます。こうして、マーカムは、フォレストがロンドンから遠く離れた城の官吏にすぎず、ロンドン塔の看守ではなかったことを明らかにします。
 こうした情報の不正確さから、マーカムは、「告白」の内容は実際に起きた悲劇の輪郭を伝えているとしても、リチャードに二王子殺害の罪を被せるために、ヘンリー七世自身が出来事の根幹を歪曲して公表したものであり、実際は、ティレル、グリーン、ダイトン、スレイターという人物達は、ヘンリー自身の共犯者であったと推測しています(フォレストの名前がなぜ紛れ込んだのかは不明としている)。

 ヘンリー七世時代の記録によれば、ジョン・グリーンという人物は、1486年3月11日にヘンリーからハートフォードシャーにある荘園の三分の一を与えられています。
 ティレルは、ヘンリーの権力掌握後、暫くは冷や飯を食いますが、1486年に国王側近のナイトの一人となり、6月16日に大赦を受け、わずか一ヶ月後の7月16日に再び大赦を受けており、その直後にカレーにある城の城主に任命されています。その後も大使などの要職を務めますが、1502年、リチャードの甥サフォーク伯の逃亡を助けた嫌疑でカレーの城からロンドンに連行され、ロンドン塔で処刑されています。
 ジョン・ダイトンは、1487年5月にリンカーンシャーでの名目だけの牧師職による収入を得、カレーに居所を与えられており、告発されることも処罰されることもなく、カレーで世を去っています。
 また、ウィリアム・スレイターという人物が、1488年のイースターに「報償」という名目でヘンリーから多額の金を受け取っている記録も残っています。
 つまり、「告白」で二王子殺害の共犯として言及されている人物のほとんどは、ヘンリーの治世下で手厚い報償を受けており、ティレルを除けば、誰も処罰されていないことになります。

 マーカムは、こうして実際に起きた悲劇を再構成していきます。
 ヘンリー七世は、1486年3月に即位後の巡幸に出発します。マーカムは、同月11日にグリーンが得た荘園の一部は、いわば、任務遂行後に満額を受け取る手付金であったと考えます。ヘンリーは、6月にロンドンに戻り、グリーンが任務に失敗したことを知り、こうしてティレルが選ばれることになります。マーカムは、ティレルがわずか一月の間に二度の大赦を受けている事実から、二王子殺害は1486年6月16日と7月16日の間に行われたと判断します。
 また、ジョン・ダイトンという名の僧侶が実在していたことから、「告白」のダイトンは、ティレルの下僕ではなく、おそらくロンドン塔の司祭で、事後従犯的に遺体の埋葬に関与した人物であり、実際に手を下したと思われるウィリアム・スレイターは、ロンドン塔の看守であろうとマーカムは推測しています(スレイターは、記録の通り、暫くは口止料を受け取っていたが、その後の記録には現れないことから、彼も消されたのでは、というのがマーカムの推測)。
 さらに、1674年にホワイト・タワーの階段の下から実際に遺骨が発見された事実から、匿名の僧侶による改葬のエピソードは、遺体の発見を妨げるためにヘンリー自身が追加した創作だとしています。マーカムは、ティレルやダイトンが報償を受けつつも、いずれも海峡の向こう側に住むことを強いられたのは、ヘンリー自身の深慮によるものだったとも推測しています。
 二王子の母親エリザベス・ウッドヴィルは、1487年2月、リチャードの命に従ったことを理由に、全財産を没収され、バーモンドシーの修道院に押し込められます。しかし、エリザベスがリチャードと親しい関係を維持していた事実は当初から分かっていたことであり、ヘンリー七世の御用歴史家だったポリドア・ヴァージルでさえ、この決定は「大いに不審を抱かれた」と述べており、後のガードナーも「非常に不可解な決定」と評しています。
 マーカムは、この歴史の謎について、エリザベス・ウッドヴィルが、1486年9月、娘エリザベス・オブ・ヨークの王子出産の際、娘とともにウィンチェスターに滞在しており、その後ロンドンに戻っている事実に注目します。ヘンリーは、ロンドンに戻った母親がいずれ二王子の消息を不審に思い始めるのを恐れ、彼女を修道院に押し込めて沈黙させた、というのがマーカムの解釈です。

 ティレルが受けた二度の大赦から、二王子殺害の時期を推定するマーカムの議論に対しては、ポラードのように「あまりに思弁的」という批判があり、二度の大赦を受けるのも決して例外的なことではなかったという反論もあります。
 また、エリザベス・ウッドヴィルの処遇については、彼女が当時起きたランバート・シムネルの反乱(ウォリック伯を詐称したシムネルをヨーク家のリンカーン伯らが担ぎ上げて起こした反乱)を密かに支援したことへの懲罰だという解釈もあります。
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