暗号ミステリの金字塔 ヘレン・マクロイ “Panic”

 ヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』の新訳が創元社から出た。マクロイの作品も最近続々と翻訳が出て、ようやく全体像が見え始めたところといえるが、ベイジル・ウィリング博士のシリーズだけでも、まだ残された傑作が幾つもある。個人的には、“Who’s Calling?”、“The One That Got Away”、“Alias Basil Willing”がお勧め。
 ここで紹介するのは、ノン・シリーズ物の“Panic”(1944、1972改訂)。タイトルからすると、サスペンス物のように思えるが、そうした要素もあるものの、ベースは謎解きである。1972年の改訂版は、主に初版刊行時の第二次大戦への時局的な言及をカットし、その後の時代の変化等に触れた著者の序文を付したものである。
 作品の中でも説明されているが、「パニック」という言葉は、本来、ギリシア神話の牧神(Pan)、つまり、森に棲む半人半獣の神に由来する。動物や家畜の群れが突然理由もなく暴走を始めたりすると、それは牧神が人の耳には聞こえない音楽を奏でて動物たちを唆したためと古代ギリシア人は考えた。ここから、牧神は理由のない混乱や恐怖を引き起こす源とされ、パニックの語源となったとされる。本作品のタイトルは、この「牧神」がストーリーを貫くモチーフになっているためで、我々が普通使う意味でのパニックがメインに描かれているわけではない。

 アリスン・トレイシー(本書のヒロイン)は、早朝、いとこのロニーからの屋内電話で目を覚ます。ロニーはワシントンから到着したところであり、彼女が秘書を務めてきた同居の伯父フェリックスが死んでいるのに気づいて連絡してきたのだった。伯父は二年前に心臓発作を起こして以来病身であり、いつも寝る前に読んでいたプルタルコスの著書を膝の上に開いたままベッドで息を引き取っていた。
 アリスンはその本の間から滑り落ちた紙片に意味不明の文字の羅列が手書きで書かれているのに気づくが、ただの紙くずと思い、メイドにゴミ箱に捨てさせる。そこへアームストロング大佐と名乗る人物が来訪し、伯父の書類フォルダーはどこにあるのかとアリスンに迫る。大佐は情報局に属しており、フェリックス伯父は国防総省のために新たな暗号書記法の開拓に従事し、完璧な戦地用暗号を作ったと主張していたという。捨てた紙くずがその暗号だったのではと気づくが、既に焼却されてしまっていて、アリスンも内容を憶えてはいなかった。
 アリスンはロニーの勧めでニューヨークの喧騒を離れて、老犬のアルゴスを連れてオールトンリーという人里離れた山間のコテージに移り、しばらく滞在することにした。一人静かに床に就いたアリスンだったが、夜中に、コテージの周囲をうろついているらしい不審な足音に目を覚ます・・・。

 暗号ミステリといえば、探偵小説の始祖ポーの「黄金虫」(「暗号論」も有名。『ポオ小説全集4』創元社所収)、これをベースにしたドイルの「踊る人形」が有名だし、レイモンド・ボンド編『暗号ミステリ傑作選』というアンソロジーもあるなど、ミステリ・ファンにとっておなじみのテーマといえる。
 「黄金虫」や「踊る人形」で扱われている暗号は単一換字式暗号と呼ばれるものであり、これはシーザー暗号と同様の最もシンプルな暗号形式だが、ヴィジュネル暗号のような多表式換字式暗号もよく知られていて、これらの暗号の歴史や概要についても本作品の中で触れられている。
 現在では、政治・外交はもちろん、企業間でも、暗号はどんどん高度化してコンピューターの世界に入ってしまい、通常人の思考力で作成・解読できるレベルをはるかに超えてしまっているが、“Panic”では、時代背景を反映して、field cipher(戦地用暗号)というものを取り上げている。
 戦地用暗号は、戦線の現場でやりとりされる暗号であり、その制約下で作成・解読されなければならない。したがって、そこに高度な電子機器や複雑なコード表の類を持ち込むことはできないし、仮に持ち込んでも、それを失くしたり、敵に奪われてしまえば元も子もない。このため、戦地用暗号に求められる要件とは、暗号書記法の知識に乏しい前線の兵士でもすぐ正確に記憶できるシンプルさと、なおかつ、容易に敵に解読されない複雑さを併せ持つことである。
 マクロイの“Panic”は、こうして戦場という特殊な条件を設定することにより、ハイテクの次元にまで飛躍し、通常人の手の届かなくなった暗号というテーマを、再び一般読者の目線に引き戻すことを可能にしようとした作品といえる。
 暗号を題材にした長編ミステリは、コナン・ドイルの『恐怖の谷』、ドロシー・セイヤーズの『死体をどうぞ』をはじめ数々あるが、マクロイの“Panic”はその中でも頂点に立つものと見なされている。アンソニー・バウチャー(自身も「QL696・C9」という暗号ミステリあり。上記『暗号ミステリ傑作選』所収)は「現代小説として思いつく限りで最も才知に長けた暗号処理」と呼び(“The Anthony Boucher Chronicles”)、“The Oxford Companion to Crime and Mystery Writing”で‘Ciphers and Code’の項目を担当しているエドワード・ホックも、本作品の暗号を「これまで小説で扱われた最も複雑な暗号のひとつ」としている。
 マクロイ自身も、1972年の改訂版の序文で、陸海軍それぞれの情報部職員が本作品の暗号解読を試みて失敗したエピソードに触れているが、一方で、もはやここまで複雑化してしまっては、いずれにしても一般読者の興味の対象にはなりにくいという批判があるのも事実だ。
 バウチャーも書評の中で、心理的なサスペンスの要素と暗号解読という知的な要素をブレンドしたことに難色を示し、後者をむしろ作品の欠点と見なしているようだ(前掲書)。とはいえ、本作品は、全盛期のマクロイの作品らしく、暗号解読という要素を度外視しても、優れた謎解きとサスペンスを盛り込んだ傑作として十分に楽しめる仕上がりとなっている。
 なお、私の所持する“Panic”(1972年改訂版)には、著者マクロイの献辞が書き込まれている。


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