実は戯曲版? 映画「ナイル殺人事件」

 ジョン・ギラーミン監督の映画「ナイル殺人事件」は、個人的には、シドニー・ルメット監督「オリエント急行殺人事件」と甲乙つけがたいほどのお気に入り映画です。もっとも、出演した俳優の豪華さでは引けを取らないものの、興行収入では「オリエント」のほうが圧倒的に上で、一般には「ナイル」はいささか分が悪いとみられがちですけどね。
 ルネ・クレール監督やピーター・コリンスン監督などの映画「そして誰もいなくなった」が戯曲版をベースにしていることは比較的知られています。他方、「ナイル殺人事件」や「死海殺人事件」(原作は『死との約束』だが、この映画の邦題はひどい)は、それぞれ小説版とプロットの異なる戯曲版がありますが、映画はいずれも小説版に基づいていると考えられています。
 なにしろ、どちらの戯曲版もポアロは登場しないので、戯曲版をそのまま用いると、肝心かなめの「スター」が不在になってしまいます。ポアロのいない『ナイルに死す』なんて、ピラミッドのないエジプトみたいなもの。とはいえ、『死との約束』戯曲版は、ぜひ視覚的に実現したものを観てみたいという気持ちはありますけどね。
 実際、映画「ナイル殺人事件」は、タイトル(小説版は“Death on the Nile”、戯曲版は“Murder on the Nile”)、登場人物、プロット、いずれも小説版をベースにしているように見えるのですが、よくよく確認すると、この映画には、実は戯曲版の「隠し味」が仕込んであるのです。それは、ポアロが容疑者を一堂に集め、謎解きを披露してみせるクライマックスのシーン。ここで、ピーター・ユスチノフ演じるポアロは、「ムラージュ・テスト(moulage test)」というものに言及します。小説版を読んでもこの言葉はどこにも出てきません。ところが、実は戯曲版に出てくるのです。(戯曲版で探偵役を務めるのはキャノン・ペネファーザーという人物。)
 あくまで推測ですが、これは、監督のジョン・ギラーミンではなく、脚本家のアントニー・シェーファーが仕込んだものではないでしょうか。なにしろ、ピーターとアントニーのシェーファー兄弟は、『衣装戸棚の女』や『ベヴァリー・クラブ』、“Withered Murder”のような探偵小説を書き、書評まで手掛けたほどの無類のミステリ・ファン。アントニーのほうは自らも舞台劇「スルース」で知られる人だけに、きっと、この映画の脚本作成に際しても、小説だけでなく、戯曲版にもきちんと当たったのでしょう。
 小説でのポアロは、謎解きを一部の登場人物に向けて解説してみせるだけであり、犯人に直接ぶつけて陥落させる手段として用いているわけではありません(少なくとも、そうした場面は描かれていない)。しかし、戯曲版では、ペネファーザーは犯人と直接対峙して謎解きを披露し、犯行を認めさせるわけです。
 シェーファーは映画としての見せ場を作るため、容疑者を一堂に集めての謎解きの場を設けたわけですが、そこで必要となる犯人との直接対峙の場面を肉付けするために、小説版にはない素材を戯曲版から借用してきたのではないでしょうか。
 そんなわけで、戯曲版には独自の面白さもあるのですが、優れたプロットの謎解きだけに、ポアロに花を持たせてやりたいと思うのはファンの心情。どちらを選ぶかと言われれば選択の余地はありません。しかも、小説版には、ポアロの数ある見せ場の中でも、特にお気に入りの場面があるんですよね。それは、ポアロが謎解きを始めるにあたって言うセリフ。

 ‘I like an audience, I must confess. I am vain, you see. I am puffed up with conceit. I like to say: “See how clever is Hercule Poirot!”’
 (私は聴き手がほしいんです。正直言えばね。そう、私は見栄はりですよ。うぬぼれていい気になっています。私はこう言ってやりたいのです。「見よ! エルキュール・ポアロの賢さを」とね。)

 (文庫の邦訳では「蛙のように」という余計な加筆も含めて、いまひとつ原文の持つ勢いが活きていない感じがしてしまうのですが、)いかにもポアロらしい得意げなセリフで、これに続く謎解きを知ったあとでは、なるほど恐れ入りました、と言いたい気持ちになってしまうところが憎いんですよね。
 追記:
 この機会に、原書の“Death on the Nile”の版の異同についても触れておきたい。
 コリンズ社の英初版では、邦訳にあるとおり、冒頭にシビル・バーネットへの献辞が記されたあと、本文は第一部、第二部に分かれている。
 第一部は、標題として、‘PART Ⅰ CHARACTERS IN ORDER OF THEIR APPEARRANCE’と記されているが、第一章しかなく、それがさらに小文字のローマ数字で12に分割されている。
 第二部は、標題として、‘PART Ⅱ EGYPT’と記され、全部で三十章からなっている。

 ところが、1953年のペンギン・ブックス版では、著者序文が新たに冒頭に加筆されたが、献辞が消え、さらに、第一部、二部の区別がなくなり、全三十一章構成となっている。
 また、英初版には、第二部第十二章に、カルナーク号の平面図と部屋割りの図面が挿入されているが、ペンギン・ブックス版には載っていない。その後のペーパーバック版を見ても、気づいた限りでは、やはり図面が欠如し、通しで三十一章構成となっている。

 ここからはあくまで推測だが、第一部が一章分しかなく、あまりに短いというアンバランスさを解消するために、後の版から、二部構成を改めて通しの章立てにしたのではないだろうか。図面等が初版にのみ載っていて後の版で消えているのは、クリスティに限らず、よくある例といえる。しばしば初版が貴重なものと見なされる所以である。
 
 ちなみに、早川文庫の邦訳は、英初版と同様に、献辞、図面を載せているが、さらに、ペンギン・ブックス版の著者序文も加えている。また、第一部、二部の構成も英初版を踏襲しているが、なぜか第一部は原書の副題が欠け、第二部のみ「エジプト」と記載されている。
 (訳書で省かれてしまった第一部の副題は、この部分で登場人物を順に頭に入れてほしいという著者の意図を表していると思うのだが、はじめはゆっくり読んで、各人物の様子を頭に入れ云々という「訳者からのおねがい」は、本来、著者がそこで言わんとしたことを訳者が敷衍して自分の「おねがい」にすり替えたような気がしてならない。穿った見方かもしれないが、蛇足めいた「訳者からのおねがい」を加えるより、原文をきちんと訳すべきではなかったろうか。)
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