『アクロイド殺害事件』の叙述と翻訳:追記(注意:ネタバレあり)

 『アクロイド』既読の方は表示反転してお読みください。未読の方は読まずにスルーしてください。

 以前書いた記事は
http://fuhchin.blog27.fc2.com/blog-entry-61.html

 『アクロイド』の評価をめぐっては、ネットなどを見ていても、結末の意外性をめぐるフェア・アンフェア論だけでなく、「一人称推理小説」や「一人称の手記」という実体を伴わない抽象的な概念を前提にして、そこから「そもそも論」めいた思弁を展開する議論が意外に多いと感じる。そうした議論は、実体として存在する『アクロイド』という作品の具体的叙述に即して検討するのではなく、ただ、抽象物としての「一人称小説(手記)」を論じているだけではないかと思える場合がしばしばある(あるいは、そうした抽象的前提をテクストに読み込む議論も)。それは時として、もはや『アクロイド』という具体の作品とはほとんど無関係の議論のようにすら思える。
 曰く、一人称で書かれている以上、語り手が犯人であれば嘘を書いている可能性を排除できない。都合の悪い部分を書かずにすませているなら、どのみちアンフェア。さらには、『アクロイド』へのそうした批判を教訓とした発展形として書かれたのが『そして誰もいなくなった』である。一人称の手記である以上、嘘や省略があるのは当然であり、そのことに気づかない時点で著者の計略にはまっている等々。
 『アクロイド』は思弁の中で紡ぎ出された観念的な抽象物ではなく、実体を伴った作品なのだから、こうした議論がどこまで当たっているかは、神学論争のような抽象論議の応酬で結論が出るものではなく、むしろ、もう一度、作品の実際の中身や著者の発言に立ち返り、確認することを通じてその是非を判断すべきだろう。
 『アクロイド』第23章で、語り手から手記を見せられ、「率直な意見」を求められたポアロは次のように語る。

 ‘A very meticulous and accurate account,’ he said kindly. ‘You have recorded all the facts faithfully and exactly – though you have shown yourself becomingly reticent as to your own share in them.’

 この時点で、ポアロの口から、語り手の手記の性格は読者に明らかにされている。細心かつ正確に事実を記録しているが、語り手自身の関与については沈黙している、と。ほかならぬポアロがそう語れば、通常の読者はそれを正しい判断として受け入れるはずだ。その時点で、読者はこの手記の性格を知らされ、それを前提に考える手がかりを与えられているといえる。
 (そのポアロの発言すら、語り手が記録したものにすぎないから事実という保証はない、探偵が判断を誤るのもプロットとしてあり得る云々と主張する人もいるかもしれないが、そんな議論には、私としては苦笑して肩をすくめるだけで、これ以上踏み込むつもりはない。
 いささか脱線だが、この関連で、創元社の大久保康雄訳の問題点をもう一つ指摘しておく。
 第13章で、事件の日の朝に診察した患者について関心を持った理由を語り手がポアロに尋ねるやりとりが出てくる。ポアロの回答以下、原文では次のようになっている。

‘Only one of them, doctor. One of them.’
‘The last?’ I hazarded.
‘I find Miss Russell a study of the most interesting,’ he said evasively.

 ポアロが実際に関心を持っていたのは、まったく別の患者だったのだが、語り手がミス・ラッセルのことを示唆したのを受けて、ポアロははぐらかすように彼女の話題を口にするというのがこのくだりだ。ところが、大久保訳では、このポアロのセリフの意味を取り違え、「そうです」という原文にない言葉を加えている。‘evasive’の意味も捉え損なっているようだ。この訳では、ポアロはしゃあしゃあと嘘をついていることになる。)
 一人称で書かれた手記には嘘や省略が不可避という主張は、抽象的な「そもそも論」としては間違っているとは思わないが、以前例示したように、クリスティは、故意に嘘を書いていると受け取られないように細心の注意を払って表現や言葉を選んでいる。そして、上記のように、その手記の性格についても本文中で明らかにしている。この手の議論は、クリスティ女史のそうした意図と骨折り作業をどこまで理解しているのだろうか。
 そのことを意識しない翻訳が現に出回り、作品のプロットの本質を傷つけていることは、以前例示したとおりだ。翻訳者は「この語り手は省略することはあっても、嘘を書くことはない」という(ポアロが指摘した)点を頭に叩き込み、十分留意してかからなければ、オリジナルの特徴を活かした翻訳を実現することはできない。だが、一人称の手記だから嘘があっても当然という議論がまかり通れば(いくらそれが作品を批判することでなく擁護する趣旨の議論だとしても)、訳者は(読者も)そうした意識を持つだろうか。それどころか、従来の翻訳すら正しいかのような誤解を生むのではないだろうか。そうした議論がこれまでのような翻訳を助長してきたとまで言うつもりはないが、今後、叙述の両義性を細心に尊重した翻訳に改めていこうという動きを促すことには、少なくともつながらないだろう。
 さらに、クリスティ女史が叙述に細心の注意を払っていることを示して批判者に反論してきたと語っているのは、1953年のペンギン・ブックスの序文であることを想起してほしい。『そして誰もいなくなった』(1939)の出版後に、『アクロイド』における「技術的挑戦」を誇らしげに書いている著者が、『そして誰もいなくなった』を『アクロイド』への批判を教訓とした発展形と考えていたなどと想像できるだろうか。自由な推測という思弁を弄ぶのは個人の勝手だし、それを自分自身の評価付けとして提示するのも構わないが、あたかもそれが作者の意図でもあったかのように推測させる提示の仕方をするなら、誤解につながるリスクがあることも忘れてはならないだろう。
 発表以来、様々な議論を引き起こしてきたプロットの作品だけに、議論好きの人々を刺激してもきたし、それをネタにした哲学めいた思弁を展開する議論も不可避的に出現するのかもしれないが、抽象次元の議論で作品の性格を割り切ってしまう前に、もう一度作品本体に立ち返り、具体の叙述に即して(著者の意図を汲みながら)作品を評価してほしいものだと思う。
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