ドロシー・L・セイヤーズ 戯曲 “Busman's Honeymoon”

 戯曲“Busman’s Honeymoon”(1936)は、ドロシー・セイヤーズとミュリエル・セント・クレア・バーンの共作による劇作品。共作者のバーンは、セイヤーズと同じサマヴィル・カレッジ出身の友人であり、1981年に、エドワード四世の庶子アーサー・プランタジネットやヘンリー八世などの往復書簡集の校訂版を出したことでも知られている。
 一部で言われているように、この戯曲は小説版の『忙しい蜜月旅行』(1937)を脚色したものではなく、小説のほうが戯曲をベースにしてセイヤーズ単独により執筆されたものである。
 この戯曲の刊行本は、1937年にゴランツ社から初版が出たが、1985年にケント州立大学出版部から、セイヤーズ単独の戯曲“Love All”との合本で、アルジナ・ストーン・デイルによる校訂版が出ている。この校訂版では、戯曲の本文はゴランツ社版をそのまま収録しているが、ゴランツ版には掲載されなかった、第三幕第二場の冒頭に挿入されるべき注意書き、セイヤーズによる登場人物の解説、初演前にロンドン・イブニング・スタンダード紙に掲載された両著者へのインタビュー記事を付録として巻末に収録している。
 ストーン・デイルは、序文において、バーンが箱に入れて50年近くも残しておいた400頁に及ぶ両人の手になるノートや草稿を調査した結果に基づき、作品の成立過程を詳細に分析している。これによれば、セイヤーズが最初に草稿を書き、これにバーンが目を通して注を加えたり、カットや改訂を行い、それをさらにセイヤーズが手書きやタイプによる新たな改訂稿に仕上げ、バーンが校訂するという作業だったようだ。
 上記インタビュー記事によると、セイヤーズがバーンを訪問した際に、煙突掃除の話題になり、劇の開始部分に理想的だという話から、自信のなさそうなセイヤーズにバーンが一緒に書こうと持ちかけたのがきっかけだったという。ストーン・デイルによれば、最初にミステリとしてのプロットや登場人物を構想したのはバーンであり、殺人方法はセイヤーズが考案したもののようだ。
 劇は1936年11月にバーミンガム王立劇場で初演が行われ、12月にロンドンのウェスト・エンドに移り、上演回数は500回以上に及んだ。セイヤーズの最初の劇作品というだけでなく、最大の成功作となったとされる。
 冒頭に掲げられた「著者のノート」では、“Busman’s Honeymoon”は、スリラーや心理学的な犯罪小説から、真の「推理の問題」を区別する本質的な定式を劇という形で表そうとした試みだとし、その定式とは、「あらゆる手がかりは観衆と探偵とに同時に示されなければならない」という「フェア・プレイのルール」だと謳っている。
 その謳い文句に違わず、謎の提示からピーター卿の実演によるその解明に至るまでの筋運びは、視覚的効果を伴わない文章で読んでいても、劇的な効果を思い描きながら謎解きの楽しみを弛緩することなく味わわせてくれる。全体としての出来栄えを考えると、セイヤーズの代表作と言っても過言ではないとすら思える。
 ロバート・バーナードが『欺しの天才』や‘The English Detective Story’(H・R・F・キーティング編“Whodunit?”(1982)所収)で指摘しているように、小説版『忙しい蜜月旅行』を含むセイヤーズの後期作品には、「散漫な会話」をちりばめる一方で、推理の要素は添え物になってしまう傾向があり(そうしたところにセイヤーズらしい味わいを評価する読者ももちろんいるだろうが)、退屈で我慢ならない面がある。
 だが、この戯曲では、バーンとの共作作業がプラスに働いたのか、後期のセイヤーズに顕著なペダンティックな引用癖や饒舌なおしゃべりで水増しした感がなく、かえって、そうした作業で肥大化してしまった小説版は改悪ではないかとすら思える。ジョン・ディクスン・カーは、この劇を実際に観劇したらしく、「地上最高のゲーム」の中で、大団円の印象的な場面に言及しながら、やはり劇作品のほうを称賛している。
 ジル・ペイトン・ウォルシュが補筆完成した“Thrones, Dominations”とともに、今後の紹介が期待される作品のひとつと言えるだろう。


Busman's Honeymoon
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