『時の娘』再考 二王子の遺骨

 1666年11月、ロンドン塔の中心をなすホワイト・タワーから塔の船着場までの荷物搬送の時間を短縮するため、ホワイト・タワーとテームズ川の間に建つ一連の建物を取壊すよう命じる布告が出されます。
 1674年、ホワイト・タワーに接する階段の基礎の除去作業を行っていた作業員達は、深さ10フィートの地中から、二体の骸骨が収められた櫃を発見します。当時の記録によれば、大きい方の骸骨は仰向けにされ、小さい方の骸骨は大きい方の骸骨の上にうつ伏せにして重ねられていました。
 骨は作業員達により近くのゴミ捨て場に投棄され、暫くそのまま放置されますが、二王子の骨と気付いた当局の指示により、骨は回収されます。1678年、チャールズ二世の命令により、回収された骨は、セント・ポール大聖堂の設計者として著名なクリストファー・レンのデザインによる大理石製の石棺に収められ、ウェストミンスター寺院内に安置されます。
 1933年、遺骨の医学的調査を行う許可が下り、石棺の蓋が開けられます。調査を行ったのは、ウェストミンスター寺院の公文書管理係ローレンス・タナーと、ロンドン・ホスピタル・メディカル・カレッジの学部長であり解剖学協会会長でもあったウィリアム・ライト教授で、彼らの報告は1934年に発表されました。
 石棺の中に収められていたのは、かなりの部分の骨が欠落した二柱の不完全な骸骨に、いろんな動物の骨と錆びた釘が混ざったものでした。ライトは、骸骨は二人の子供の骨であり、骨の発達状態から、年長の方は12歳から13歳、年下の方は9歳から11歳と推定します。ライトは、そこから、「彼らの死は、王位簒奪者の叔父リチャード三世の治世下で起きたと、完全な自信を持って言うことが出来る」と結論づけます。ライトは、さらに、年長の方の頭蓋骨に「血痕」を認め、死因は窒息死だったと推定しています。
 引き続いて遺骨の歯の状態を調査した、英国歯科協会の元会長ジョージ・ノースクロフト医師も、死亡推定年齢については、ライトと同じ結論に達します。
 エドワード王子は、1470年11月生まれであることが記録から知られており、1483年には、ほぼ13歳であり、リチャードが戦死した時(1485年)に生きていれば、ほぼ15歳だったことになります。弟のリチャード王子の誕生日については正確な記録がありませんが、1473年8月頃と考えられており、1483年には、ほぼ10歳、1485年には、ほぼ12歳だったことになります。
 遺骨の発見された場所が、トマス・モアの記述通り、階段の下の地下だったこと、死亡年齢が、モアの記述した殺害時期の二王子の年齢と合致することから、多くの研究者達(ケンダルも含む)は、この調査報告に基づき、遺骨が二王子のものであり、二王子がリチャード三世の時代に殺害されたことを事実として受け入れてきました。アリスン・ウィアも、この報告をほぼ全面的に信頼し、リチャードが二王子殺害の犯人であった「証拠」として強調しています。

 ところが、この二柱の骨が、そもそも本当に二王子の骨なのかどうかは、フィールズや伝統支持派のポラードからも疑問視されています。つまり、階段の下の地下深く、というのは、モアが遺体のある場所ではなく、「ない」場所として言及している場所だからです。
 というのも、「リチャード三世犯人説」でも御紹介した通り、ティレルの「告白」では、二王子の遺体は、最初は階段の下の地下深くに埋められたが、その後、リチャードの指示により、ある僧侶が「より相応しいが、特定できない秘密の場所」に改葬したことになっているからです。つまり、遺骨が二王子のものであれば、モアは誤っていたことになり、モアが正しければ、遺骨は二王子のものではないことになります。
 伝統支持派は、この点について、主に二通りの説明を試みています。一つは、モア乃至彼の情報提供者は、ヘンリー七世が遺体の発見に失敗したことを取り繕うために、僧侶による改葬のエピソードを創作した、というもの。もう一つは、遺体は、はじめは別の階段の下に埋められたが、僧侶によりホワイト・タワーの階段の下に埋め直された、という「二つの階段」を想定するものです。
 前者については、モアの記述を基本的に受け入れながら、その一部だけを「創作」だとするのは恣意的であり、また、ティレルらが真の遺体の埋葬場所を知っていたなら、その情報だけ「告白」しなかったのはおかしいし、また、ヘンリー七世が「告白」から埋葬場所を知ったのなら、遺体を放置したのはおかしい、という批判があります。また、後者については、モアは、階段の下が国王の子供達に相応しくないという理由で別の場所に移されたと述べているのに、改葬された場所が最初の埋葬場所と同様というのは不自然だし、僧侶の単独作業で遺体を掘り出し、またも深さ10フィートの地下に埋め直した、というのは現実性に乏しい、という批判があります。
 また、発見の経緯についても、フィールズは、階段の取壊しが目的だったのなら、単純に取壊して地面を均してしまうだけでよいはずなのに、なぜ作業員達は10フィートも地面を掘ったのか、という疑問を呈しており、さらに、もし遺骨が、階段が建設される前からあったものなら、階段自体はヘンリー二世の時代(1154年-1189年)まで溯るものであり、二王子の骨である可能性はなくなる、とも論じています。

 さらに、ロンドン塔で発見された謎の遺骨は、1674年に発見された遺骨だけではありません。ロード・グレイとサー・ウォルター・ローリーがロンドン塔の囚人だった時(1603年から1614の間)、国王の間に通じる通路の壁が空ろな音がするので、壁を取壊してみると、そこに小さな部屋があることが分かり、部屋の中央にあったテーブルの上には、二人の子供の骨が置かれていた、という記録も残っています。6歳から8歳の骨と言及されていますが、現場に居合わせた人々は、勿論、死亡年齢を特定できる専門家ではなく、実際、彼らは、これこそ二王子の骨と信じたと記録されています。
 密閉された部屋は、階段の下の地下よりもずっと王子に「相応しい場所」と言えるし、こちらの方が真の二王子の遺骨である可能性が高いという主張もあります。ただ残念ながら、この骨は今日では所在不明となっています。また、ウィリアムスンは、この記録自体、「空想の域、乃至は混乱した報告」に格下げすべきものと主張しています。
 なお、1977年にロンドン塔で行われた発掘調査の際にも、鉄器時代に溯る13-16歳位の少年の骸骨が発見されています。

 1933年のライト達による調査結果についても、批判が少なくありません。遺骨の時代も性別も特定できなかったはずのライトが、リチャード三世時代の二王子の遺骨だと「完全な自信」を持って結論づけたことは、却ってライトの調査結果が先入観に影響されたものであることを疑わせる理由となっています。また、頭蓋骨に残っていた「血痕」らしきものから行った(というより、モアやシェークスピアのリアルな描写から影響された)窒息死という死因の推定も、(ウィアを除けば)今日ではほとんど否定されています。オードリー・ウィリアムスンも、「検査官達の誠実さと専門的知識は疑い得ないが、彼らは、遺骨が紛れもなく二王子のものだという魅力的な前提から出発しており、この前提が無意識の内に彼らの判断に影響を与えたに違いない」と述べています。
 死亡年齢についても、ライト達が特定したほど正確な死亡年齢の推定は出来ないという意見が少なくありません。また、英国の解剖学者リン・パーキス博士は、1964年に、その後の研究成果も取り入れて、死亡年齢はおそらく7-8歳と15-16歳であろうと結論づけています。

 フィールズが述べているように、DNA鑑定などの技術の進歩により、遺骨とエドワード四世の遺体(ウィンザー城に葬られている)との血縁関係、遺骨の死亡年齢や時代などが明らかになる日が来れば、二王子殺害の容疑者のリストをもっと狭めていくことが出来るかもしれません。


skeltons
発見された二体の遺骨の部位
(アリスン・ウィア“The Princes in the Tower”より)

cervical vertebra
年長の遺骨の第二頸椎の写真
(A・J・ポラード“Richard the Third and the Princes in the Tower”より)
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テーマ : ミステリ
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