ドロシー・L・セイヤーズ 『探偵小説の起源』

 “Les Origines du Roman Policier”(1940)は、イギリスのドロシー・L・セイヤーズ協会が刊行している冊子の一つで、セイヤーズが第二次大戦中に執筆したフランス国民向けのラジオ放送用原稿を発掘したもの(2003年刊)。
 本文はセイヤーズ自身がフランス語で執筆したものであり、冊子では、本文を見開きの左頁、英訳を対訳として右頁に載せ、リール・カトリック大学のスザンヌ・ブレイ博士による解説と注を付けている。
 ナチス・ドイツによる危機が拡大しつつあった当時、BBCは、イギリスの立場を大陸の同盟国や敵国に向けてアピールするプロパガンダ番組を制作していた。そのシリーズの一環としてセイヤーズに白羽の矢が立ったのだが、番組を担当していた女性編集者は、当初、イギリスにおける宗教思想をトークのテーマにするようセイヤーズに求めた。
 セイヤーズは、神学の領域でも論陣を張ったことで知られ、二十世紀最大の神学者と呼ばれたカール・バルトも彼女の神学論文を愛読し、自ら独語訳を手掛けて出版したほどだったという(『ドグマこそドラマ』新教出版社)。だが、セイヤーズはBBCからの要請を一蹴し、イギリスにおける宗教が混乱の中にあり、そんなテーマで話してもフランス国民の感情を害するだけだし、仮にフランス国民が自分のことを知っていたとしても、それは宗教上の著作を通じてではなく、探偵小説の作家としてだから、それ以外のテーマでは話さないと譲らなかった。
 ブレイの解説によれば、セイヤーズは、探偵小説をテーマに語ることが、立派なプロパガンダになると考えていた。ガボリオやルルーに対する賛辞を呈することができるというだけでなく、民主主義国においてこそ探偵小説が優れた完成度に達し得たことを説明し、秩序の維持、警察機構への信頼、フェア・プレイの理念という民主主義の諸原則を強調することができると考えたからだ。
 セイヤーズは、その構想に従い、ガボリオを生んだフランスにおいて探偵小説が開花し、イギリスの文学や文化もフランスに負うところが大きいことを強調しながら、両国民が手を携えてナチスの脅威と闘うことを呼びかけて原稿を結んでいる。ただ、残念ながら、このラジオ放送は、セイヤーズとBBCとの間でやりとりしている間に、フランスがドイツに降伏したことにより、実現しないままに終わったようだ。
 セイヤーズが「ウィムジイのことを宗教劇やダンテの翻訳のための財政基盤とみなしていた」(キャロリン・G・ハイルブラン‘Biography Between the Lines’より。アルジナ・ストーン・デイル編“Dorothy L. Sayers: The Centenary Celebration”所収)という見方からすると、彼女にとって探偵小説はあくまで金を得る手段にすぎなかったようにも思える。それなら、既に探偵小説の筆をほぼ絶っていたこの頃、BBCからの要請を喜んで受け入れそうなものだが、自分への評価も含めて客観的に状況判断しているだけでなく、探偵小説の持つ意義を意欲的に語る様子からは、そんな見方が俗説にすぎないのではないかとすら思えるほどだ。
 20分という放送時間を想定した原稿のため、本文だけで正味7頁にすぎないし、彼女の「探偵小説論」(1928:『顔のない男』創元文庫所収)に比べれば簡素の極みだが、ブレイが解説しているように、「探偵小説は個々の国民の権利と法の支配を保証する体制にイデオロギー的支持を与える」という信念をにじませながら論じているところが、時代背景とともに、探偵小説への強い愛着を感じさせる点で興味深い。これはハワード・ヘイクラフトの『娯楽としての殺人』(1941:邦訳は国書刊行会)とも共通するものだろう。
 セイヤーズは、「最後の事件」におけるホームズの言葉を引用して原稿の最後を締めくくっている。

“For years past I have continually been conscious of some power behind the malefactor, some deep organizing power which forever stands in the way of the law, and throws its shield over the wrong-doer… Your memoirs will draw to an end, Watson, upon the day that I crown my career by the capture or extinction of the most dangerous and capable criminal in Europe.”
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テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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 こういう資料が出ていることは知りませんでしたので、早速入手したいと思います。ありがとうございました。

セイヤーズ協会は最近、長らく絶版になっていた“The Lord Peter Wimsey Companion”の第三版をオンライン版で出したようですが、なんと会員限定でしか入手できないそうです。会員増の効果やいかに・・・。
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