『時の娘』再考 バッキンガム公犯人説

 ポール・マーレイ・ケンダルによる説。
 ケンダルは、1933年に行われた二王子のものと推定される遺骨の調査結果に基づき、二王子が1483年に死亡したことは確実と考え(この遺骨の問題については別に御紹介したいと思います)、リチャードの治世下で彼以外の人物により二王子が殺害された可能性もあることを示唆し、その最有力容疑者としてバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードの名を挙げます。
 バッキンガムが二王子殺害に関与していた可能性は、比較的近い時代の資料も言及しており、例えば、フランスの歴史家モリネは、「エドワード四世の子供達が殺害された日、バッキンガム公がロンドン塔を訪れ、自分自身が王座を戴くために子供達を殺したという、誤った噂があった」と言及しており、同じくフランスのド・コミンは、回想録のある個所では、リチャードが二王子を殺害したと言及しながら、別の個所では、バッキンガム公が「二人の子供を死に至らしめた」と述べています。
 ケンダルは、同時代の記録から、リチャードが巡幸でオックスフォードを訪問していた7月24―25日に、バッキンガムがリチャードに同道していないことに注目します。そこからケンダルは、バッキンガムは、リチャードがロンドンを出発した後の数日間、ロンドンに残っており、後にグロースターでリチャードと合流した、と推定しています。
 バッキンガムはそこからリチャードと別れてウェールズに向かい、そこで反乱を起こします。ジョン・モートンもこの反乱に加わっており、バッキンガムは、フランスに潜伏していたヘンリー・チューダーにも決起を呼びかけています。
 チューダー朝時代の資料は、バッキンガムの反乱の動機として、リチャードと土地を巡る諍いがあったことや、ヘンリー・チューダーの王位継承権を支持したことを挙げていますが、今日では、真の動機は、ヨーク家を倒して自分自身が王座に就くことにあったという説が有力です。
 バッキンガムは、エドワード三世の五男トマス・オブ・ウッドストックの直系の子孫に当たります。長男エドワード黒太子の家系はリチャード二世で絶え、三男ジョン・オブ・ゴーントの子孫がランカスター家であり、その正嫡の子孫はヘンリー六世と皇太子エドワードの死をもって絶えています(ヘンリー七世は庶子の子孫)。エドワード四世、リチャード三世などのヨーク家は、次男ライオネルと四男エドマンドの共通の子孫に当たります。従って、バッキンガムは、ヨーク家に次ぐ王位継承権を有することになります。
 バッキンガムには、二王子を殺害する強力な動機がありました。リチャードは、自身が王位に就くために、王子達を殺す必要はなかったし、また、殺したりすれば自分自身に怨嗟が集まることを覚悟しなければならなかったはずです。しかし、バッキンガムにとって、二王子は王位継承権の強力なライバルであり、王位を狙う上での大きな障害物でした。また、二王子を殺害して、その罪をリチャードに被せ、ウッドヴィル派を反乱側の味方に付ければ、まさに一石二鳥と考えられるわけです。
 さらに機会という点でも、バッキンガムは、英軍総司令官として国王に次ぐ強大な権限を有しており、リチャードが巡幸に出発した後、国王の不在中にロンドン塔に入り、二王子を亡き者にすることは容易だったと考えられます(エドワード王子の住居としてロンドン塔を提案したのもバッキンガムだった)。
 『クロイランド年代記』によれば、二王子殺害の噂が流れたのは、ちょうどバッキンガムの反乱が起きた時期とされています。ケンダルは、反リチャード感情を煽って反乱への支持を得るため、二王子殺害の情報をエリザベス・ウッドヴィルとヘンリー・チューダーの母親マーガレット・ボーフォールに伝えたのは、バッキンガムだったとしています。
 二王子の死という既成事実を押し付けられたリチャードにしてみれば、二王子が自身の保護下にあり、また、自身も二王子の死の受益者と受け取られることを考えれば、仮にバッキンガムが犯人と発表しても信じてもらえる可能性は少なく、いずれにしても二王子の死の責任を問われ、政権の不安定要因となることは確実であったため、事実を秘匿せざるを得なかったろうとケンダルは考えます。
 バッキンガムの反乱は結局失敗に終わり、モートンは大陸に逃げ、ヘンリー・チューダーは大陸に引き返し、バッキンガムは捕えられます。バッキンガムはその際、反乱の全容を告白し、リチャードへの面会を懇願しますが許されず、ソールスベリーで処刑されます。ケンダルは、バッキンガムがリチャードへの面会を懇願したのは、二王子殺害の真相を直に告白し、なおリチャードの慈悲にすがろうとしたためではないかと推測しています。
 バッキンガムが犯人で、ヘンリー・チューダーが共謀者として真相を知っていたとすれば、なぜエリザベス・ウッドヴィルがリチャードと良好な関係を維持し、子息のドーセットに対し、ヘンリー・チューダーへの支持を捨てて帰国するよう促したのか、なぜヘンリーが、権力掌握後、敢えて二王子殺害の真相を追究しようとしなかったのか、といったその後の歴史の謎も説明が容易になります。
 アリスン・ウィアは、当時ロンドン塔の長官だったブラッケンベリーの許可なしには、バッキンガムといえども二王子にアクセスすることはできなかったはずだと反論していますが、フィールズは、英軍総司令官の権威を前にブラッケンベリーが面会を拒否できるとは考えにくく、ウィアの主張には根拠がないと論じています。

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『時の娘』再考 海外脱出説

 ジョージ・バック、ホーラス・ウォルポールなどによる説。
 二王子は、リチャードの時代に海外に脱出して生き延び、後に大陸から戻って反乱を起こしたパーキン・ウォーベックが弟のヨーク公リチャードだったというのが、彼らの説です。
1491年秋、ある青年が、大陸から船でアイルランドに到着し、自分は二王子の一人、弟のヨーク公リチャードだと名乗り出ます。彼は英語を流暢に話し、エドワード四世の家族について、身内でなければ知り得ないような詳細な事実を知っており、年齢も18歳くらいで、まさにリチャード王子と同年齢でした。自分はイングランドから密かに脱出させられ、行動を起こせるようになるまでフランダースで生活していたが、時が至り、王位を要求するために戻ってきた、というのが彼の主張でした。
 いかにもありがちな詐称者のように思えますが、驚くべきことに、二王子の叔母に当たるブルゴーニュ公妃マーガレットは、青年と数度に渡り面会し、彼を真正なリチャード王子と認めます。スコットランド国王ジェームズ四世は、彼をイングランドのリチャード四世として歓待し、スコットランド王室の一族の娘と結婚させ、財政や軍備について支援することを約束します。
 1496年、青年は、スコットランド軍を伴いイングランドに侵攻します。しかし、イングランド国民の支持は得られず、スコットランド軍の略奪行為を目の当たりにした青年は、戦意を喪失し、エディンバラに戻ってしまいます。
 1497年、青年は、わずかな軍隊を引き連れてコーンウォールに上陸し、地方の支援も得てイングランド軍と戦いますが、装備の悪さもあり、大敗を喫します。逃走の途中、投降して全てを告白すれば許すという勧誘に乗り、青年は捕らえられます。同年10月、青年はヘンリーの前に引き出され、ヘンリー自身がスパイを使って調査した通り、パーキン・ウォーベックという平民出身の詐称者にすぎないことを告白したとされています。
 しかし、勿論、青年は解放されることはなく、1499年、ウォリック伯エドワード(リチャード三世の甥)とともに、ロンドン塔からの脱出を企てた罪で処刑されます。

 フランシス・ベーコンは“The History of the Reign of King Henry the Seventh”(1622年)の中で、ヘンリー七世の治世の初期に、二王子は密かに海外に連れ出され、今なお生存しているという噂が広まっていたことを記録しており、二王子の海外脱出の噂は、かなり早い段階から囁かれていたことが分かります。
 バックは、“The History of King Richard the Third”の第三部で、パーキン・ウォーベックについて詳述しており、パーキンをヨーク公リチャードと認めた同時代の有力者達を列挙し、パーキンが真のリチャード王子だったことを強調しています。バックの影響を受けたウォルポールも「弟について言えば、天秤はパーキン・ウォーベックが真のヨーク公であったという方に大きく傾いている。そして、弟が保護されたのだとすれば、兄の方についてもリチャードが亡きものにしたと信じることはどうしても出来ない」と論じています。

 オードリー・ウィリアムスンも、海外脱出説に近い見解を示しています。ウィリアムスンは、二王子殺害の実行犯とされてきたジェームズ・ティレルの家系に伝わる伝承を掘り起こしています。この伝承によれば、二王子とその母親エリザベス・ウッドヴィルは、リチャードの許可により、サフォークにあったティレルの邸ギッピング・ホールで暮らしていたとされています。
 1484年3月、それまでウェストミンスター寺院内に身を寄せていたエリザベス・ウッドヴィルは、リチャードの求めに応じて寺院を出たとされていますが、その後どこに移り住んだのかは記録がありません。そこから、ウィリアムスンは、エリザベスは二王子とともにサフォークのティレル家の邸で生活していたと推理します。さらに、ギッピング・ホールは海岸沿のイプスウィッチに近く、ヘンリー・チューダーの侵略の危機が迫った時に、二王子を大陸に移すには便利な場所だったことを示唆しています。

 しかし、1674年、ホワイト・タワーの階段除去工事の際に、二王子のものと推定される遺骨が発見されて以来、この海外脱出説は俄然旗色が悪くなってしまいました。ケンダルが、パーキン・ウォーベック=ヨーク公リチャード説を支持したウォルポールを「死に馬に鞭をくれている」と評したのもこのためです。
 では、最後に問題の遺骨を巡る議論を御紹介してみたいと思います。


バックの著書の扉

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『時の娘』再考 二王子の遺骨

 1666年11月、ロンドン塔の中心をなすホワイト・タワーから塔の船着場までの荷物搬送の時間を短縮するため、ホワイト・タワーとテームズ川の間に建つ一連の建物を取壊すよう命じる布告が出されます。
 1674年、ホワイト・タワーに接する階段の基礎の除去作業を行っていた作業員達は、深さ10フィートの地中から、二体の骸骨が収められた櫃を発見します。当時の記録によれば、大きい方の骸骨は仰向けにされ、小さい方の骸骨は大きい方の骸骨の上にうつ伏せにして重ねられていました。
 骨は作業員達により近くのゴミ捨て場に投棄され、暫くそのまま放置されますが、二王子の骨と気付いた当局の指示により、骨は回収されます。1678年、チャールズ二世の命令により、回収された骨は、セント・ポール大聖堂の設計者として著名なクリストファー・レンのデザインによる大理石製の石棺に収められ、ウェストミンスター寺院内に安置されます。
 1933年、遺骨の医学的調査を行う許可が下り、石棺の蓋が開けられます。調査を行ったのは、ウェストミンスター寺院の公文書管理係ローレンス・タナーと、ロンドン・ホスピタル・メディカル・カレッジの学部長であり解剖学協会会長でもあったウィリアム・ライト教授で、彼らの報告は1934年に発表されました。
 石棺の中に収められていたのは、かなりの部分の骨が欠落した二柱の不完全な骸骨に、いろんな動物の骨と錆びた釘が混ざったものでした。ライトは、骸骨は二人の子供の骨であり、骨の発達状態から、年長の方は12歳から13歳、年下の方は9歳から11歳と推定します。ライトは、そこから、「彼らの死は、王位簒奪者の叔父リチャード三世の治世下で起きたと、完全な自信を持って言うことが出来る」と結論づけます。ライトは、さらに、年長の方の頭蓋骨に「血痕」を認め、死因は窒息死だったと推定しています。
 引き続いて遺骨の歯の状態を調査した、英国歯科協会の元会長ジョージ・ノースクロフト医師も、死亡推定年齢については、ライトと同じ結論に達します。
 エドワード王子は、1470年11月生まれであることが記録から知られており、1483年には、ほぼ13歳であり、リチャードが戦死した時(1485年)に生きていれば、ほぼ15歳だったことになります。弟のリチャード王子の誕生日については正確な記録がありませんが、1473年8月頃と考えられており、1483年には、ほぼ10歳、1485年には、ほぼ12歳だったことになります。
 遺骨の発見された場所が、トマス・モアの記述通り、階段の下の地下だったこと、死亡年齢が、モアの記述した殺害時期の二王子の年齢と合致することから、多くの研究者達(ケンダルも含む)は、この調査報告に基づき、遺骨が二王子のものであり、二王子がリチャード三世の時代に殺害されたことを事実として受け入れてきました。アリスン・ウィアも、この報告をほぼ全面的に信頼し、リチャードが二王子殺害の犯人であった「証拠」として強調しています。

 ところが、この二柱の骨が、そもそも本当に二王子の骨なのかどうかは、フィールズや伝統支持派のポラードからも疑問視されています。つまり、階段の下の地下深く、というのは、モアが遺体のある場所ではなく、「ない」場所として言及している場所だからです。
 というのも、「リチャード三世犯人説」でも御紹介した通り、ティレルの「告白」では、二王子の遺体は、最初は階段の下の地下深くに埋められたが、その後、リチャードの指示により、ある僧侶が「より相応しいが、特定できない秘密の場所」に改葬したことになっているからです。つまり、遺骨が二王子のものであれば、モアは誤っていたことになり、モアが正しければ、遺骨は二王子のものではないことになります。
 伝統支持派は、この点について、主に二通りの説明を試みています。一つは、モア乃至彼の情報提供者は、ヘンリー七世が遺体の発見に失敗したことを取り繕うために、僧侶による改葬のエピソードを創作した、というもの。もう一つは、遺体は、はじめは別の階段の下に埋められたが、僧侶によりホワイト・タワーの階段の下に埋め直された、という「二つの階段」を想定するものです。
 前者については、モアの記述を基本的に受け入れながら、その一部だけを「創作」だとするのは恣意的であり、また、ティレルらが真の遺体の埋葬場所を知っていたなら、その情報だけ「告白」しなかったのはおかしいし、また、ヘンリー七世が「告白」から埋葬場所を知ったのなら、遺体を放置したのはおかしい、という批判があります。また、後者については、モアは、階段の下が国王の子供達に相応しくないという理由で別の場所に移されたと述べているのに、改葬された場所が最初の埋葬場所と同様というのは不自然だし、僧侶の単独作業で遺体を掘り出し、またも深さ10フィートの地下に埋め直した、というのは現実性に乏しい、という批判があります。
 また、発見の経緯についても、フィールズは、階段の取壊しが目的だったのなら、単純に取壊して地面を均してしまうだけでよいはずなのに、なぜ作業員達は10フィートも地面を掘ったのか、という疑問を呈しており、さらに、もし遺骨が、階段が建設される前からあったものなら、階段自体はヘンリー二世の時代(1154年-1189年)まで溯るものであり、二王子の骨である可能性はなくなる、とも論じています。

 さらに、ロンドン塔で発見された謎の遺骨は、1674年に発見された遺骨だけではありません。ロード・グレイとサー・ウォルター・ローリーがロンドン塔の囚人だった時(1603年から1614の間)、国王の間に通じる通路の壁が空ろな音がするので、壁を取壊してみると、そこに小さな部屋があることが分かり、部屋の中央にあったテーブルの上には、二人の子供の骨が置かれていた、という記録も残っています。6歳から8歳の骨と言及されていますが、現場に居合わせた人々は、勿論、死亡年齢を特定できる専門家ではなく、実際、彼らは、これこそ二王子の骨と信じたと記録されています。
 密閉された部屋は、階段の下の地下よりもずっと王子に「相応しい場所」と言えるし、こちらの方が真の二王子の遺骨である可能性が高いという主張もあります。ただ残念ながら、この骨は今日では所在不明となっています。また、ウィリアムスンは、この記録自体、「空想の域、乃至は混乱した報告」に格下げすべきものと主張しています。
 なお、1977年にロンドン塔で行われた発掘調査の際にも、鉄器時代に溯る13-16歳位の少年の骸骨が発見されています。

 1933年のライト達による調査結果についても、批判が少なくありません。遺骨の時代も性別も特定できなかったはずのライトが、リチャード三世時代の二王子の遺骨だと「完全な自信」を持って結論づけたことは、却ってライトの調査結果が先入観に影響されたものであることを疑わせる理由となっています。また、頭蓋骨に残っていた「血痕」らしきものから行った(というより、モアやシェークスピアのリアルな描写から影響された)窒息死という死因の推定も、(ウィアを除けば)今日ではほとんど否定されています。オードリー・ウィリアムスンも、「検査官達の誠実さと専門的知識は疑い得ないが、彼らは、遺骨が紛れもなく二王子のものだという魅力的な前提から出発しており、この前提が無意識の内に彼らの判断に影響を与えたに違いない」と述べています。
 死亡年齢についても、ライト達が特定したほど正確な死亡年齢の推定は出来ないという意見が少なくありません。また、英国の解剖学者リン・パーキス博士は、1964年に、その後の研究成果も取り入れて、死亡年齢はおそらく7-8歳と15-16歳であろうと結論づけています。

 フィールズが述べているように、DNA鑑定などの技術の進歩により、遺骨とエドワード四世の遺体(ウィンザー城に葬られている)との血縁関係、遺骨の死亡年齢や時代などが明らかになる日が来れば、二王子殺害の容疑者のリストをもっと狭めていくことが出来るかもしれません。


skeltons
発見された二体の遺骨の部位
(アリスン・ウィア“The Princes in the Tower”より)

cervical vertebra
年長の遺骨の第二頸椎の写真
(A・J・ポラード“Richard the Third and the Princes in the Tower”より)

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『時の娘』再考 歴史ミステリとしての『時の娘』

 肝心の『時の娘』(1951年)そのものにほとんど触れていなかったので、最後に、二王子の謎の研究史を辿ってみたアングルから作品を再考察してみたいと思います。

 まず、作中のアラン・グラント警部による二王子の謎に関する議論は、それ自体、少しも目新しいものではありません。作中で展開される議論のほとんどは、マーカムの“Richard the Third: His Life and Character”(1906年)に依存しており、実は『時の娘』が出版される40年以上も前に公にされていた議論であることが分かります。グラント警部の推理がテイのオリジナルであり、探偵小説が歴史の謎の解明に寄与した希有な例だと思われる方がいるとすれば、残念ながら、それは作品への過大評価だということになります。
 また、テイの情報源のほとんどはマーカムであり、他の研究書等はあまり参照していないと思われます(作品の終りの方で、登場人物達がリチャードの無実を論じた研究者が過去にもいたことを知り、マーカムの名とともに言及しているが、彼らについてはマーカムも言及しているので、テイが孫引きした可能性が高い)。
 例えば、リチャード三世が嫡子エドワードの死後、誰を後継者に指名したのかは、はっきりした記録が残っていませんが、姉エリザベスの子、リンカーン伯ジョン・デ・ラ・ポールだとするのが一般的であり、ジョージ・バックもそう述べています(ケンダルも、リチャードがリンカーン伯をヨーク家の相続人のポストであるアイルランド総督に任命している事実から、そう判断している)。
 同時代に近い歴史家ラウスは、リチャードは最初、兄クラレンス伯の子ウォリック伯エドワードを後継者に指名したが、後に心変わりしてリンカーン伯を後継者にしたと述べています。マーカムは、ウォリック伯の方を上位に置いている同時代の書簡やリンカーン伯が後にウォリック伯のために戦った事実などを挙げて、リチャードが後継者としたのはウォリック伯の方だとしていますが、これはむしろユニークな見解と言えるでしょう。
 いずれにせよ、かくも議論の分かれる問題ながら、テイが自明の如くリチャードはウォリック伯を後継者にしたとしているのは、彼女がマーカム以外の著作をあまり参照していない一つの証左と言えるでしょう。
 さらに、マーカムの著作が発表された時点では、遺骨の医学的調査はまだ行われておらず、マンシーニの報告書も発見されていないため、マーカム自身がこれらを踏まえた議論をしていないのは当然ですが、これらの情報を利用できたはずのテイが、リチャードを二王子殺害で非難したロシュフォールの情報源を相変わらずモートンとしているのはともかく、遺骨の調査が行われた事実に全く言及していないのは不自然です。
 このように、テイはリチャードと二王子について十分調査しているとは言い難く、『時の娘』は研究書の水準としては問題外と言わざるを得ないようです。 しかし、だからというので、『時の娘』がミステリとしても水準以下だということには決してならないでしょう。
 バートラム・フィールズは、「シェークスピアと同じく、ジョセフィン・テイは、リチャードに対する一般人の見方に、おそらく彼女と同時代の歴史家よりも大きな影響を与えた」と述べています。マーカムの著作は入手困難になって久しく、『時の娘』は今なおポピュラーな作品であり続けています。その理由は、たとえ素材はマーカムから借用したにしても、その素材に探偵小説の形式を与え、読者を歴史の謎へと誘い込み、一つ一つ解明を行っていくプロセスの中から真実が明らかになっていくという、謎解きとしての醍醐味と興奮を盛り込むことに成功したからでしょう。『時の娘』は、議論としては時代遅れになった部分が少なくないとしても、歴史の謎に対する読者の関心を啓発してきたという意味で、第一級の歴史ミステリと言えるのではないでしょうか。

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リチャード三世の遺骨発見?

 9月12日、リチャード三世の遺骨の可能性がある骨が発見されたとのニュースが流れている。
 リチャード三世は、ボスワースの戦い(1485年)で戦死したあと、レスターのグレイフライアーズ修道院に葬られたとされている。しかし、同修道院は、ヘンリー八世の修道院解散令(1538年)により取り壊され、その後、王の埋葬場所も不明になっていた。
 レスター大学の考古学チームは、今年8月25日から、修道院があったと推定されるレスター市議会の駐車場の発掘を開始し、フランシスコ会の修道院跡と、リチャードを追悼するために造成されたと思われる17世紀の庭園を発見した。
 さらに、遺骨発掘の許可を得て、9月4日からその作業を進め、男性と女性の二体の遺骨を発見した。聖歌隊席の下から発見された成人男性の遺骨には、頭蓋骨のうしろに刃物によると思われる深い損傷があり、脊椎には金属製の矢じりが刺さったまま残っていた。
 背骨には重度の脊柱側湾症と考えられる異常があり、シェークスピアが描写したような‘hunchback’(従来の訳語では「せむし」だが、今日では差別用語とされることも念のため言及しておきたい)ではないが、その異常のために、右肩が左肩よりはっきりと上向いているように見えたと思われ、同時代のリチャードの描写と一致しているとしている。
 この発表に先立つ9月7日には、考古学チームは、17世紀にレスター市長だったロバート・ヘリックが、リチャード追悼のために造成した庭園のものと思われる中世の敷石を発見したとの発表を行っていた。クリスファー・レン(セント・ポール大聖堂の設計者として知られる同名の建築家の父親)が、1612年にヘリック市長を訪問した際、その庭に、「かつてイングランド国王であったリチャード三世の遺体、ここに眠る」と記された3フィート(約1メートル)の柱があったことを記録しているとのことである。
 今後、リチャードの遺骨かどうかを確認するため、リチャードの姉であるアン・オブ・ヨークの直系子孫に当たる、マイケル・イブセン氏(55)から、比較のためのDNAサンプルの提供を受け、DNA鑑定が行われる予定とのこと。鑑定には12週間かかるそうである。イブセン氏は、カナダ人の家具製造業者で、現在はロンドンで暮らしているとのこと。
 最終的な鑑定結果が出ていない現在、チームはなお判断に慎重なままだが、レスター市のピーター・ソウルズビー市長は、「彼らにははっきり言えんだろうが、私には言える。ほぼ確実に彼を発見したと考えていい。なにもかもがぴたりと当てはまるよ」と語っているようだ。

 この遺骨の発見が、リチャード三世にまつわる歴史上の謎にどれだけ寄与するかは、にわかに判断しがたいが、海外のマスコミ記事などでは、脊柱側湾症の事実から、シェークスピアをはじめとするチューダー朝時代の記述の正しさがある程度裏付けられたと見る論調もあるようだ。しかし、見方変えれば、‘hunchback’という描写が誇張であったことの裏付けになるとも思われ、そう安易に言えるかどうかは疑問だろう。実際、“Richard the Third: His Life and Character”の著者クレメンツ・マーカムは、リチャードの肩の高さが左右不均衡だったという初期の記述が、時代を経るにつれて‘hunchback’としてグロテスクに誇張されていく過程を分析しているし、リチャード擁護派も何の異常もなかったと主張しているわけではないことも留意すべきだろう。
 アン・オブ・ヨークの直系子孫とされるイブセン氏の家系がどこまで裏付けのあるものかは私もよく知らないが、現在の英王室も、リチャード三世の兄であるエドワード四世の直系子孫に当たる。であれば、王族からDNAサンプルの提供を受けられないのかという疑問も感じるところだが、それも実際は難しいのだろう。いずれにしても、悪名高い歴史上の国王との血縁性は目立たないようにしたいというのが人情かもしれない。
 それより、以前も言及したが、二王子のものとされる遺骨の身元をDNA鑑定により確認するほうが、歴史の謎の解明に寄与する可能性が高いと思われるのだが、これも当局の許可が下りず、容易ではないようだ。

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