「ディテクション・クラブ」はいつできたのか?

 「ディテクション・クラブ」の話題が出てきたついでに、クラブ設立の時期をめぐる謎について触れてみたい。
 ジョン・ロードは、“Detection Medley”(1939)の序文で、1928年に、アントニイ・バークリーが何人かの推理作家仲間に、定期的に夕食会を開いて議論する場を設けてはどうかと呼びかけたのが「ディテクション・クラブ」の始まりだったとしている。
 ところが、真田啓介氏は、邦訳『第二の銃声』(但し、国書刊行会版。創元文庫版は別人の解説を載せている)の解説の中で、バークリーから、(のちにクラブの初代会長になる)チェスタトンにクラブへの参加を求めた手紙を引き合いに出し、「実際のところはディテクション・クラブは一九三〇年に設立されたものらしい」として、ロードの記述に疑問を呈している。(同様の見解は、ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』にも見られる。)そこから、「『毒入りチョコレート事件』の「犯罪研究会」は、むしろディテクション・クラブに先行するアイデアだったわけだ」と結論づけているのだが、はたしてそうなのだろうか?
 サイモン・ブレットは、“The Detection Collection”(2005)の巻末にクラブの略史を記しているが、これによると、クラブ創設の時期を1932年としているソースが多いものの、
 ・1930年の「タイムズ・リテラリー・サプリメント」紙に「ディテクション・クラブ」のメンバーたちが署名した手紙が載っていること
 ・リレー長編の「ザ・スクープ」と「屏風のかげに」がそれぞれ1930年、1931年に「リスナー」誌に連載されていること
を挙げ、「従って、1928年頃にアントニイ・バークリーと他の推理作家たちが非公式の夕食会で集まるようになり、その後、この夕食会がクラブの慣行として確立されていったというのが、「ディテクション・クラブ」の前史だろう」として、ロードの記述をほぼ受け入れている。
 ブレットは、これに続けて、チェスタトンの会長就任の時期について、ソースによって、1930年、1932年と異なる情報があることにも触れている。(仮にチェスタトンの会長就任と同時にクラブが設立されたと考えるなら、さらに1932年まで設立時期を遅らせなくてはならない可能性もなお残っているわけだ。)確実に分かっているのは、クラブの会則が定められたのが、1932年3月11日ということである。この会則で、会合を最低年4回開くということも定められたようだ。ブレットはそこまで明確に述べていないが、クラブ設立の時期を1932年とするものが多いのは、この会則制定を根拠にしているのかもしれない。(カーが1932年説を採っているのはそのためだと上記グリーンも考えている。なお、グリーンは、1930年1月4日付けの「会員名簿」の存在にも言及している。)
 つまり、もともとは、バークリーの呼びかけで、仲間内のカジュアルな夕食会(informal dinners)からスタートしたものが、続けていくうちに、さらに参加者を募ったり、会長を置いたり、会則も設けたりと、次第に組織としての体裁を整えていったというのが真相だろう。従って、チェスタトンの初代会長就任を決めた会合が仮に1930年のことだったとしても、これを根拠にクラブの活動開始時期を判断するのは早計というものだろう。会長設置をもって正式なクラブ発足と見なすのも一つの考え方かもしれないが、実際は、クラブは漸進的に組織の形をなしていったのであって、(法人の設立ならいざしらず)会長設置、会員名簿の作成、会則制定のような一定のメルクマールをもってクラブの活動開始を特定しようとすること自体、いささか形式的に過ぎると言わざるを得まい。
 つまるところ、初期のメンバーだったロードによる記述が事実に近い情報を伝えているとみるのが自然だろうし、よしんば正式なクラブ設立を1930年か1932年と見なすとしても、言いかえれば、セレモニー的な「ディテクション・クラブ」の設立やその名称の使用はのちのことだったとしても、チェスタトンに参加打診をした時点で影も形もなかったわけではなく、ブレットが判断しているように、それ以前にクラブとしての活動の実態は存在していたと考えるほうがもっともらしい。そうであれば、『毒入りチョコレート事件』(1929)で描かれた「犯罪研究会(Crimes Circle)」にしても、バークリーの観念の世界にのみ存在したものと見なすより、まだ正式な会長もいなければ、会則もなく、参加者も決して多くはなかったものの、カジュアルに集まっていた時期の、現実に存在した「ディテクション・クラブ」(その時点で実際そう呼ばれていたかどうかはともかくも)の姿をなにほどか反映したものだったと見てなんらおかしくはないのである。
 (追記:「ディテクション・クラブ」発足時のメンバーは26人とされているが、他方、小説の「犯罪研究会」のメンバーは6人。もちろん、小説としての設定もあるので、そのまま事実を反映したと見なすことはできないだろうが、案外、「ディテクション・クラブ」も当初はその程度の少人数の夕食会から始まったのかもしれない。バークリーが当初(1928年)呼びかけた相手は‘several writers’だったというロードの記述もこれを裏づけるように思われる。
 実際、ロードは、そうした夕食会が続けて開催されたあと、「これらの会合が大変好評だったので、会合出席に招待されてきた二十人ほどのグループで常設の「クラブ」を組織することにした」と書いている。まさにブレットの判断どおり、一連の夕食会を経てから組織だった「クラブ」へと発展していったことが窺えるのだ。人数もほぼ合致していることを考えると、これが1930年のことだったのだろう。1930年1月に「会員名簿」が作成された時に、「よーい、ドン!」でいっぺんにスタートしたわけではないのだ。
 「犯罪研究会」のメンバーの一人、ダマースがセイヤーズをモデルにしているという説も、バークリーが単に頭で思い描いたわけではなく、実際に最初期の「ディテクション・クラブ」にセイヤーズがメンバーとして参加していたと考えれば理解しやすい。)

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チェスタトンはいつ「ディテクション・クラブ会長」になったのか?

 前の記事の続きで、チェスタトンの「ディテクション・クラブ」会長就任の問題をさらに詳しく紹介しておこう。
 ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、バークリーからチェスタトンにクラブ参加の打診をしたのは、1929年12月27日付けの書簡とされている。これと、1930年1月4日付けの「会員名簿」の存在から、グリーンは、クラブの創設は1929年暮れか1930年初頭と推測しているわけだが、この問題については前の記事で述べたので繰り返さない。
 問題は、上記のチェスタトン宛て書簡は、あくまでクラブへの参加を打診したものであって、会長就任への要請ではなかったということだ。従って、チェスタトンがクラブに加わったのが仮に1930年だったとしても、会長就任はもっとあとだった可能性も否定はできないことになる。
 “Detective Fiction: The Collector’s Guide”(1994)のジョン・クーパーの記述によると、1928年に設立されたクラブの会合は、当初、ロンドンのキングリー・ストリートで行われ、バークリーが名誉幹事(honorary secretary)だったという。(アール・F・バーゲニア編“Twelve English Men of Mystery”(1984)でバークリーの部分を担当しているウィリアム・ブラッドリー・ストリックランドも、やはり、バークリーが1928年に「ディテクション・クラブ」を創設し、「クラブ」の名誉幹事になったとしている。「名誉幹事」の役職は、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”でバークリーの項目を執筆しているメルヴィン・バーンズも言及している。)ジェラード・ストリート31番地に場所を確保したのは、リレー長編などの刊行で資金を得られるようになってからのことなのだ。
 とすれば、チェスタトンが事実上の会長となるまで、バークリーが「名誉幹事」としてクラブを仕切っていたと考えることも可能だろう。『毒入りチョコレート事件』(1929)の「犯罪研究会」会長、ロジャー・シェリンガムは、クラブの名誉幹事にして作者であるバークリー自身を投影したものと考えれば、なんの不自然さもない。チェスタトンに「似ていないのも道理」だ。
 サイモン・ブレットによれば、チェスタトンの会長就任については、1930年とするソースがある一方で、他の幾つかの典拠では、「チェスタトンは1932年になるまで会長のマント(職責)を引き継ぐことはなかった」とされているという。典拠の例として、1930年としているクラブの「会員名簿」と、チェスタトンの治世は1932年に始まったとしている、クラブのヘッダー付き便箋を挙げている。
 興味深いのは、1930年としているソースには、「会長(president)」ではなく、「リーダー(leader)」と言及しているものもあるとブレットが述べている点だ。つまり、1930年にチェスタトンがクラブに参加した時点で、仮にチェスタトンがクラブの会長に擬せられていたとしても、それはまだ正式なものではなかった可能性があるのだ。
 もちろん、これはあくまで推測だが、チェスタトンは、ブラウン神父の生みの親、英ミステリ界の重鎮として、1930年の時点で、事実上、クラブのリーダーに擬せられていたのかもしれないが、会合において「会長」という役職を正式に定め、チェスタトンがこれに就任するという手続きを踏んだのは、クラブの会則が定められた1932年のことだったと考えれば辻褄が合う。それ以前の呼称がソースによってまちまちなのも、そう考えれば分かりやすい。
 ブレットは、慎重にも、ここまで大胆な推測は述べていないのだが、もしそうだとすれば、ディテクション・クラブは、さながら、私的な会合から、正規会員からなる任意団体を経て、代表や定款も定めた法人にまで成長していったようなプロセスを辿ったと見ることができる。その間に、リレー長編のような活動も行って資金を得、のちには常設の会合場所も確保できるようになったわけだ。
 年代記風に整理すると、概ね以下のようになる。
 1928年       バークリーから他の作家たちへの定期的夕食会開催の呼びかけ(ロードの証言)
 1929年12月27日 バークリーからチェスタトンへのクラブ参加打診
 1930年1月4日  クラブ会員名簿の作成
 1930年       「屏風のかげに」の「リスナー」誌連載
 1931年       「ザ・スクープ」の「リスナー」誌連載
 1932年3月11日  クラブ会則の制定(チェスタトンの会長就任?)
 どの時点をもってクラブの正式な創設と見るかは、それこそ法律の規定に基づいた法人設立でもないわけで、捉え方の問題ということになってしまうが、会則制定をもって正式にクラブとしての形を成したとみなすのであれば、カーをはじめとする1932年説もあながち誤りではないとも言える。チェスタトンの正式な会長就任もこの時であったのなら、なおさらだろう。もっとも、リレー長編などの活動が既に行われていたことを考えると、さすがに無理があるのだが。(カーがクラブに加入したのは、1936年。)
 (蛇足かもしれないが、いわば、鎌倉幕府の成立が、頼朝が征夷大将軍になった時(1192年)か、日本国総追捕使・総地頭になった時(1185年)か、南関東に実質的な勢力を確立した時(1180年)か、という議論と似たようなものだ。かつての教科書では、「イイクニつくろう鎌倉幕府」で1192年と教えられていたものが、学説の変遷を踏まえて、今では「イイハコつくろう鎌倉幕府」で1185年になっているのだが、学習上の便宜として、ある年に特定するのは仕方ないにせよ、現在の支配的な見解は、ある時点をもって幕府が一度に成立したのではなく、段階を経て徐々に成立していったというものだろう。いずれにしても、頼朝の征夷大将軍任官という形式的なメルクマールをもって幕府成立と見なす説は現在では分が悪いから、教科書も改められたのだ。)
 ブレットも、“The Detection Collection”(2005)の序文で、クラブ創設の正確な日付については議論があり、1930年のほか、1929年、1932年とするものもあるとしているが、それも上記の推移をご覧いただければ分かるだろう。1928年頃に始まったとされる最初期の会合をカウントしていないのは、巻末の略史ではこれを「前史」と位置付けているからだろう。
 以上は、乏しい情報をもとにいささか大胆な推測も交えた再構成であり、どこまで事実を捉えているかは今後の検証を俟ちたいと思うが、このように、ディテクション・クラブには未だに興味の尽きない謎がいろいろあるようだ。
 なお、自身、現会長でもあるブレットは、会長がまとうローブについて触れている。それは赤いサテンの学者風のローブで、新メンバーの入会の儀式の際にまとうものだが、ゆったりした輪郭に裁断されているため、初代会長のチェスタトンの体格に合うように仕立てられたものであり、セイヤーズの体格にもちょうどよかったのだろうと想像しそうになる。ところが、実は、オリジナルのローブは1960年代にサヴォイ・ホテルでの夕食会のあとに紛失してしまい、現在のローブは複製品なのだそうな。

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「ブランド回想録」と「ディテクション・クラブ」

 「ディテクション・クラブ」について、なにやらコチコチの内容の記事が続いてしまいましたが、ちょっと気晴らし風の記事をざっくばらんに書いてみたいと思います。
 よく知られているとおり、作家の地位向上、利益保護等を目的とした英国推理作家協会(CWA)とは異なり、「ディテクション・クラブ」は、基本的に作家同士の親睦を目的とした少人数の団体です。そもそもの出だしからして、仲間同士の夕食会として始まったものです。ですから、「クラブ」を理解するのに、記録を渉猟して、やれ設立年はいつだの、設立時の会合場所はどこだったのといった議論は、実はまったく周辺的なこと。それに、記録というものは、名簿だの議事だの規則だのといったカタっ苦しい内容のものが多いでしょうから、おそらくそんなものをいくら調べても、「ディテクション・クラブ」の本来の姿、つまり、作家同士が和気あいあいと談論風発する様子はビビッドには伝わってこないのではないでしょうか。ただ、残念ながら、後世の人間には、クラブのメンバーたちがいろんなところで書き残したエピソードから、そんな様子を断片的に窺い知ることができるだけです。ジュリアン・シモンズが会合に遅刻してくると、クリスティがシモンズの汚れた手をじっと見つめていてまごつかされたというエピソードもよく知られていますが、このブログでも、クロフツやフリーマンについての断片的なエピソードを引用してきました。
 ダグラス・G・グリーンの『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』にもいろいろ出てきますが、これまでに読んだ中で、「クラブ」に属していた黄金期の作家たちの様子を一番生き生きと伝えているのは、クリスチアナ・ブランドが日本版「EQ」に寄稿した「ブランド回想録」ではないかと思います。この回想録は「EQ」1983年1月号から1985年1月号まで連載されました。
 ブランドは、この回想録の中でも、第三回「イギリス推理文壇点描」(83年5月号)と第四回「セイヤーズとクリスティー」(83年7月号)で「ディテクション・クラブ」について詳しく触れています。記録によると、ブランドが「クラブ」に加入したのは1946年で、既に戦後だったわけですが、当時は黄金期の作家たちの多くもまだ健在だったので、ブランドは自分が接した巨匠たちの姿をそこで活写しているわけです。(興味深いことに、ブランドもここでは「クラブ」の結成は1930年としているのですが、根拠までは記していません。『漂う提督』に寄せた序文では1932年としていたようですが。)
 ブランドは、「クラブ」には「現会員の推薦を必要とするという厳しい規則」があり、属している作家も「ほんの一握りほど」なので、CWAといえども「威信の点ではディテクション・クラブに到底かなわない」と書いています。その一方で、「クラブ」は「親睦団体の域を出たことはありません」とも書いています。それだけで「クラブ」の性格が端的に伝わってくるような、分かりやすくてシンプルな説明ですね。
 大酒飲みだったカーに言い寄られてその気になってしまったアントニー・ギルバートが、同じくカーに言い寄られたブランドに嫉妬したとか、医者だったブランドの夫に、カーが深夜に電話をかけてきて「矢に貫かれたみたい」な腹痛を訴え、「矢尻がこれこれしかじかの回転をする古代の矢」だという説明まで添えるものだから、夫が「君の作家仲間ときたら、急所に刺しこむ矢の年代まで知っているとはね」とこぼしたというエピソードには笑みを禁じ得ません(カーのこのエピソードは上記グリーンの本にも出てきます)。アントニイ・バークリーのドけちぶりを伝えるエピソードもさることながら、プロットが思いつかないと嘆くブランドに、多作家で知られるジョン・ロードが「だったら、うちへ来なさい。わたしの作品が山のように並んでいるから、それらに目を通して適当なプロットを使ったらどうだね?」と言って驚かせたという話も、作家の素顔が垣間見えるような話です。
 なによりブランドが感慨深げに語っているのはクリスティとセイヤーズの思い出で、既にいろんなところで引用されているのでここで繰り返そうとは思いませんが、残念なことに、この「ブランド回想録」は単行本にまとめられることはありませんでした。光文社には英文で原稿が届いたはずですし、もし残っているのなら、原著者も既に鬼籍に入って久しいわけですので、ぜひとも世に出してほしいところです。こうした作家たちの素顔を伝えるエピソードにこそ、「ディテクション・クラブ」の本当の姿が映し出されているように思えますよね。

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「ディテクション・クラブ」の設立年――シモンズの証言

 「ディテクション・クラブ」設立年の問題について若干の補足をしておく。この問題に関していかに証言が混乱しているかを示す好例は、ジュリアン・シモンズの証言だ。シモンズは、1976年から1985年まで「ディテクション・クラブ」の会長を務めた人でもある。
 シモンズは、1979年に「クラブ」が刊行したアンソロジー『13の判決』(邦訳は講談社刊)に序文を寄せているが、ここでは「ディテクション・クラブは1932年に設立された」としていた。ところが、1983年に復刊されたリレー長編『ザ・スクープ』(邦訳は中央公論社刊)に寄せた序文‘A Brief Account of the Detection Club’では、冒頭で、これを「間違い」だったとはっきり認めている(但し、邦訳にはこの序文は収録されていない)。その理由は、同書に収録された『屏風のかげに』と『ザ・スクープ』が、本来はそれぞれ1930年、1931年に世に出たものだからだ。
 シモンズは、自分が1932年と誤った思い込みをしたのは、「クラブ」の会則の日付が1932年となっていたためだと理由を説明している。ジョン・ディクスン・カーをはじめ、1932年説を採る者の多くは、この記録に依拠しているとみてほぼ間違いあるまい。
 シモンズによれば、間違いに気づいてから、正しい日付を突き止める試みがなされ、日付を確定する具体的な情報、例えば、「○○日開催 ディテクション・クラブ第一回会合」と記されたメニュー・カードといった証拠を提供してくれた最初の人には、シャンペンのマグナム瓶を進呈することにしたという。さすがにメニュー・カードのような決定的な証拠は出てこなかったが、1930年の「タイムズ・リテラリー・サプリメント」掲載の、「クラブ」のメンバー数人が署名したレターの情報を送ってきた、ブライトンのある書店主がマグナム瓶を獲得したという(このレターについては、ダグラス・G・グリーン、サイモン・ブレットも言及している。グリーンは「サンデー・タイムズ」としているが、これは何かの間違いだろう)。シモンズはこのエピソードに続けてこう述べている。
 「メンバーの一人、アントニイ・バークリーは、1928年にクラブを設立したと主張していたし、その年に非公式の会合が何度かあったのかもしれないが、どこかに埋もれている貴重な文書でも出てこないかぎりは、ひとまず1930年としておこう」
 つまり、シモンズも、決定的な証拠はないと認めた上で、1930年説に従うことにしたわけだが、それ自体はシモンズ一人の説でもなく、特筆すべきことでもない。1930年以前に非公式の会合があった可能性に言及しているのも、サイモン・ブレットなどがいる。
 (追記:シモンズは、ローズマリー・ハーバート編“The Oxford Companion to Crime and Mystery Writing”でも「ディテクション・クラブ」の項目を執筆しているが、ここでは「おそらく1929年だろう」としている。いかに判断がぐらついていたかが分かろうというものだ。“The Avenging Chance and Other Mysteries from Roger Sheringham’s Casebook”の編者、トニー・メダウォーとアーサー・ロビンスンも、序文の注で「バークリーが1929年に設立した」と述べているが、根拠は示していない。)
 ここで注目すべきは、むしろ、バークリーについての言及だ。1928年に「クラブ」が設立されたという見方は、“Detection Medley”(1939)におけるジョン・ロードの序文に依拠していると考えられてきた。しかし、シモンズによると、それはバークリー自身の主張でもあったというのだ。
 シモンズによる上記の言及は、もしかすると、ロードの序文をバークリー自身の証言と勘違いしたものだという可能性も疑えるかもしれない。しかし、いったん自らの間違いを認めた上に、日付確定の真剣な試みまで行われたあとに、そんないい加減な勘違いをするものだろうか?
 シモンズが「ディテクション・クラブ」に加入したのは、1951年。バークリーが亡くなったのは1971年だし、シモンズが「クラブ」の会合などでバークリーと直接接する機会は何度もあっただろう。シモンズ自身も物故した今となっては確認のしようもないだろうが、その証言はシモンズがバークリー自身から聞いた肉声に基づく公算が高いのではないだろうか。
 ジョン・ロードも「ディテクション・クラブ」設立時のメンバーとされる26人の一人だが、そもそもの「クラブ」の提唱者であるバークリーが1928年だったと主張していたとなれば、これは1928年説を裏付ける強力な傍証となる。
 シモンズやブレットのように、1928年にスタートした会合を「非公式」なものと見なして「前史」に位置付けるか、バークリーやロードの主張を尊重して、事実上の「クラブ」設立と見なすかは、捉え方の問題かもしれないが、いずれにしても、以前の記事でも触れた傍証に加え、シモンズの証言も含めると、「クラブ」の起源を1928年とする蓋然性はさらに高まったと言えるだろう。
 なお、若干脱線になるが、復刊ものでやっかいなのは、復刊に際して新たに加えられた序文のたぐいが翻訳ではしばしば省かれていることだ。これにはそれなりのわけがあって、復刊された本文が1970年以前に初版が出たもので、刊行後10年以内に日本語訳が出ていなければ、本文はいわゆる「10年留保」に基づいて翻訳権フリーになっている。ところが、復刊書の刊行年が1971年以降だと、新たに加筆された序文のほうは翻訳権を取得しないと日本で翻訳・刊行できないというわけだ。このため、翻訳権取得の手間や負担等を考えると、序文はあっさり無視して、復刊された本文だけを訳して出そうという判断になるのだろう。
 「ディテクション・クラブ」が刊行したリレー長編もこうしたケースに当てはまり、『漂う提督』の復刊に寄せられたクリスチアナ・ブランドの序文が邦訳で省かれているのも同様の理由によるのかもしれない。『ザ・スクープ』は、もともと「リスナー」誌に掲載されたもので、1983年に初版を出したゴランツ社から翻訳権を取っているようだが、当時存命中だったシモンズの序文についてはそれほど手続きが単純ではなかったのかもしれない(なお、邦訳は原書巻末の付録も省いている)。こうした序文にはしばしば貴重な情報が含まれているだけに、手続き的な理由等で省略されるのはいかにも残念だ。

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