ヘレン・ユースティス “The Horizontal Man”

 ヘレン・ユースティスの“The Horizontal Man”(1946)は、かつて創元社から『水平線の男』として邦訳されたらしいが、既に入手困難になって久しい。タイトルは、作品冒頭に掲げられたW・H・オーデンの詩からの引用。(ちなみに、オーデンは、ニコラス・ブレイクの探偵ナイジェル・ストレンジウェイズのモデルである。)

 ケヴィン・ボイルは、ホリーマウント・カレッジという女子大で詩を講じる若き英文学科助教授だったが、その魅力と手管で女学生たちと浮き名を流していた。
 ストーリーは、ケヴィンが殺人者と二人で大学の自室にいる場面から始まる。ケヴィンを愛する彼女は、いくらなだめられ、家に送ると言われても、ケヴィンは自分のものだと言い張り、聞く耳を持たない。
 ケヴィンはそこに明らかな狂気を察知して恐怖を覚え、機を見て部屋から逃れようとドアににじり寄るが、彼女はその様子を見逃さなかった。ドアに向かったとたん、彼女は火かき棒でケヴィンの後頭部を殴打し、ケヴィンは即死する・・・。

 探偵役を務めるのは学内誌の編集者で学生のケイト・イネス、新聞記者のジャック・ドネリーの二人だが、最終的に謎を解くのは精神科医のジュリアン・フォーストマン博士。
 ベスト表の類に出てくる有名作品でありながら、長期にわたって入手困難になっている作品なのだが、読んでみるとそれも分からなくはない。というのも、魅力的な冒頭場面にもかかわらず、その後は、教師や学生同士の漫然とした会話が続くばかりで展開に起伏がなく、退屈極まりないからだ。ボイルの死が、彼と関わり合った教職員や学生たちに波紋を広げていくさまを、そうしたやりとりを通じて掘り下げていこうとしたのかもしれないが、会話の大半は学内ゴシップのようなもので、緊張感とサスペンスを減退させるばかり。極端なことを言えば、真ん中をごっそりカットして三分の一以下に縮めても、支障がないどころか、かえって引き締まったプロットになるのではないかと思えるほどだ。
 上記探偵役のほか、性的奔放さを持つフレダ・クラム博士、マザコンに悩むジョージ・ハンガーフォード氏、ボイルに熱烈に入れ込む学生のモリー・モリスンなど、それぞれの登場人物はある程度個性的に描かれてはいるものの、要となる人物が欠けたまま進行していくため、なおのこと散漫に感じられる。
 中心となるプロットも、この作品以後、様々なバリエーションで繰り返し用いられてきたため、おそらく今さら紹介しても、ミステリを読み慣れた読者はほとんど新鮮さを感じないだろう。「真犯人の処理は巧みだが、今では当時ほど衝撃度は大きくない」とブルース・F・マーフィー(“The Encyclopedia of Murder and Mystery”)も述べているとおりだ。
 類似のプロットを用いた有名作品を確認してみると、ほとんどがこの作品以降に出たものであり、先駆的な意義はあると思うが、その多くは狭義の謎解き推理小説ではなく、サスペンスやサイコ・スリラーに属するものであることにも気づく。(マーガレット・ミラー、ロバート・ブロックといった)その分野の名手達にすれば、本作のプロット処理はきっと生煮えで、自分達なりのやり方で処理したいと思ったとしても不思議ではない。
 バーザンとテイラー(“A Book of Prefaces”)は、心理学を言葉で弄んだりしない犯罪小説の稀な例とし、その後の作家達も心理学的な手がかりをこの作品ほど広範に、自信をもって用いてはいないと称賛しているが、どうであろうか。確かに(B・A・パイクが本作の先駆としているマクロイの作品のように)同様のプロットを謎解きで用いる例では、どうしても心理学的な講釈が付いて回り、それがかえってサスペンスを減じる要因となる場合もあるかもしれない。しかし、この作品の場合、謎解きとしてもサスペンスとしても中途半端で、結局はどっちつかずの煮え切らない出来栄えに終わっている感がある。
 後続の作家達を触発したという意味では歴史的価値のある作品と言えるし、それが様々なベスト表に取り上げられる主な理由と思われるが、サイコ・スリラー物が盛んな中で同様のプロットが陳腐化してしまった今日、本作が読まれざる古典と化したのも無理はない気がする。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

作家達が語るミステリの思い出 “Mystery Muses”

 ジム・ホアン、オースティン・ラガー編“Mystery Muses: 100 Classics That Inspire Today’s Mystery Writers”(2006)は、100人の作家に、自分が作家になるきっかけを与えたり、今でも大事だと思っている作品を挙げてもらい、その作品への個人的な思い入れを語らせたエッセイ集。
 編者の一人、ジム・ホアンは、アメリカ独立系ミステリ専門書店協会会長。“100 Favorite Mysteries of the Century”(2000:邦訳は『書店のイチ押し! 海外ミステリ特選100』早川書房)や、過小評価されたり忘れられた秀作ミステリを紹介した“They Died in Vain”(2002)の編者であり、本書はそれらの姉妹編でもある。
 対象となった作品は、時代でいえば、ポーの「アモンティリャアドの酒樽」(1843)から1990年代の作品、ジャンルも、本格ミステリからサスペンスやハードボイルドにいたるまで、広範囲にわたっている。
 これらのエッセイを読むと、作家を目指そうと決意するきっかけとなったミステリとの出会いだけでなく、その出合いを通じて体験した感動が、紹介されているリアルなエピソードから活き活きと伝わってくる。
 年長じてからの体験を語る者もいるが、学生時代や、さらには十代以下の時の思い出を述懐している作家が少なくないのは、驚くべきことではあるまい。例えば、「アモンティリャアドの酒樽」を取り上げた冒頭のロブ・カントナーのエッセイは、なんと8歳の時に祖父からポーの著作を借りて読んだ時の体験を語ったものだ。
 分別を身につけてからではなく、未知なるものへの知的好奇心がうずく多感な時代にミステリの傑作と出会った思い出は、年長じてからでは二度と再現できない貴重な体験なのではないだろうか。ミステリへの興味と情熱に導き、自らその感動の提供者になりたいと決意させるきっかけを与えた作品への思いを熱く語る文章からは、彼らのミステリへの愛着と自らの体験を振り返る時の切なるノスタルジーがにじみ出ているのに気づく。同様の体験や思い出を持つ読者にも深い共感をもたらすに違いない。
 そうした特別な体験や思い出に結び付く作品が、ベストに推す作品とは異なる場合があるのも、事柄の性質からして当然のことだろう。それは客観的な評価によって取って替えられるものではないからだ。『チャイナ橙の謎』を取り上げるエドワード・ホックが、クイーンの作品で最初に読むべきものを推すなら『九尾の猫』か『災厄の町』だとしながら、9歳の時に遡れば、自分にとっては『チャイナ橙』しかないと語っているのも、まさに同様の心情に基づくものだろう。
 15歳の時に読んだセイヤーズの『死体をどうぞ』を年長じてから再読して振り返るマーガレット・マロン、少年時代に『義眼殺人事件』のペリー・メイスンのキャラクターに圧倒されたパーネル・ホール、意外にも『見知らぬ乗客』とパトリシア・ハイスミスから受けた影響を語るピーター・ラヴゼイなど、それぞれの作家達の飾り気のない素顔やインスピレーションの源を教えてくれる意味でも貴重なエッセイ集である。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

J・B・プリーストリー “Salt Is Leaving”

 ジョン・ボイントン・プリーストリーは、イギリスの小説家・劇作家として著名だが、戯曲『夜の来訪者』(1947:邦訳は岩波文庫刊)と、この“Salt Is Leaving”(1966)によってミステリ・ファンの間でも親しまれ、“Twentieth Century Crime and Mystery Writers”(1980)でも取り上げられている。特に本作は、本格的な謎解き推理小説としての体裁を持つ長編である。

 エドワード・カルワース氏は、ヘムトンという小さな町に書店を構える店主だったが、ある日外出したまま、閉店時間を過ぎても戻ってこなかった。カルワース氏は翌日になっても帰宅せず、店を手伝っている娘のマギーは、処理すべき仕事を放置したまま帰ってこないのは父親らしくないと不審を抱き、父がバークデンという町に向けてバスに乗ったところまで突き止めたものの、その後の消息はつかめなかった。マギーは、大学で物理を講じている兄のアランとともに警察に赴くが、その程度のことでは相手にしてもらえなかった。
 同じ日の朝、バークデンで開業しているソルト医師もまた、警察を訪れていた。患者だったノーリーン・ウィルクスという若い女性が行方不明になっていたからだ。ソルト医師はバークデンから引っ越す予定だったが、ハースト警視に、彼女がどうなったかを突き止めるまではこの町から動かないと訴えるものの、ハースト警視もまた、事件性を認めようとはせず、捜査に乗り出そうとはしなかった。
 ノーリーンは腎炎を患い、継続的な治療を必要としており、数週間も放置すれば死に至る可能性が高いのに、すでに行方不明になって三週間経っているという。彼女も自分の病状をよく自覚していて、不測の事態を恐れていたはずだったが、ソルトが確認した限りでは、どの病院からも連絡はなく、ほかの医師にかかっている形跡もなかった。彼女がバークデンを去ったとは思えないことから、ソルトはノーリーンが死んでいると確信する。
 やがて、マギーとソルト医師の調査は交差し、一見なんの接点もないように見えた二人の不明者の事件の背後には、バークデンの大立者、アーノルド・ドニントン卿とその家族が関わっていることが明らかになってくる・・・。

 本作品は、“A Catalogue of Crime”の編者ジャック・バーザンとW・H・テイラーが同書で称賛し、“Fifty Classics of Crime Fiction 1950-1975”の一冊に選んでいる(バーザンは個人的にも、“The Armchair Detective: A Book of List”において、ベストテンの一つに選んでいる)。
 非協力的で冷淡な警察や、ソルトの調査と目的に懐疑的な事件関係者の態度と対照させながら、ほぼ確実に死んでいる患者の謎を突き止めることだけが自分の目的であり、彼女に個人的になんの感情も持っていないが、その謎を突き止めるまではバークデンを去りはしないと、堅固な意思で淡々とひるむことなく調査を進めるソルト。こうして、一見接点のなさそうな二つの失踪事件が一つに収斂しながら、ソルトが次第に謎を解明していくプロセスを描くところが見事なストーリー・テリングをなしている。その結果、ソルト医師という存在を際立った個性として描くことに成功し、探偵役としてのカリスマ性を与えることにも効果を上げているようだ。シリーズ化されずに単発の登場で終わってしまったのは、バーザンたちならずとも惜しいと思うところだろう。
 ソルトの推理は、筋道だった論理性より直感に基づく面が強いが、フーダニットとしても意外性を演出することに成功している。『夜の来訪者』ほどテンションが高くスピーディーな展開ではないが、舞台上演を前提とした戯曲と違い、それも小説として個々の人物や背景を十分描き込むためにはやむを得ない代償だったと言えるかもしれない。シリアス・ノベルの作家がミステリに寄与した例としても出色の作品なのだが、我が国ではリファレンス・ブックでもほとんど取り上げられることがなく、あまり知られていないのは残念なところ。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

黄金時代における表現形式の変遷――短編から長編へ

 「ポンティング氏のアリバイ」をご紹介した機会に、推理小説史の問題にもちょっと触れてみたい。
 前の記事でも書いたように、この短編はソーンダイク博士物の最後の短編に当たるが、発表されたのは1927年2月。フリーマンのキャリアとしては、まだ脂の乗り切った時代に当たる。『ポッターマック氏の失策』、“Felo De Se?”、『猿の肖像』などの傑作もそれ以降に書かれたものだからだ。ところが、フリーマンはこの短編を最後に、ソーンダイク博士物の短編をぷっつりと書かなくなってしまうのである。
 フリーマンの書誌を眺めると、ソーンダイク物の短編集は、1909年の“John Thorndyke’s Cases”から1927年の“The Magic Casket”まで(2作だけ収録された“The Great Portrait Mystery”を含めても)6冊ある。ところが、長編のほうをこれと比較してみると、全21作のうち、1927年までに出た長編は10作、それ以降の長編が『証拠は眠る』(1928)から“The Jacob Street Mystery”(1942)まで11作と、短編の筆を折ってからの作品の数のほうが多い。
 実はこれとそっくりの現象がほかの作家にも見られる。フリーマンと並んでイギリスの五大作家の一人に挙げられたヘンリー・クリスファー・ベイリーも、フォーチュン氏物の短編集は『フォーチュン氏を呼べ』(1920)から“Mr. Fortune Here”(1940)まで12冊あるのに対し、9作あるフォーチュン氏物の長編のうち、1940年までに書かれたものは4作、それ以降の長編が1948年の“Saving a Rope”まで5作と、やはり短編を書かなくなって以降の長編が数の上では過半を占める(ジョシュア・クランク物を含めても、全21作の長編のうち11作が占める)。つまり、短編で鳴らしたこれら両作家は、いずれもキャリアの途中で短編という形式を放棄し、もっぱら長編ばかりを書くようになったことが分かるのだ。
 ジュリアン・シモンズは“Bloody Murder”の第十三章で短編小説の変遷について論じ、『クイーンの定員』はそんな事実などないかのように論を展開しているが、ホームズがストランド誌で活躍した時代が過ぎると、短編小説は長編小説にとって代わられるようになり、推理小説の黄金期に当たる第二次大戦前後には、短編という表現形式が質量ともにすっかり衰退してしまったことに触れている。
 その時代に活躍したフリーマンとベイリーという二人の作家の書誌を見ると、シモンズの主張が個人的なキャリアの上でも裏付けられることが分かる。まさに同時代における表現形式の変遷を作家自身が体現しているのである。
 シモンズが論じているように、黄金時代の作家の多くは、主要な活躍の場を長編に置き、短編は余技に近いものがある。クリスティは明らかにとっておきのアイデアは長編で使い、短編は息抜き程度の軽いつくりのものが多いし、やはり第二次大戦前に書かれたものが圧倒的に多い。ジョン・ロードやアール・デア・ビガーズのように、短編をほとんど書かない作家も現れてくるようになる。フリーマンやベイリーも、いわば過渡期の作家であり、だから、一人の作家の書誌にそうした変化が如実に表れるという興味深い現象が見られるのだ。
 そこで、改めて二人の作家の位置づけを見直してみたい。フリーマンの「ポンティング氏のアリバイ」とクリスティの「崖っぷち」が同じピアスン誌に掲載されていることにも示されているように、この二人の作家のキャリアは時期的にオーヴァーラップするところが大きい。むしろ、フリーマンはドイルの同時代人としてより、黄金期の作家に数えるほうがふさわしいと思えるほどだ。ベイリーはといえば、デビュー年はクリスティと同じであり、アーサー・モリスン、アーネスト・ブラマ、ジャック・フットレルといった作家達とは明らかに異なる時代に属している。
 フリーマンは1940年代に世を去り、ベイリーは死後急速に忘れ去られたため、黄金時代の全盛期に活躍した作家達と比べると、どうしても一時代前の作家のような印象を抱いてしまうのだが、むしろ彼らは自覚的に長編を主要な活動のステージに選んだ黄金期の作家と見なすべきであり、(いろんなところでそう扱われているように)「シャーロック・ホームズのライヴァル」というレッテルを貼ってしまうのは些か不当ではないかと思える。「ホームズのライヴァル」という見方(あるいは偏見)が作品に対する評価にも影響を与え、注目度も紹介もおのずと短編に偏ってきたのだとすれば、これは実に残念なことであり、認識を改める必要があるだろう。
 フリーマンは近年、長編も少しずつ紹介されるようになってきたが、ベイリーのほうは、ジョシュア・クランク物の『死者の靴』が紹介されただけだ(しかも既に入手困難になっている)。この二人の作家の長編にはまだまだお宝が眠っていることを、このブログでも紹介していければと思う。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

タイトルも意味深

 最近、アントニイ・バークリーの『試行錯誤』が重版になったようです。それでふと思い出したことをちょっと息抜き風に述べてみたいと思います。
 私が所持している翻訳は、同じ創元文庫版でも昔の版で、タイトルは『トライアル&エラー』となっています。おそらく、原題をそのままカタカナ表記しても、意味を理解できない人もいることを配慮して改題したのではないかと思われるのですが、個人的には元のタイトルのほうが気に入っています。
 ご存知の方も多いと思いますが、原題の“Trial and Error”は、ダブル・ミーニングで、「試行錯誤」という意味と「裁判と誤審」という意味を併せ持っているからです。知らないうちに、無実の人間が裁判で有罪判決を受けてしまい、自分が真犯人であることを証明しようと試行錯誤を重ねる人物のストーリーを、この簡潔なタイトルで表現したバークリーの機知に感心させられるわけですが、とはいうものの、これを翻訳で表現しようとしてもうまくいきません。できれば、訳注を付けるなり、あるいは解説で説明でも加えてほしいところですね。
 タイトルには、こうした隠し味が込められている場合が時々あります。たとえば、ジョン・ディクスン・カーの“The House at Satan's Elbow”は、邦題では「悪魔のひじの家」。「悪魔のひじ」と呼ばれる場所に建っている家だからですが、中身を読まない限り、なんのことやらさっぱり分かりません。‘at one’s elbow’は、「・・・のすぐ手の届くところに」という意味の慣用句で、先入観抜きに読めば、この原題は「悪魔がとり憑く家」とか「悪魔が忍び寄る家」といったニュアンス。作者は、タイトルを見た第一印象で、そう受け止められることを期待していたはずですが、これも、せめて訳注でも付けてくれると、もっと親切だったかもしれません。(実は邦訳が出るずっと以前に、「『悪魔のひじにある家』なんて直訳で出たりするかもな」と仲間内で冗談を言っていたことがあるのですが、冗談が本当になってしまって苦笑を禁じ得なかったものでした。)
 ダブル・ミーニングといえば、これもかつて指摘されたことがありますが、コナン・ドイルのホームズ物の短編‘The Adventure of the Speckled Band’も有名な例ですね。‘band’には、「ひも」という意味だけでなく、人の群れや一団という意味もあります。楽団のことを「バンド」というように、日本語でもある程度通用しているといえるでしょう。この作品のストーリーは、そもそも「バンド」が「ひも」を指すのか、「人の団」を指すのか不明なままに展開していくところに面白さがあります。初めから「ひも」と訳してしまっては、実はネタバレに近いのですが、ほぼ全ての翻訳で「まだらの紐(ひも)」と訳されていて、最近の新訳でもこの傾向は改まっていません。
 アガサ・クリスティがダブル・ミーニングを得意とした作家であることはよく知られていますが、イギリス英語とアメリカ英語の違いをプロットに取り入れた例もあるし、タイトルでも、“The Murder of Roger Ackroyd”はなかなか意味深です。これを創元文庫版のように、「アクロイド殺害事件」と、第三者が名付けた事件名のように訳しては、せっかくのニュアンスが台なし。早川文庫版の「アクロイド殺し」はまだましですが、できれば、「ロジャー・アクロイドの殺害」と、そのまま訳してほしいところです。
 英語と日本語を隔てる言語の壁は、時としてなかなか越え難い面もあるのですが、訳注や解説を活用できるのも翻訳のメリットであり、うまく活用して読者サービスを向上していただければありがたいですね。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

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