フリーマン『オシリスの眼』が刊行されました

 リチャード・オースティン・フリーマンの『オシリスの眼』(1911)がちくま文庫から刊行されました。『赤い拇指紋』(1907)に続く、ジョン・ソーンダイク博士の登場する長編第二作。フリーマンの最高傑作にして、数々の名作表に選ばれた謎解きの金字塔的作品です。多くの読者の皆様に楽しんでいただけることを願っております。

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               The Eye of Osiris



               Van Dine Library3
               “The S.S. Van Dine Detective Library”の挿絵より
               邦訳25頁、ルース・ベリンガムが登場する場面を描いたもの



               Miss Bellingham
               “The Other Eye of Osiris”の挿絵より
               ミス・ベリンガムの肖像

脱線の余談――『オシリスの眼』と『犬神家の一族』

 『オシリスの眼』は、古典というだけあって、後の作品にも影響を与えたものが少なくない。シミルボンの書評でも言及したが、J・J・コニントンの『九つの解決』(1928)やダーモット・モーラーの“The Mummy Case”(1933)は、もちろんそれ自体優れた作品だが、直接的な影響を受けた作品の代表例だ。
 だが、もう一つ、もしかするとそうではないかといつも心をよぎる国産ミステリがある。横溝正史の『犬神家の一族』(1950-1951)だ。
 奇想天外な遺言書をきっかけに事件が発展していく点、そして、大団円の付け方が、妙に似ていると思えて仕方がない。そう思うのは、おそらく私だけではあるまい。敢えて言えば、(両作のプロットに触れてしまうので言いにくいが)「〇〇〇〇し」テーマを採り入れている点もそうだ。(「犬神」は「ベリンガム(Bellingham)」から連想して付けた名前か、と思うこともある。)
 といっても、似ているとはっきり言えるのはその程度で、『九つの解決』や“The Mummy Case”ほど、影響を受けたと明瞭に分かるほどではない。だから、ただの偶然だと言われれば、そうかもしれないとも思えてくる。ただ、横溝氏は原書で海外ミステリを読んでいたというし、自ら翻訳を手がけたこともある人なので(私もヒュームの『二輪馬車の秘密』は横溝訳で読んだ)、あり得ないわけでもないだろう。(あるいは、大正九年から「新青年」に連載されたという保篠龍緒訳『白骨の謎』を目にしていた可能性もある。)
 実際に影響を受けたかどうかはともかく、今日の視点で読んで、両者に接点を感じるのは、プロットだけではない。時代を感じさせる作品という点でも実はそうだ。
 『オシリスの眼』は、エドワード朝時代のロンドンを彷彿とさせる描写が魅力の一つだが、『犬神家の一族』も、戦後間もない日本の地方の描写が独特のオーラを放っている。現代の同じ町、土地を知ってはいても、自分が体験したことのない時代の、二度と再現できないその町の姿や人々の様子を生々しく伝え、過去に思いをはせるきっかけを与えてくれるのは、同時代に書かれた作品ならではの魅力だろう。
 そう思うようになって以来、『オシリスの眼』の結び部分に来ると、なにゆえか、私の頭の中では、大野雄二さん作曲の「愛のバラード」が鳴り響いてしまうのだった(笑)

『オシリスの眼』の小説としての面白さ

 ‘John Thorndyke’s Journal’第5巻(1993年冬)に、‘Austin Freeman’s Finest Work?’という論稿が掲載されている。執筆者は、ジョン・サッカー。レスターシャーのカービー・マックスロー出身の元校長で、「ディケンズ・フェロウシップ」の会員。“Edwin Drood – Antichrist in the Cathedral”(1990)という『エドウィン・ドルードの謎』に関する研究書を出している。
 ここでいう「フリーマンの最良の作品」とは、もちろん、『オシリスの眼』のことである。だが、サッカーの挙げる理由は、謎解きとしてのプロットやロジックにあるのではない。推理の興味と恋愛要素をうまく融合しているところにあるのだ。
 ソーンダイクも、バークリー医師やルース・ベリンガムに見せる思いやりに示されるように、法医学的な推理の能力だけでなく、人間的な温かさを持っているし、それは『ポッターマック氏の失策』のようなのちの作品でも顕著である。ドイルが創造したホームズに見られるように、推理小説作家の多くは、探偵に人間味のない科学や推理の能力を付与することはあっても、人間的・道徳的な個性を付与しすぎないようにしがちだが、ソーンダイクは決してそうではないというわけだ。
 こうした点を踏まえながら、サッカーは、「『オシリスの眼』において第一級の小説家としての資質を示した」とフリーマンを称賛して論稿を結んでいる。
 同書における恋愛面の要素や描写などは、やや陳腐なサブプロットのように思えてしまうところもあるのだが、むしろそうした面を積極的に評価しようとする識者の意見もあることは興味深い。確かに、ソーンダイクに人間的な温かみが顕著だからこそ、登場人物同士の個性のコントラストも際立ち、ストーリーを一層読み応えのあるものにしていることは事実だろう。

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」に『オシリスの眼』の書評

 「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の「クラシック・ミステリ玉手箱」の書評で、ストラングル成田氏に『オシリスの眼』を取り上げていただきました。
 「これでもか、とばかり、真相に結び付く手がかりと推理を次々と開示していく迫力に満ちた終章は、時代はもちろん逆だが、クイーンばりですらある。エジプト学が単なるペダントリーに終わらず、プロットに密接に関わっている点も特筆すべきだろう。フェアな手がかりと推理による正統的謎解き小説の確立者としての、フリーマンの先駆性をまざまざと示す作品だ。」と書評を結んでおられます。
 文庫解説では、フリーマンらしさを強調するために、敢えてトリック云々はさほど強調しないよう努めた面もあるのですが、成田氏は本作の真相における「大胆な力技」にも触れておられます。『オシリスの眼』は、「ゲームの慣習」でほぼ確実に犯人が分かってしまう『猿の肖像』に比べると、フーダニットやハウダニットの面でも、まずまずの意外性を持つプロットであることから、必ずしも容易に真相を見抜く読者ばかりではないようで、それだけに、トリックや意外性の視点で評価しようとする読者も少なからずおられるように思えます。
 それまで意識しなかったフリーマンの作品の特長に目を向け、面白さにあらためて気づいてくださった読者がおられたとすれば、それで私の解説は十分役割を果たしたと思っているのですが、「ゲームの慣習」に従って推論する読み方を否定するつもりはありませんし、むしろ自分自身、そうした推理小説の読み方を存分に楽しんでいる読者だと思っています。『オシリスの眼』をそうした視点からも楽しんでいただけた読者がおられるなら、それもまた訳者にとって望外の喜びというものでしょう。
 それにしても、ストラングル(絞殺)とはすごいペンネームです・・・。

脱線の余談――『オシリスの眼』の感想を聞くと・・・

※『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。

 『オシリスの眼』は読者の皆様のご好評をいただいているようで、まずは読んでいただいた方々に感謝申し上げたい。読まれた方も増え、身近な人とも感想を共有できるようになったおかけで、いろんな意見を聞く中で認識を改めたこともいろいろ出てきている。息抜きにちょっとそんなことをざっくばらんに書いてみたい。
 以前の記事でも書いたが、読まれた方の感想などを聞くと、必ずしも「ゲームの慣習」で容易に真相を見抜く人ばかりではないようで、トリックや意外性の点でも評価しようとする向きが多いのに気づく。「死体隠蔽のアイデアが面白い」、「発見された骨のまとまり方のホワイダニットがユニーク」といった意見が特にそうだ。後期の代表作『猿の肖像』は、ナルスジャックが分析しているように、ロジックこそ緻密ではあるのだが、真相があまりに見え透いていて「ゲームの慣習」で早々と見抜いてしまう読者が多く、その点が不評の一因でもあったようだ。こうした観点からすると、『オシリスの眼』はロジックとトリックのバランスがうまく取れた作品と見ることもできるのだろう。
 その一方で、「犯人を当てた」という人の意見も、いろいろ聞くと興味深い。その「推理」のプロセスを集約すると、「ベリンガムの遺言書には、犯人に対して一定の金額のほか、エジプト関連のコレクションを遺贈するとされている。犯人はエジプト学に一方ならぬ関心を抱いている。コレクションの中に、犯人がどうしても欲しい貴重な遺物が含まれており、それが殺人の動機だと思った」、「遺言書に記載のある人間の中で、消去法で行くと、そいつが一番盲点の人物らしいから」という推論をした人が多いようだ。直接当事者は犯人として見え透いているから、意外性を狙って、犯人は目立たないもう一人の遺言執行者、動機は金銭よりも考古学的価値のある遺物、というわけだ。「ゲームの慣習」による推論なら、まあこんなものかもしれない。実際、こんなプロットでも十分成り立つし、傑作とまでは言わずとも、レッド・ヘリングをうまくちりばめて錯綜させれば、立派に水準以上の作品が出来上がるのではないだろうか。
 やや脱線するが、なぜか我が国では評判の高い『証拠は眠る』にしても、この作品をフーダニット、ハウダニットの側面から「代表作」と考えている人がいかに多いかを感じる。実際、これがフリーマンの代表作のように見なされているのは日本の特殊現象のようなものだが、その一方で、同書第17章以降でソーンダイクが展開する緻密な推論の積み重ねの非凡さに言及する人は少ない。多くの読者が「トリック」に目を奪われて、フリーマン本来の特長を意識しないまま作品を読んでいるのはこんなところにも表れている。とはいうものの、推理小説の読み方にルールがあるわけではないし、従来型の読み方の中からも、いろんな目の付け所があることが分かって興味深かった。
 ちょっと意外だったのは、現代の法医学の水準からすれば、古代人の骨を現代人の骨と取り違えることはあり得ないという指摘も一方であるのだが、こうした時代的制約をプロットの限界や瑕疵と捉える人はそれほどいないことだ。我が国の読者はこうした点については意外とおおらかなように思える。例えば、国産ミステリで言えば、1990年代に出たよく知られた作品があるが、その中で、一方では当時最先端のIT知識を盛り込みながら、いくら親子で似ていたとしても、十五歳も歳の違う娘の死体を医師が母親と間違えて気づかないという、信じがたい設定が平気でまかり通っている。確かにこんな例に比べたら、時代的制約があるとはいえ、フリーマンの科学捜査の描写のほうがリアリティがあると言えるかもしれない。
 もう一つ意外に思ったのは、バークリー医師とルース・ベリンガムの恋愛エピソード。私などは、いかにも旧時代的なお約束の恋愛描写のように思えて仕方なかったのだが、これを好ましいと思う読者の方が予想以上に多いのに驚かされた。悠然としたストーリー展開も、そんな恋愛エピソードのおかげで読み応えがあるという意見も聞く。チャンドラーがそんな描写を好んだというのも、実はそれなりに理由のあることだったのかもしれないと認識を改めつつあるところだ。確かに、最近の犯罪小説で描かれるような、ドロドロした男女関係やあからさまな性描写にうんざりしている読者にとっては、一服の清涼剤なのかもしれない。
 百年以上前の作品とは思えないほど文章がモダンで古さを感じさせないという意見も聞く。訳者の立場として誠にありがたい評価なのだが、これは要は、翻訳という作業が、単に横のものを縦に直すだけでなく、古いものを現代風に言い表す作業でもあるからだ。
 同書の英初版が刊行されたのは百年以上前の1911年。それは優雅に二輪馬車が走り、ガス灯がともるロンドンの描写からも伝わってくる。我が国で言えば、明治44年。文学では、島崎藤村や夏目漱石が作品を発表していた時代だ。この時代の小説を今日の我々が読めば、舞台背景の描写はもちろんのこと、表現や文体に違和感を覚えるものがあるのは当然で、現在出ている文庫本等が、今日の読者が読みやすいように漢字や仮名遣いなどに最低限の修正を加えているのも当然だ。
 実は英語とて例外ではない。クラシックなミステリを読んでいると、今日では廃れてしまった表現がいろいろ出てくるし、語彙だけでなく、もってまわった言い回しも多い。原文は、若い人が読めば眉をひそめるような表現に溢れている。おそらく、『オシリスの眼』のようなクラシックを原書で読む英語圏の読者は、古い英語表現にあちこち引っかかりながら読んでいるに違いない。しかし、翻訳で読む読者は、言語だけでなく、表現も現代風に訳されたものを読んでいるため、そのことに気づかない。ある意味、翻訳で読む読者は英語圏の本来の読者よりも得をしている面もあると言えるのかもしれない。
 最後に、疑問に思われた方もいるようなので、バジャー警部の最期について簡単に触れておこう。『赤い拇指紋』では、ミラー警視が刑事裁判所から犯人を尾行するものの、捕まえる場面はない。のちの短編「前科者」では、犯人を見失ったことが言及されている。倒叙に分類してもいい“When Rogues Fall Out”は、『赤い拇指紋』の続編でもある作品で、この逃げおおせた犯人が再び登場し、ソーンダイクと対決することになる。バジャー警部はこの犯人に殺されてしまうのだ。ソーンダイクにも平気で食ってかかるユニークな警部だが、さすがにお気の毒である。
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S・フチガミ

Author:S・フチガミ
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