ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第三章-1

第三章

 ウェストボーン・テラスにあるプリーストリー博士の家は、大きさといい、いかめしい外観といい、落ち着きと上品さが漂う雰囲気といい、ボーマリス・プレイス十三番地の家とかなり似ていた。だが、博士の家には、あの家に垂れこめる独特の薄暗さはなかった。博士は、電灯をつけるのを惜しんだりはしなかった。書斎が博士のほぼ常時すごす部屋だったが、調度品の簡素さとは裏腹に、明るい雰囲気に満ちていた。
 その日の晩、オールドランド医師が初めてその家に入った時の印象も、おそらくそうだったろう。彼は、ガラス戸の本棚、居心地よさそうな椅子、そのゆったりした部屋のなかでも大きすぎる感のある巨大なデスクを興味深げに眺めまわした。その目がめがねの背後できらりと輝いた。「快適そうだね、プリーストリー」と彼は言った。「君のくつろぎ方のほうが、クラヴァートンよりもましだよ」
 博士はうなずいたが、オールドランドの姿を観察するのに気を取られて、その言葉をほとんど聞いていなかった。この男は二十年ほどのあいだにずいぶん変わったな。外観も、マナーも、そして声すらも。今日の午後、クラヴァートンはなんと言ってたっけ? 移ろいゆく世界に住んでいるとか、好き嫌いに関係なく、そんな世界に我慢しなくては、とか。オールドランドから見れば、自分もどれほど変わったことだろう、と博士は思った。
 「そう、クラヴァートンのことだ」と博士は唐突に言った。「今日の午後会って、クラヴァートンはずいぶん変わったと思ったよ。最初見たときは、なにか重い病気にかかっているのかと思ったほどだ。だが、君は彼に、そんなことはないと言ってるようだね」
 「私は本当のことを言ってるんだよ」とオールドランドは簡潔に答えた。「彼には重い病気などない。軽度の胃潰瘍だけさ。難なく完治するたぐいのものだよ。もちろん、症状はつらいし、患者にも暗い予感を与えがちなものだ。彼が実際の病状以上に深刻に受け止めているのも、そのせいだろう」
 「だが、さっき別れた時に君が口にした言葉からすると、君も彼のことを心配していると思ったんだがね?」
「心配してるさ、プリーストリー。君と話したいのもそのことなんだ。のっぴきならないことでなきゃ、彼が完治するまでロンドンを離れたりはしないよ。君はしょっちゅう彼に会いに行くのかね?」
 「思うほど会えないんだよ。音信もないまま一年近くも疎遠になってしまってね。病気だと知っていたら、もっと前に訪ねていたさ」
 「一年近くか」とオールドランドは思い返すように言った。「きっと、いろいろな点で変わったと気づいたろうな。君が午後来ることは、クラヴァートンは知っていたのかね?」
 「いや。今朝、彼から短い手紙をもらって、具合がよくないので、訪ねてきてほしいと書いてあったんだ。日時の指定は特になかった。だが、その訪問が君の心配となにか関係があるのかね?」
 「いや別に。いきさつを知ろうと思っただけさ。すまないな、プリーストリー。だが、なにもかもがあまりに奇妙で、どうすればうまく説明できるのか分からないんだよ。気づいたと思うが、クラヴァートンはもう一人暮らしじゃないんだ」
 プリーストリー博士は、返事を返す前にひと息ついた。グレーのドレスを着て、そこから黒く分厚い編み物を垂らし、細い指をせわしなく動かしていた女の姿を思い浮かべた。「最初に客間に案内されたよ」彼はようやく言った。
 「ああ!」オールドランドの声は妙に震えていた。「では、君も彼らに会ったんだね?」
 「三人いたよ。だが、彼らが何者かは知らない。正直言うと、あんな連中がクラヴァートンの家にいたのには驚かされたよ」
 「三人だって? ああそうだ、確かにね。私が家に行ったとき、ダーンフォード青年が中から出てきたな。君が来たときには中にいたはずだ。あとの二人は、リトルコート夫人とその娘だね」
 グレー服の女が、人間らしい名前を持っていたこと自体驚きだ。あのご婦人が結婚をして、娘を儲けたというのも、ほとんど信じられない。ということは、いかに短期間としても、あのせわしない指が作業を止めたことがあったわけだ。
 「今の今まで、彼らの名前は知らなかったよ」と博士は言った。「クラヴァートンは、彼らのことはなにも話してくれなかったからね」
 オールドランドはうなずいた。クラヴァートンが黙っていたのも当然と言わんばかりだった。「彼らのことは話したがらないんだよ。彼とは最近会う機会が増えたが、私もこのあいだまで彼らのことは知らなかったんだ。リトルコート夫人はクラヴァートンの妹だ。彼女と娘は、パットニーのとある小さなフラットに住んでいる・・・というか、住んでいたようだね」
 「言ってる意味が分からんな、オールドランド。つまり、クラヴァートンとずっと一緒に暮らすために、フラットから出たということかね?」
 「分からんね。彼らの目的がなんなのか、さっぱり分からないのさ。彼らがいま十三番地に住んでいるのは、私のせいなんだ。あとで説明するがね。彼らはそれなりにありがたいと思ってるかもしれん。だが、仮にそうだとしても、口に出して感謝したことはないよ。リトルコート夫人は耳が聞こえないんだ」
 「耳が聞こえないだって!」と博士は声を上げた。なるほどそういうことか。リトルコート夫人は、頭を垂れて作業に集中していたから、博士が客間にいるのにまるで気づかなかったのかもしれない。
 「かなり難聴が進行しているんだ。どの程度の障害かは、私にもまだ分からない。時おり、本当はもっと聴こえるんじゃないかと思うこともあるんだがね。多難な人生を送ってきた人だよ。誰に聞いてもね。気の毒に」
 医師は口を閉ざし、めがねをはずして拭きはじめた。彼の目は、こうしてあらわになると、不自然なくらい輝いているように見えた。まるで、隠れた情熱の炎が心のうちに燃えているかのようだった。
 「最近になって、クラヴァートンが彼女のことを教えてくれたんだ」彼はいきなりまた話しはじめた。「聞いたことがあるかしらんが、彼らは三人兄妹だったんだ。クラヴァートンが長男で、その下に妹が二人だ。クララ、つまり、リトルコート夫人のことだが、彼女が一番下だよ。もめ事を起こすまでは、かわいい子ヒツジだったと思うがね。
 経緯は知らんが、彼女は巡回伝道者とねんごろになったんだ。どんな手合いか分かるだろ。自分の信じる教義に人類を改宗させる使命を帯びた御仁というわけさ。世に知られた教派とも無関係でね。いわば、独立独歩の宗教というわけだ。警察に目をつけられないかぎりは、国じゅういたるところを説教して回っていたのさ。良家の出らしいが、一文なしだったようだね。
 クララ・クラヴァートンは、たまたまその御仁の噂を聞くと、たちまちに恋に落ちてしまったらしい。その男自身にか、それともその教えにかは知らんがね。その後、彼女はその男と進む道を共にしたというわけだ。むろん、文字通りの意味じゃない。クラヴァートンは長兄の立場として――その頃には両親も亡くなっていた――、その男のことでは、妹に対して監視の目を怠らなかった。ところが、その男が近くまで来ると、彼女は、友人を訪ねるとか口実を設けては抜け出し、時の許すかぎり男の説教を聴いていたというわけさ。
 手短に言うと、彼女はある日出て行って、それきり戻らなかった。クラヴァートンは、もちろん、ひどく気をもんだよ。妹の消息はつかめなかったし、事故にあったと思ったんだ。病院、警察、その他思い当たるところはみな足を運んでね。だが、彼女の消息を知る者はいなかった。そしたら、翌日、手紙が一通届いた。クララはその伝道者と結婚して、リトルコート夫人になったと知らせてきたのさ」
 「クラヴァートンのことだから、さぞや大きな衝撃を受けただろうな」とプリーストリー博士は言った。「私にはそんな話は一言も話してくれたことはないよ。知ってのとおり、いくら以前親しかったといってもね。リトルコート夫人はいつ結婚したんだい?」
 「君がクラヴァートンと知りあうほんの少し前だと思う。クラヴァートンはひどく怒ったよ。妹とは縁を切ったと言ってね。口をきわめて、地獄へ落ちるがいいと妹に伝えたのさ。それとも、天国行きかな。彼女にしてみればね。それきり、妹の名は努めて口にしなくなったんだ。
 時おりは彼女の消息を耳にしてはいたようだ。いやおうなしにだがね。リトルコートは、伝道活動のことで時おり問題を起こして、名前が新聞に出たりしたんだ。リトルコート夫妻は国じゅうを行脚していた。生垣の下で寝ることも稀ではなかったろう。間もなく、三人目の道連れができた。赤ん坊を連れて歩くことになったのさ」
 「赤ん坊だって!」プリーストリー博士は声を上げた。「今日の午後会った娘かね?」
 「いや、その子は死んだ。両親の暮らし方に耐えられなかったんだろうね。ヘレン、つまり、君が午後会った娘だが、彼女はそのあとに生まれたんだ。彼女が生まれてほんの数週間後に父親は死んだ。リトルコート夫人を孤立無援のまま残してね。彼女では伝道活動をうまく続けていけるはずもなかっただろう。夫人はクラヴァートンに泣きついた。彼にしてみれば、妹を飢え死にさせるわけにもいかなかったし、不憫に思って、わずかな生活費は送ってやることにした。ただし、自分の前には現れるなという条件付きでね。たぶん、いとこの遺産を相続してからは、生活費の額も上げてやったんじゃないかな。
 リトルコート夫人がどうやって暮らしを立てていたかは分からない。だが、ヘレンには、それなりの教育をなんとか受けさせてやった。それと、娘が成長するあいだに、夫人はかなり儲かる商売を自分で見つけたんだよ。夫が説教していた教義がどんなものかは知らん。だが、夫の死後、彼女はスピリチュアリズムに転向したんだ」
 とたんに、プリーストリー博士は、その言葉を口にしたとき、クラヴァートンが顔をひきつらせたのを思い出した。「クラヴァートンはそのことを知ってるのかね?」と博士は尋ねた。
 「ついこのあいだ、はじめて知ったのさ。リトルコート夫人のほうからは、絶対に話さなかった。そんなことは認めてくれないだろうし、生活費も切られると思ったんだろうね。ともかく、彼女は心霊術体験で金を儲ける方法を見つけた。七、八年前に霊媒としての能力を開花させたんだ。もちろん、自分の本名は使っていない。マダム・ディアーネと称している。その名は、私も何度か聞いたことがあるよ。彼女が行う降霊術会はいつも好評らしい。聞くところでは、かなりの実入りらしいよ。
 ヘレンにその稼業を継がせるつもりかどうかは分からん。娘を見ているかぎり、どう考えてもそんなことはできそうにないがね。こうなると分かっていたら、私もあんなことを勧めたりは・・・。とまれ、その話をするよ。けっきょく、ヘレンはナースの仕事に就くことになって、セント・エセルバーガ病院に研修を受けに行った。そこで出会った最初の相手が、いとこのアイヴァー・ダーンフォードだったんだ」
 「ダーンフォード?」とプリーストリー博士は言った。「それは、午後会った青年の名じゃなかったかね?」
 「その男だよ。彼のことはさっぱり分からん。つまり、ヘレンに対して、なにをたくらんでいるのかということだがね。彼はクラヴァートンのもう一人の妹の子なんだ。彼女の場合は、ロマンチックな話はなにもない。公務員と結婚して、その後も幸せに暮らした。アイヴァー自身は研究化学者だ。北部の大企業で仕事をしている。セント・エセルバーガ病院では短期就労していて、かくしてヘレンと出会ったというわけさ。
 では、奇妙ないきさつについて話すとしよう。ケンジントンで診療所を開業して以来、クラヴァートンと連絡を取るようになってね。ふた月ほど前に、彼に往診を求められた。吐き気と腹痛を訴えて、医学的な助言を求めてきたんだ。胃潰瘍と診断して、パパイン(訳注:熟していない青パパイアの果実や葉から汁を抽出して、乾燥、生成させた消化酵素の一種。消化機能の向上、鎮痛作用、腸内環境の改善等の効能がある)を調合したアルカリ性の薬を処方した。この手の疾患にはパパインが効くと確信しているよ。テイラー・アンド・ハント社のカプセルで買うように指示した。そこの薬はいつも純度が高いんでね。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第三章-2

 クラヴァートンは素直にこの療法に従ったが、ベッドで安静にしていたほうがいいとも忠告したんだ。それはそれでよかったんだが、彼の世話をする者がいなくてね。家には使用人が四人いる。フォークナーと料理人を含めてね。ところが、病人の世話の仕方が分かる者がいなかったんだ。それで、経験のあるナースを雇ったほうがいいとクラヴァートンに勧めたんだよ。
 ところが、クラヴァートンには、ちょっとへそ曲がりなところがあってね。希少本でほしいものがあれば、出し惜しみしないくせに、彼の言う無用な便宜なるものには出し渋るんだ。ナースの言うことなど聞くつもりはない、金の無駄遣いだ、家事からなにからみんな引っかき回される、と言ってね。私も、どうしていいか思いあぐねながら家を退散したよ。まさか、療養施設に入院しろとは、さすがに言えなかったしね。
 あくる日、遠まわしにあれこれ希望を聞いてみると、ナースには心当たりがあると言うんだ。ロンドンの病院で研修を受けた姪がいるから、しばらく同居させてやれば、けっこうな節約になるとね。二日後に来ると、家にはヘレン・リトルコートと母親が腰を据えていたというわけさ」
 プリーストリー博士は苦笑すると、「なるほどな」と言った。「クラヴァートンの節約願望は、妹の所業への怒りすらも超越したというわけだ。だが、リトルコート夫人までが娘と一緒に来る必要はなかったんじゃないかね? そもそも、夫人は十三番地の家でなにをやっているんだい?」
 オールドランドは、めがねの奥で目を細めると、「彼女は待っているのさ」と妙に意味ありげな言い方で答えた。
 待っている? とたんに、プリーストリー博士は、その一語がいかに彼女の様子を見事に言い当てているかに気づいた。自分の周囲で起きていることは気にも留めず、謎めいた黒い編み物にひたすら集中しながら待っているわけだ! だが、いったいなにを? なにか現世の出来事だろうか。それとも、正体不明の霊魂が降臨して、交信してくれるのを待っているのか? あのグレーの髪の頭を垂れた様子を見ていても、誰にも分かるまい。
 「常軌を逸しているね、オールドランド」と博士は静かに言った。「なにが起きるのを期待しているんだい?」
 オールドランドは両手を挙げ、おかしな身振りでお手上げだと表現した。「私に分かるわけがないじゃないか」と答えた。「君も気づいたと思うが、彼女とはうまく意思疎通できないんだ。なにを待っているかって? 知るかね! 娘と甥が結ばれるのを待ってるのかもしれんし、クラヴァートンの勘気が解けるのを待っているのかもな。夫人があの家に来てからも、クラヴァートンは妹のことをさほど気にかけていないようだしね。そんなことより、もっと仰天するようなことかもしれんな」
 彼はひと息つくと、気を静めて話を続けた。「分からんがね。なにも打ち明けてもらってないからな。クラヴァートンがなぜ妹を家に受け入れたのかも知らないんだよ。私に思いつくことといったら、母親が一緒でないといやだと、ヘレンが言ったんじゃないかということぐらいさ。夫人は現にあの家にいるし、クラヴァートンが回復するまで居座り続けるつもりのようだな・・・回復すればだがね」
 「確実に回復するんじゃなかったのかね?」博士は、オールドランドの言葉を聞いて、思わず声を上げた。「彼の病気は重くないと言ってたじゃないか」
 「重くはないよ。現に、順調に回復しているしね。だが、いつまで続くかな? なあ、プリーストリー、君に話さなきゃいかんことがあるんだ。守秘義務違反になってしまうがね。これから話すことはここだけの話で、他言無用に願いたい」
 博士はたじろいだが、「異論はないよ。他人に話さざるを得ないような特段の事情でもあれば別だがね。君が打ち明けてくれたことを漏らしたりはしない」と力を込めて言った。
 オールドランドは暗い表情でうなずくと、「残念だが、これは特段の事情なんだ」と答えた。「だから、いずれは明るみに出る。じゃあ事実を話そう。私にも解せんのだが、ずっと頭を悩ませてることなんだ。
 リトルコート夫人と娘は、私が異常に気づく二週間も前からあの家にいる。クラヴァートンは期待したほど回復は早くなかったが、そんなことだってあるものだ。一度か二度、薬を変えてみたが、効果はないようだった。そしたら、六週間ほど前のある日の晩、フォークナーがタクシーで私を迎えに来てね。知ってのとおり、十三番地の家には電話がない。使い勝手よりやっかいな面のほうが多いというのがクラヴァートンの持論なんだ。
 フォークナーの話は、旦那様の具合がひどく悪いからすぐ来てほしい、ということだった。クラヴァートンは衰弱していて、ひどく具合が悪そうだった。ヘレンの話では、急にそうなったというんだ。私は、胃潰瘍が急に悪化したせいだと思ったから、その判断に従って処置した。そのときも、どうも気に食わん症状がみられるのに気づいていたよ。しばらく付き添っていると、症状も治まってきた。だが、どうも納得がいかなかったし、手術の必要があるかもしれんと思った。クラヴァートンには黙っていたが、ヘレンには、明日にでも専門医を呼ぶつもりだと言ったよ。呼ぶからには、症状について極力詳細な情報を伝えなきゃならんと思って、組織や血液などのサンプルを採って持ち帰った。
 疑いを抱いていたとまでは言わんよ。しかとした確信があったわけじゃない。とはいうものの、それらのサンプルをさっそく調べてみたんだ」
 引きつった笑みがオールドランドの唇に一瞬浮かび、椅子から身を前に乗り出した。「徹底した分析をやったんだ。どういう分析かは分かるだろうがね」表情が険しくなった。「検査したサンプルからは、いずれも多量のヒ素が検出された」
 「ヒ素だって!」とプリーストリー博士は声を上げた。「摂取元は突き止めたのかね?」
 「いや。私の身にもなってくれ、プリーストリー。いったいなにができるというんだ? クラヴァートンの発作は、致死量以下のヒ素の摂取と完全に符合していた。サンプルにその証拠を見つけたんだ。だが、そのヒ素はどこから摂取されたのか? 私はそんなものを処方などしとらん。翌日、彼の薬瓶を持ち帰って、調剤を間違えた可能性がないか検査してみたよ。結果はシロだった。そう確信してはいたがね。カプセルにはなんの疑惑もない。テイラー・アンド・ハント社がミスを犯すはずはないさ。では、ほかになにが考えられるか?」
 「クラヴァートンに出された食事だな」プリーストリー博士はゆっくりと答えた。
 「そのとおり。だが、どうしたらいい? 騒ぎたてて、警察を呼ぶと迫るのか? クラヴァートンに向かって、君を毒殺する企てがあると言えとでも? そしたら、どうなると思うね? 食事の残飯は、とっくに廃棄されてしまっている。ヒ素は、まったく偶然の経緯で摂取されただけかもしれん。実は、頭がおかしくなるほど、この問題を繰り返し考え続けたんだよ。けっきょく、誰にも言わないかわり、症状のぶり返しがないか、患者を慎重に観察することに決めたんだ。
 それが六週間前のことでね。それ以来ほとんど毎日、サンプルを採って検査している。ヒ素の痕跡は徐々に消えていったし、ここひと月ほどは検出されていない。明らかに一服だけ盛られたんだな。クラヴァートンは着実に回復しているよ。だが、もう一服盛られないという保証がどこにある?」
 「誰をクラヴァートンの毒殺未遂犯と疑ってるのかまでは、あえて聞くまい」とプリーストリー博士は言った。「こういう場合、疑惑はもっぱら推測に基づいているだけだからね。クラヴァートン自身は、発作の原因について思い当たる節はあるのかい?」
 「ないだろうね。だが、時おり真相に気づく不気味な直観力を持っているからね。今の環境に満足しているのか、私もよく疑問に思うんだよ。もっとも、頑固なところがあるから、療養施設で治療を受けるよりも、毒殺の危険があっても自分の家にいるほうを選ぶだろうな。
 その一件以来、彼が選んだナースには、私も以前ほど信を置いていないんだ。なあ、プリーストリー、仕事の点では、彼女に非の打ちどころはないよ。仮に私自身が普通にナースを選んだとしても、彼女と同程度の能力だったろうよ。あんなものさ。確かに気が短いし、マナーもよくないが、クラヴァートンが気にかけてる様子もないしね。そしたら、この事件の一週間後に、ダーンフォード青年に玄関ホールで呼び止められたというわけさ。
 最初は、なにが言いたいのかよく分からなかった。伯父の健康のことで心配しているという話をくどくどとしゃべりはじめてね。伯父が病気になってからというもの、機会あるごとにロンドンまで見舞いに来てるというんだ。私がクラヴァートンの治療に当たってきたこととか、あれやこれやと感謝の言葉を浴びせながらね。いやはや、プリーストリー、あの男からはどうにも逃げられなかったよ。
 すると、どうしてもお話ししておきたいことがあるとほのめかしはじめてね。それで、ちょっと辛らつに、それなら教えてもらおうかと言ったのさ。そしたら、さんざん的外れな話をしたあげくに、ヘレンが事実を偽ってこの家にいると知っているか、と聞いてきたよ」
 「事実を偽っている!」とプリーストリー博士は声を上げた。「なにが言いたいんだ?」
 「私もまさにそう聞いたのさ。単刀直入にね。そしたら、彼女にはナースの資格はないと言うんだ。研修を修了する前に、セント・エセルバーガ病院を追い出されたというんだよ。理由を聞いたんだが、知らないのか、言いたくないのか、口を割らないんだ。
 むろん、私を安心させようと思って言ったことじゃない。ともかく、彼女にはなんの不満もないし、彼女が伯父の看護をする十分な能力があることは、私が一番よく知っていると言ってやったよ。一応、セント・エセルバーガ病院にも照会してみると、ミス・ヘレンは婦長といさかいを起こして首になったみたいなんだ。詳しいことは話してくれなかったが、その件は彼女のナースとしての能力とは無関係だとはっきり言ってたよ。
 もう一度言うが、どうしたらいいんだ? クラヴァートンが重病人だとでもいうなら、私だって、違う人間を雇えと説得したさ。だが、そうじゃない。日々よくなっていたしね。君も見たとおり、起き上がって、図書室で本も読める。彼にそんなことを言ったら、きっと、余計なおせっかいだと言うだろう。彼ならそんないきさつぐらいとうに知ってたとしても、私は別段驚かんよ」
 「確かに君の立場は苦しいね、オールドランド」プリーストリー博士は重々しく言った。「なるだけクラヴァートンを訪ねてやってほしいという君の気持ちがやっと分かったよ。君が不在の間はもちろんそうするさ。だが、どうもいやな予感がするんだ。今日の午後行ったときには、クラヴァートンの親戚たちに歓迎されていないのがよく分かったんでね」
 「君ほどおおらかな人なら、そんなこと気にかけたりしないだろ、プリーストリー」オールドランドは熱を込めて言った。「連中の態度なら、どういうことか分かるよ。君がクラヴァートンに忠告するんじゃないかと不安なのさ」
 「忠告だって! なんでまた、私が彼に忠告したりするんだい? 彼から求められないかぎり、そんなことはしないよ。彼らとなんの関係があるんだ?」
 「人間の性根に鑑みれば、彼らはまさに切羽詰まっているのさ。クラヴァートンは今日、リズリントンのことを言ってなかったかい?」
 「言ってたよ。彼が持ってきた本のカタログのことで、たまたま口にしただけだがね」
 「クラヴァートンらしいな。君には、リズリントンが仕事の依頼に応じて面談に来たとは言わなかったんだな。経緯を教えるよ。くだんの発作のせいでクラヴァートンもちょっと動揺したんだろう。また発作が襲ってくるのか、命にかかわるものかどうか、はっきり言ってくれと私に言うんだ。二度とないことを願ってはいるが、彼くらいの歳なら、胃潰瘍が悪化することもあり得ると答えておいた。
 彼もその時はそれ以上言わなかったが、先週、顧問弁護士のリズリントンがいつものように彼のところに来たという話と、今度、私にも彼に会ってほしいという話をしてね。火曜にお会いしたよ。マナーも心得た年配の男だった。自分の顧問弁護士にしたいと思うような男だよ。事務員も一人連れてきていた。リズリントンは書類を一枚出してきて、クラヴァートンに署名させた。それから、私とその事務員にも証人として署名させたよ。文書はジョン・クラヴァートン卿の遺言書だったんだ。
 さて、クラヴァートンのような男がまだ遺言書を作ってなかったとは思えん。だから、あれは明らかに新しい遺言書なんだ。前のやつを破棄したわけさ。リズリントンはそのまま持ち帰ったし、もちろん私も中身は見てない。
 だが、クラヴァートンの親類の心情も分かるじゃないか? 彼らだって、リズリントンが来訪したのは知ってるし、クラヴァートンが遺言書の変更を検討しているのは、推測していたに決まっている。とはいえ、新しい遺言書が火曜に実際に署名されたことまでは知らないだろう。誰が得をするように変更したのか? ここ一、二週間、彼らが思いあぐねていたのは、その問題に違いないね。みんな、自分が気に入られようと、努めて愛想よくしていたことだろうよ。彼らは私のことをそねんでいるんだよ。クラヴァートンの旧友が発言力を持つことは喜ばしくないからね。一族以外の者に遺産を分配する気になるかもしれんだろ。それに、君も推察してるだろうが、クラヴァートンは自分の考えをまったく漏らしてはいない。その点は私にも安心材料なんだ」
 「どうしてかね?」とプリーストリー博士は尋ねた。
 またもやオールドランドは唇をゆがめて苦笑いすると、「クラヴァートンが遺産相続人を明らかにしないかぎり、これ以上ヒ素を検出したりはしないはずだよ」と謎めかすように答えた。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第四章-1

第四章

 オールドランドが帰っても、プリーストリー博士はずっと書斎に座ったままだった。ほんの数時間前には、旧友のところに、ごく普通に気遣いからの訪問をしようと出かけたつもりだった。それからというもの、あまりにいろんな驚きを味わったため、その混乱を整理しないことには、眠れそうにもなかった。
 もちろん、クラヴァートンは、この奇妙な劇の主役だ。劇か。まさにそのとおりだ。まるで現実味を感じさせない、劇場での芝居を観ている気がする。十三番地の家では本当に異常なことが起きているのか? それとも、こんな仰天すべき可能性が思い浮かぶのも、ただ想像をたくましくした結果にすぎないのか?
 クラヴァートンの振舞いは、少なくとも彼の性格とぴたりと一致している。それは博士にも分かる。彼が些細な出費を節約するために、相当な不便を忍ぶようなことをするのは、なにもこれがはじめてではない。ナースに賃金を払うより、妹や姪と同居することを受忍するのも、いかにも彼らしい。しかし、彼らがお情けで居候しているのは確かだ。リトルコート夫人は何一つ意義のあることをしていないわけだから、目立たないようにしているのも当然だ。
 物事を常識的な視点で見ようとするのは、プリーストリー博士のいつものやり方だった。同じ屋根の下に住む妹と顔をあわせるのを拒む兄の冷酷な態度も、博士にはなんら驚くべきことではなかった。顔をあわせてなんの意味があるのか? 二人で話したところで、非難の応酬に終わるだけだろうし、袋小路に行き当たるだけだろう。確かにオールドランドの推測は正しい。ヘレン・リトルコートは、十三番地の家に来るにあたって、母親の同伴を条件に付けたのだ。
 つまるところ、クラヴァートンと妹は肉親といいながら、なにか共通点はあるのか? 彼らはまるで異なる人生を歩んできたわけだし、赤の他人より縁遠くなっているはずだ。顔をあわせず、いさかいを起こすリスクなどないほうがずっとましだ。間違いなく、それがクラヴァートンの考えだろう。
 今のところは、そんな状況も理解できる。クラヴァートンが状況を決めているのだ。病人とはいえ、家の主人なのだから。しかし、オールドランドが話してくれた事件は信じがたい。クラヴァートンを毒殺しようとする試みが本当にあったのか、それとも、オールドランドが、十三番地の異常な雰囲気に想像力を膨らませすぎて事実誤認しているのか?
 オールドランドは、昔のことはどうあれ――クラヴァートンと同じく、博士も過去のことを問うつもりはなかった――、有能で賢い男だ。根拠もなしにヒ素が検出されたなどと言うはずがない。ヒ素が検出されたことは事実として受け入れねばならない。それをどう説明するかは、これから探ることだ。
 博士は、記憶を確かめるため、本棚から毒物学の専門書を引っ張り出し、ページを繰ってヒ素の項目を開いた。慢性ヒ素中毒の症状は、ある種の胃の疾患に伴う症状とよく似ている。ヒ素は実にさまざまな物質の中に含まれているし、いろんな経路を通じて組織に吸収される。そう書いてあった。本を閉じると、その問題をみずから考えはじめた。
 オールドランドは、クラヴァートンの病状が進行したあとに毒が盛られたとにらんでいる。しかし、間違いなくそうといえるか? そうでもなさそうだ。彼が説明した症状は、別の仮説とも完全に合致する。クラヴァートンは、相当期間、ヒ素を摂取し続けていたのかもしれない。彼の病気はそこから生じたものかも。衰弱した状態も、その結果かもしれない。
 それが事実なら、中毒症状は、リトルコート夫人と娘が家に来るより前にはじまったものということになる。ヒ素を摂取したのは事故ということもあり得る。意図的に毒が盛られたという証拠はなにもない。オールドランドの疑惑は、おそらく正しいのだろうが、彼自身言ったように、証明する手立てはない。
 その問題を考えれば考えるほど、プリーストリー博士には、それがオールドランドの空想ではないかという気がしてきた。博士は確かにいろんな名士たちと接してきた。相手がクラヴァートンなら、実際見当をつけたたように、どんな男か理解できる。だが、リトルコート夫人はどうだ! 夫人が兄の家で、現世を超越してなにかを待ちつつ、いったいどんなことを考えているか、誰に分かるというのだろう? 過去に経てきた体験のせいで、夫人は皆目見当もつかない存在になってしまっている。
 博士は、そんな体験が夫人にどんな影響を与えたか思い描こうと試みたが、無駄だった。無一文の伝道者とともにさすらった極貧の歳月。スピリチュアリズムに転向した驚くべき心境の変化と、その後は、プロの霊媒という精神主義的な生き方。最後は、兄と同居するよそ者として、指と頭脳以外は活動を止めた状態で十三番地の家に腰を落ち着ける日々。
 オールドランドは、夫人の態度を一語で見事に言い当てたものだ。待っている。激動の日々のあと、夫人はあらゆる活動を他人にゆだね、ひたすら待っている。では、娘のほうは? 彼女はただ待つことに我慢できるような人ではない。彼女はあの奇妙な家でどんな役割を演じているのか? 伯父のナースを唯々諾々と務めているわけではないはずだ、と博士はにらんでいた。
 クラヴァートンの財産の問題、さらには、オールドランドの判断が正しいとすればだが、遺言書が最近変更されたことが、事態をひどく複雑にしている。クラヴァートンは、内意を他人に漏らすような男ではない。財産がどのように配分されるかは、間違いなく、彼自身と弁護士しか知らないことだ。だが、妹の処遇はともかくも、一族の権利をないがしろにするような男でもない。彼が死ねば、最も利益を受けそうなのは、リトルコート親子とアイヴァー・ダーンフォードだ。
 ダーンフォードがオールドランドに告げ口という予想外のことをしたのも、そう考えれば理解できる。伯父が遺言書の変更を検討していると嗅ぎつけたから、いとこの信用を失墜させようとしたわけだ。ヘレン・リトルコートが病院を首になったことはクラヴァートンにも話したに違いない。彼女が同居していることを危惧したのかも。自分を相続人にするよう、伯父を籠絡するかもしれないからな。
 確かに奇妙な状況だ。プリーストリー博士の興味をかき立てるには十分なほどに。しかし、博士にできることは、控え目な観察者でいることだけだった。クラヴァートンの問題に口をはさむのは、いさぎよしとするところではない。オールドランドの心配を真に受けるつもりもない。友人を毒殺しようとする試みが本当にあったとは、どうも信じがたい。遺言書の内容が明らかにならないかぎり、そんなことをしようと考える者もいないだろうという、オールドランドの意見にも一理ある。しかし、約束してしまったことだし、次の月曜の朝には、十三番地の家をもう一度訪ねるか。
 土日のあいだは、博士も手がふさがっていて、クラヴァートンのことを考えるひまはなかった。秘書のハロルド・メリフィールドが外出していたため、自分でやらなくてはいけないことがいつもより多かったからだ。つれづれに十三番地の家のことが思い浮かびはした。クラヴァートンが書物に囲まれて座っている姿。リトルコート夫人の謎めいた姿。薄明かりを背景に浮かび上がる、ばかにした顔つきの背の高い娘の姿。そんな人々の姿が博士の心におのずと浮かんだ。オールドランドも同じだったろう。しかし、彼らのことを思案しているひまもなかった。
 月曜の朝になると、十一時少し前に博士は出発した。今回はタクシーを拾った。できるだけ早く家に戻りたかったからだ。道中、訪ねる約束をしたことをちょっと後悔していた。リトルコート親子と顔をあわせる気にならなかったからだ。フォークナーには、自分の来訪をクラヴァートンに告げるまで玄関ホールで待たせてもらうことにしよう。あとは、滞在は極力短く切り上げることだ。
 クラヴァートンの話が終わったら、すぐ帰ろう。オールドランドの話を聞いてから、先週金曜のクラヴァートンの態度もまだ理解できるようになった。なにか重要なことを伝えたいようだな。それが手紙を送ってきた理由だ。オールドランドが来る数分前に、自分が来るとは思っていなかったのだ。だから、あんなどうでもいい話をしたんだな。水入らずで言いたいことを言う時間がなかったわけだ。今朝なら確かに話せるチャンスがあるだろう。
 車はボーマリス・プレイスに入っていき、十三番地の家の前で停まった。博士は、運転手に料金を払い、家の呼び鈴を鳴らした。ちっとも反応がないため、もう一度もどかしげに鳴らした。ようやくドアが開き、フォークナーが姿を見せた。プリーストリー博士だと分かると、ぎくりとし、妙に困ったような表情を浮かべた。いつもの無表情さとは打って変わった表情だった。
 執事が中に入れようとしないため、博士は眉をひそめた。「ジョン卿に会いたい。約束したんだよ」博士は断固とした口調で言った。
 「申し訳ございません」フォークナーはそう答えながら、そわそわした様子で顔をひきつらせた。「ジョン卿は、昨日の朝、亡くなられました」
 博士は驚愕し、いっぺんにいつもの落ち着きを失った。「亡くなった! なんてことだ、フォークナー。なにがあったのかね?」
 執事は、返答する前に、うしろの玄関ホールのほうをちらりと振り返ると、「突然のことだったのでございます。朝食の直後でした」とささやくように言った。「ジョン卿は、数週間前と同じ発作を起こされたのです。ミス・リトルコートの指示でミルヴァーリー先生を呼びにまいりましたが、先生が来られる前にジョン卿は亡くなっておいででした」執事はひと息つき、今度はやや大きめの声で話を続けた。「申し訳ございませんが、お約束のない方はどなたもお入れしてはならぬとの指示をいただいております。いらっしゃったことをミス・リトルコートにお伝えしてくれということでしたら・・・」
 「いや、いい!」プリーストリー博士は激しい口調で言った。博士は不意にドアに背を向けてうしろを振り返り、ボーマリス・プレイスをすばやく見まわした。博士を乗せてきたタクシーは、通りの突き当たりまで行って方向転換し、こっちに戻ってくるところだった。博士が手を振ると、そばに来て停まった。「最寄りの公衆電話までやってくれ」博士は運転手にぶすっと告げた。
 博士は、タクシーが電話ボックスに行くまでの数ヤードのあいだに心を決めていた。「ここで待っていてくれ」と言った。ボックスに入ると、スコットランド・ヤードに電話をかけ、ハンスリット警視がいるか尋ねた。運よく在室で、電話を警視につないでもらった。
 「君かね、警視?」博士は、ハンスリットの声が聞こえるとすぐそう言った。「ああ、私はすこぶる元気だよ。ありがとう。実は、至急、君の助言がほしいんだ。一時ちょうどに、ウェストボーン・テラスで昼食を一緒にどうかね?」
 「もちろんですよ、教授」とハンスリットは答えた。「いったいなにごとですかね? 私の所管にかかわることですか?」
 しかし、博士はすでに電話を切っていた。電話帳でオールドランドの番号を調べ、もう一度電話をかけた。メイドが電話に出た。いえ、オールドランド先生はまだ戻っておりません、ミルヴァーリー先生もお戻りを待ってらっしゃいますわ。ミルヴァーリー先生本人も往診に出かけてますが、一時半に戻ってらっしゃいます。その頃におかけ直しいただけませんか?
 タクシーでウェストボーン・テラスに戻る途中、博士は思考をめまぐるしく働かせた。オールドランドの心配は正しかったし、彼が不在のあいだにクラヴァートンは毒殺されたのだ。博士は、気まずい罪の意識を味わっていた。疑りすぎて、オールドランドの心配を軽くみるべきじゃなかった。せめて、こうなる前に、クラヴァートンの家に足を運んで話をするべきだった。彼はもはや死んでしまったじゃないか!
 突然、前回と同じ発作があって、とフォークナーは説明した。それが事実なら、死因を突き止めるのは難しくあるまい、と博士は険しい表情で考えていた。体内のヒ素を検出するのは、なにより簡単なことだ。ヒ素がなにを媒介して盛られたのかを突き止めるのも、さほど難しくはないはずだ。
 家に着くと、椅子に身を落ち着け、辛抱強くハンスリット警視が来るのを待った。プリーストリー博士のことを科学分野での名声を通じてしか知らない者なら、博士が犯罪捜査課の捜査官と親しいと知ったら当惑することだろう。しかし、彼らは古くからの友人だった。ずいぶん前のことだが、二人は一緒に、ある殺人事件の解決に関わった。こうして、ハンスリットはプリーストリー博士のひそかな趣味に気づいたのだった。教授は、科学上の問題を論理的に解決する精神的訓練を積んできたため、犯罪の解明に自分の能力を応用することに余暇を費やすのを好んだのだ。
 それ以来、ハンスリットは、捜査でぶつかった難問の多くを博士に相談し、おおむね自分にとっても満足のいく結果を得てきた。しかし、ほぼどんな事件でも、博士の関心は、自分が納得のいくように問題を解決できれば、それで終わりだった。犯罪者がそのあとどうなろうと、博士にはまったく関心の埒外だった。博士は謎解きをチェスのゲームと同じように楽しんでいた。ゲームで動く個々の駒には、つかの間の関心しかなかった。多くの人が興味をそそられることなら、博士だってまったく気にならないわけではなかった。しかし、ハンスリットが持ち込んでくる問題には、ことさら醒めた、感情を交えない態度をとっていた。博士自身、何度か言っていたことだが、そういう態度でいるからこそ、客観的な判断ができるのだった。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第四章-2

 しかし、今度の場合は、友人の死が絡んでいるだけに、未然に防げなかったという悩ましい気持ちが消えなかったし、いつもの客観的な見方もお預け状態だった。ハンスリットは、時間ぴったりにやってきたが、見たこともないほど博士が動揺している様子なのにすぐ気づいた。分別を働かせて、あえてなにも聞かず、博士のほうから進んで話してくれるのを待つことにした。
 長く待つまでもなかった。昼食をとりながら、博士は、十三番地の家と、そこにいた人々のことを事細かに説明した。彼らの性格や行動に関することはなにひとつ省かず、先週の金曜に自分が経験したことを詳しく話して聞かせた。ただ、オールドランドの疑惑については話さなかった。確かに、秘密を守る約束に縛られないほどの特段の事情が生じてはいた。しかし、博士は、間接的に得た証拠は信じないたちだった。むしろ、例の驚くべき出来事については、オールドランド自身から説明してもらうほうがいいと考えた。
 「そりゃまた奇妙な連中ですな、教授」ハンスリットはそう論評した。「ジョン卿は、ちょっと変わったところはありますが、いたって正常な人のようですな。日がな一日書物に没頭している人なら、そういう性格は珍しくないですよ。博士のお話からすると、彼が妹さんに自分の世話を任せようとしないのも、驚くにはあたりませんよ」
 警視は言葉を切り、博士が話を続けるのを待った。まったく見ず知らずの連中の物語を聞かせるだけのために、ウェストボーン・テラスに呼び出したわけではないことぐらい、よく分かっていたからだ。しかし、博士が次に口にした大胆な発言は、いざ聞くと、思いもかけないことだった。
 「わが旧友クラヴァートンは、昨日の朝、何者かに殺害された疑いがあるのだ」と博士は言った。
 警視は、くゆらせていたワイングラスをゆっくりと下におろした。プリーストリー博士がろくな根拠もなくそんな発言をするはずがないことは、彼もよく知っていた。ただ、その問題をどう扱うつもりでいるのかは、必ずしもはっきりしなかった。素晴らしいランチを賞味しながら、ほんの気まぐれに口にするような話とも思えなかった。
 「警察にはっきり告発を申し立てようというわけですか、教授?」ハンスリットはすぐさま尋ねた。
 「そんなふうに受け止めてほしくはない」と博士は答えた。「私の見るところ、警察はほかの筋からも前後関係の情報を集めることができる。私はただ、できるだけ早い段階である程度の情報を君に知らせたいと思ったんだ。君たち警察が犯人を特定しやすいようにね。クラヴァートンの死について言えるのは、今朝、執事から聞いた話だけだ。執事によると、突然倒れて亡くなったそうだ。医師が現場に着く間もないほどにね」
 「ジョン卿は、なにか内臓の長患いがあったとのことでしたね?」
 「そのとおり。その疾患で急死することもないわけではない。事の真偽は、医師が判断することだ。医師の所見を待たずして捜査を進めてもらってもかまわんかね?」
 「お聞きした話からすれば、ある程度まではかまわないと思いますよ、教授。まずは、ジョン卿の治療にあたっていたという、そのオールドランドとかいう医師から話を聞きたいですね。今のところは、彼の意見を手がかりにするしかありませんよ」
 ハンスリットの答えに慎重さが垣間見えるのは、プリーストリー博士も見逃さなかった。「これが犯罪だという私の話を鵜呑みにしてくれるとは期待していないよ」と博士は言った。「残念ながら、オールドランド医師は現在、ロンドンにはいない。私の知るかぎりでは、彼は土曜の朝に出発して、来週日曜に戻ってくる予定のはずだ。不在中は代診医を雇ったとのことだ。ミルヴァーリーという若い医師だが、私はよく知らない」
 「ということは、ジョン卿が亡くなったとき、オールドランド医師は付き添っていなかったわけですね?」ハンスリットはすぐさま尋ねた。
 「どうもそのようだ。だが、ミルヴァーリー医師の所見を聞きたいだろうね」
 「もちろんです。住所を教えていただければ、すぐに会いに行きますよ」
 「私も同行させてもらえるかな。なんなら、私からミルヴァーリー医師に電話しよう。一時半には戻っているはずだし、ちょうどその時間になったところだよ」
 博士は、もう一度電話をかけた。今度はミルヴァーリー医師本人が電話に出た。医師は、プリーストリー博士の名前を聞いただけで誰か理解した。「博士のことは、オールドランドから出発前にお聞きしました」と彼は言った。「ええ、お越しいただけるならありがたいです。ジョン・クラヴァートン卿のことですね? オールドランドにはすぐ電報を打ったんですが、まだ戻ってこないんです。あなたがいらっしゃるのをお待ちしてますよ」
 博士はタクシーを呼んだ。タクシーが来るのをハンスリットと待っているあいだに、手紙が届いた。届けてきた使いの者は返答を待っていた。プリーストリー博士はもどかしげに封筒を破り、タイプ打ちの手紙を取り出した。その紙には、「ヒュー・R・リズリントン、弁護士、宣誓管理官。ベッドフォード・ロウ一五二番地、W・C・2」というレターヘッドがあった。手紙には次のように書かれていた。

 「拝啓 拝顔の栄に浴したことはございませんが、御高名は依頼人のジョン・クラヴァートン卿からよく拝聴しております。残念なお知らせですが、ジョン卿は今月十四日日曜午前に急逝されました。内密にお知らせ申し上げることですが、ジョン卿の遺言書には、貴殿にかかわる項目がございます。恐縮ではありますが、早急に当事務所にてお目にかかりたく存じます。ぜひお話ししたいことがございますので。いつお越しいただけるか、この手紙を持参した者にお伝えいただければ幸甚に存じます。
                             敬具 ヒュー・リズリントン」

 「本日午後四時にリズリントン氏の事務所にお伺いすると、使いの人に伝えてくれるかね?」博士は、そばに控えていた女中に言った。「タクシーが来たかね。よし、一、二分後に警視と一緒に出るよ」
 手紙はハンスリットには見せなかった。見せる時間はあとでいくらでもあるし、リズリントンの話を聞いてからでもいい。使いの者が立ち去るのを待ってから、博士は外に出た。警視とともにタクシーに乗り込むと、オールドランド医師の家に向かった。
 二人はすぐに、ミルヴァーリー医師のところに案内された。医師はまだ若く、明らかに資格を取って間がなかった。純真で邪気のない顔にはまだ童顔が残っていたが、今はその顔に深い憂慮の表情が表れていた。不意に重い責任をいきなり課せられたという雰囲気が漂っていたし、プリーストリー博士にもその気持ちがそれなりに分かり、同情を禁じ得なかった。
 医師は深々と博士におじぎすると、「お越しいただき、ありがとうございます」と言った。「博士のことは、オールドランドから出発前にいろいろお聞きしております。もちろん、ご高名はそれ以前から存じておりました。実は昨日お伺いしようとも思ったのですが、いきなりお邪魔するのは厚かましいかとも思いまして」
「来てくれたらよかったんだよ」と博士は言った。「あいにく、今朝になるまでクラヴァートンの死を知らなかったんだ。こちらは友人のハンスリット氏。スコットランド・ヤードの捜査官だ。今日たまたま、昼食をご一緒したものでね。彼と一緒でもかまわないだろうね」
 「博士のご友人であれば、どなたでも歓迎ですよ。ジョン卿の死の状況をお知りになりたいんでしょうね?」
「金曜午後に会ったのが最後でね。その後なにがあったのか、知っていることはすべて教えてほしい」と博士は言った。
 「なんでもお話ししますよ。オールドランドは、金曜晩に患者のことを詳しく教えてくれました。彼の話では、患者は順調に回復しているし、今のままの治療を続けるべしとのことでした。ジョン卿はちょっと扱いの難しい患者だし、対応には慎重でなければならないとも忠告してくれました。
 土曜朝に往診に出かけた際に、ボーマリス・プレイスにも寄ったんです。若い女性が出たんですが、ジョン卿の姪で、卿の看護をしているとのことでした。細かいことを教えてくれて、ジョン卿は夜よく眠れたとか、いろいろ説明してくれました。卿はなにやら気難しい人だとも言ってましたよ。『気難しい』というのは、彼女の使った言葉そのままですけどね。あんなに小うるさくなければ、もっと治りも早いだろうにとも言ってました。
 小うるさいとはどういうことかと尋ねたら、食べ物のことらしいんです。伯父さんは、彼女がまず味見をし、ちゃんと調理されているか確かめてからでないと食べ物を口に入れないという話でした」
 プリーストリー博士は、この思いがけない情報に驚きの色を表しそうになるのを抑えた。「クラヴァートンには、確かに好みのうるさいところがあったよ」と博士は言った。「君が診察したときはどうだったね?」
 「オールドランドの話から予測してたより健康でしたよ。姪御さんの言う気難しさも、まるで感じませんでしたしね。とても愛想よく迎えてくれましたし、少し雑談もしましたが、彼も病気のことはほとんど話しませんでしたよ。迅速に回復しているという印象を受けましたし、同じような患者であれば、二、三日は往診に来なくてもいいと思うほどでした。でも、オールドランドから、毎日往診に行ってくれと念押しされていましたので、ジョン卿には、日曜の十二時頃にまた往診に伺うと申し上げたんです。
 ところが、日曜朝の十時少し前に、至急来てほしいとの連絡がありました。ジョン卿の執事がタクシーでやってきて、旦那さまが突然発作に襲われたと言うんです。執事と一緒にタクシーでボーマリス・プレイスに行きました。執事は自分が持っていた鍵でドアを開けて、そのままジョン卿の寝室まで案内してくれました。ジョン卿は身を丸くしてベッドに横たわっていました。一目見て、すでに亡くなっていると分かりましたよ。検査したところ、私が着く数分前には亡くなっていましたね。
 ジョン卿の姪御さんも部屋にいましたが、年配のご婦人もいて、その人とははじめて会いました。どちらも打ちのめされている様子でしたし、私の質問にもまともな答えは返ってきませんでした。年配のご婦人のほうは、私の言っていることが分からない様子でしたし、ジョン卿の姪御さんは恐怖で凍りついたようになってました。やっとなんとか、彼女に知っていることを話させましたよ。九時十五分前ちょうどに、伯父さんに朝食をもってきたということでした。メニューは、トーストに落とし卵、バターを塗ったパンを二、三きれ、ポットに入れたお茶だったそうです。それからダイニングに行って、自分の朝食をとったとのことです。
 彼女は、九時すぎに、ジョン卿の薬が置いてある図書室に行き、水薬を一服分コップに入れて、薬箱からカプセルを一粒とってきました。それから、ジョン卿のところに薬をもって行ったんですが、まだ朝食を食べ終わっていなかったので、薬はすぐ取れるようにベッドのそばに置いて、部屋を出て行ったそうです。
 五分後に、ジョン卿の部屋から金切り声が聞こえました。金切り声とは、彼女の表現ですけどね。正確な時間を問いただしたんですが、九時十五分頃というのが精いっぱいでした。部屋に飛び込むと、伯父さんは苦悶で身をよじらせていたそうです。ほとんど口もきけなかったそうですが、水をほしがっていると察しました。彼はいくらか飲んだそうですが、ひどい痛みが続いたようです。それから、彼女が執事を大声で呼びつけて、私を呼びに行かせたというわけです。
 ところで、私は十時十五分頃には部屋に来ていました。つまり、ジョン卿は、発作に襲われてから一時間以内に亡くなったわけです。これは異常としか思えませんでした。胃潰瘍の患者がこんなふうに予兆もなく発作に襲われるなんて聞いたことがありません。そんな発作で、これほど短時間に死に至るというのも理解できないことです。どうしていいか分かりませんでした。こんな状況では、自分の責任で死亡診断書を書く気にもなれません。まして、一度しか診察したことのない患者とあってはなおさらです。なので、オールドランドが残していった住所に至急電を打ったんです。彼以外に適切な対応を判断できる者はいないと思ったからです。
 昨日一日待ちましたが、返事はありませんでした。それどころか、今になってもまだ連絡がないんですよ。もちろん、いつまでも待っているわけにはいきません。それで、今朝、検死官に連絡して状況を説明し、自分では死亡診断書を出すわけにいかないと説明しました。検死官も私と同じ所見で、検死解剖の指示をしました。私としては最善を尽くしたことをご理解いただければと思います」
 「それ以外の対応はとれなかったと思うよ」プリーストリー博士はいたわるように言った。「検死解剖はもう行われたのかね?」
 「まだです。遺体は今晩、安置所に運ばれる予定です。アラード・フェイヴァーシャム卿が検死解剖を行う予定です。卿は、私か、もしオールドランドがそれまでに戻ってくれば、彼に立ち会ってほしいとのことでした」
 「フェイヴァーシャムか!」と博士は声を上げた。「よく知ってるよ。彼以上の適任はいない。ミルヴァーリー先生、その点では、君にとっても不幸中の幸いだったよ。今後の状況については、私にも逐一知らせてくれるかね?」
 ミルヴァーリーは、検死解剖が終わったらすぐ電話をすると確約し、博士と警視はいとまごいした。
 「確かにちょっとうさんくさいですな、教授」警視は、外に出るとすぐそう言った。「お疑いのとおりだとしても驚きませんよ。それが事実なら、ジョン卿の妹と姪にはやっかいなことになりますな」
 「検死解剖の結果をみてから論じ合うことにしよう」プリーストリー博士は厳しい表情でそう言った。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジョン・ロード『クラヴァートン事件』第五章-1

第五章

 プリーストリー博士は、ウェストボーン・テラスに戻ったが、ハンスリットはほかに予定があったため、一緒には来なかった。弁護士と会う約束の時間まで、博士にはまだ一時間あった。
 すべての事実を手に入れるまでは、事件の考察はしないのが、博士の厳格なルールだった。探偵が犯す最大の過ちは、仮説を性急に組み立ててしまうことだというのが持論だった。仮説というものは、いったん組み立てると、思考を支配し、新たな事実が出てきても、それを仮説に合わせようとして事実のほうをゆがめてしまう傾向をどうしても生じることになる。唯一安全なプランは、個々の事実を可能なかぎり総合しようとする、とらわれない精神を常に保ち続けることだ。全体の結びつけがほぼ完成するまでは、どんな相手にも嫌疑をかけないのが賢明というものだ。
 ミルヴァーリーの説明からすると、オールドランドがヒ素の一件を彼に話さなかったのは明らかだ。しかし、クラヴァートンの死の状況はいかにも尋常ではなく、だから彼も死亡診断書の発行をためらったのだ。そんなことはおくびにも出さなかったが――彼の立場にしてみれば無理もない――、毒殺を疑っているのは間違いない。状況を知る者なら、誰しも犯罪が行われたことを疑わざるを得まい。
 しかし、プリーストリー博士は、さしあたりそれ以上踏み込もうとはしなかった。いずれ、犯人を突き止める作業に取りかからねばなるまい。だが、まだだ。検死解剖が終わり、警察が正式に事件を取り上げるまではだめだ。とはいえ、留意すべき重要な事実が一つある。クラヴァートンは、まずほかの者に味見させてからでないと、食べ物を口にしなかった。ヘレン・リトルコートがミルヴァーリーに言ったように、それはただの小うるささにすぎなかったのか? それとも、以前起きた発作の件でなにか感づいていたのだろうか? オールドランドの考えでも、感づいていたかもしれないという。
 そこまで来ると、プリーストリー博士はこの問題を努めて頭から追い払った。自分が取り組んでいた高邁な課題について、入念にメモを書きとめていくことに時間を費やしたからだ。四時十五分前になると、ベットフォード・ロウに向けて出発した。その道すがら、リズリントン氏が十三番地の家を訪ねてきた件について、オールドランドが話してくれたことを思い返していた。
 博士の来訪は弁護士の予定にすでに入っていて、すぐにオフィスに案内された。リズリントン氏は六十代で、髪は真っ白、ひげもきれいにそり上げ、鋭敏そうな顔つきをした男だった。しかし、目じりのしわには、ユーモアのセンスもあることが表れていたし、手紙の形式ばった言葉づかいとは妙にそぐわない、親しみのこもった話し方をする人だった。
 「こんなに早くお越しいただけるとはありがたいことです、プリーストリー博士」と彼は言った。「どうぞお座りになって、楽になさってください。クラヴァートンのことは残念でしたね。つい火曜に会ったばかりだし、その時はとても順調そうだったのに。あまりに突然でしたよ」
 「私も金曜の午後に訪ねたんだ」と博士は言った。「そのあと、オールドランド医師と話す機会があってね。彼の主治医だよ。私も、あんなに突然亡くなるとは予期していなかった」
 「おや、金曜に会われたんですか?」と弁護士は尋ねた。「クラヴァートンがあなたと話をしたがっていたのは知ってますよ。あなたに頼みたかった仕事のことは、きっともうお聞きになったんでしょうね?」
 プリーストリー博士はかぶりを振り、「会って話したときは、クラヴァートンの話はどうでもいいことばかりだったんだ」と答えた。「私の感触では、なにか言いたいことがあったようだが、ほかの客がじきに来る予定だったんで、タイミングがまずいと思ったようだ」
 「お見込みのとおりです。話したいことがあったんですよ。実を言いますと、あなたのような旧友に対してなら、私に対してよりも率直に話してくれるんじゃないかと期待してたんですがね。ところで、遺言書についてはなにも話しませんでしたか?」
 「その話はしなかったな。ただ、オールドランド医師の話だと、あなたの立ち会いのもとで、遺言書らしき文書に証人として署名させられたそうだが」
 「そのとおりです。さて、プリーストリー博士、この件についてはなにもご存じないとすると、まず私のほうからお話しさせていただくのがよさそうですね。あなたはクラヴァートンの昔からの友人とお聞きしておりますが?」
 「確かに、以前、非常に親しくしていたよ。だが、ここ数年は、あまり会う機会がなかった。ここ二十年ほどのことは、ほとんど知らんのだよ」
 「私も大差ありませんよ。初めてお会いしたのは、いとこのリヴァーズ夫人が亡くなったときのことでして。あれは一九一五年のことでした。彼が、ボーマリス・プレイスの家財も含めて、夫人から遺産相続したのは、もちろんご存じですよね?」
 「知っているよ。戦後になって最初に会ったときに、その話をしていたからね」
 「私はリヴァーズ夫人の顧問弁護士だったんです。それ以前は夫のほうの弁護士をしてました。言うまでもなく、夫人はクラヴァートン家の人間でした。私の知るかぎりじゃ、奇妙な一族ですよ。クラヴァートン家の連中はね。手に負えないほどではありませんけど。あるときはひどく頑固だったかと思うと、今度は、わけの分からない発想でぐらついたりしますからね。クラヴァートン本人もそうでしたよ。まあ、あなたのほうがよくご存じでしょうがね。あなただって、彼がばかげた迷信のとりこになるとは思ってもみなかったでしょう」
 「彼が迷信めいたことを信じていたとは知らなかったが」博士は穏やかに言った。
 「ボーマリス・プレイスから動こうとしなかったのは、まさに迷信のせいですよ。リヴァーズ夫人が彼にあの家に住んでほしいと望んでいたのは事実ですが、そのことを相続の条件にしたりはしなかったのに。私も知ってますが、夫人がそんな希望を伝えたことはありませんでした。ところが、あなたもご覧になったと思いますが、隣近所が消滅してしまっても、彼は動じませんでした。何度も申し上げたんですよ。開発が進んでいる今なら、古い地所もお高く売れますよ、ってね。でも、聞く耳を持ちませんでした。ここが性に合ってるんだ、といつも言ってましたよ。
 それから、半年ほど前のことですが、懸案が浮上してきたんです。向かいの家屋がすべて取り壊されたのはご覧になりましたね? あのあたりに建築を予定している業者が、区画全体をほしがっていたんですよ。クラヴァートンの地所も含めてね。実際、彼らはクラヴァートンに、あの家の資産価値のほぼ四倍の額を提示したんです。私からも提示を受けいれるよう極力説得したんですがね。まるで耳を貸しませんでした。引っ越してしまったら、二度と落ち着いた生活はできない気がすると言うんですよ。
 いかにもクラヴァートン家らしいこだわりでしてね。それと、取引を有利に進めようという思惑もあったんでしょうな。クラヴァートンも金の価値はよく分かってますよ。たぶん、あなたもご存知とは思いますがね。彼には言わずに、相手の当事者と話して、提示額を引き上げてもらうよう働きかけたんです。それから、新たな提示額を携えてクラヴァートンに会いに行きました。鼻もひっかけませんでしたよ。『むだだよ、リズリントン』と言いました。『死ぬまでここに住むつもりだ』ってね。私がなにを言っても馬耳東風でした。私としてもすっかりあきらめた気になっていたら、びっくりするようなことを口にしたんです」
 弁護士はひと息つき、デスクに置いてある物をちょっといじると、「きっと信じていただけないでしょうね」とまた話しはじめた。「この家は幸運をもたらすし、ここから出ていったら、その幸運から永久に見放されてしまうと言うんです。学識ある人がそんなばかげたことを言うのを聞いたことがありますか? でも、そんなのは序の口です。彼はいたってまじめにこう言ったんですよ。家の番地が十三でなかったらまた別だったんだが、ってね。冗談抜きにお尋ねしますが、こんな人をどう扱えばいいというんですか?」
 プリーストリー博士は苦笑すると、「私自身は迷信など信じない」と答えた。「だが、クラヴァートンの心情も分かるとは思うよ」
 「なら、あなたは私より洞察力があるわけだ」弁護士はぶすっと言った。「しかし、これはついでの話です。今の話からもお分かりと思いますが、クラヴァートンとは、彼がロンドンに住むようになってから、頻繁に会うようになりました。彼には顧問弁護士がいなかったようで、リヴァーズ夫人が亡くなったとき、私にその仕事を依頼してきたんです。さて、今回の遺言書の件なんですが、これこそご相談申し上げたかったことなんですよ。
 まずご説明申し上げますと、数年前のことですが、クラヴァートンから、諸々の書類の入った公文書箱を手渡されましてね。なかでも重要な文書が遺言書でしたが、二十年ほど前に作成したものでした。いずれにせよ、いとこの財産を相続する前で、そんなことを予想すらしていなかったときに作ったものです。実にシンプルな遺言書でした。要するに、全財産を妹のダーンフォード夫人に遺し、夫人が彼より先に亡くなった場合は、彼女の子孫に遺すというものでした。
 彼の資産状況が大きく変わったものですから、遺言書を変更する気があるか、その時にお聞きしたんです。そんなことを聞かれるのが煙たげな様子で、はっきりした返答は得られませんでした。妙な話ですがね、プリーストリー博士、明らかにやらなきゃいけない措置なのに、それを尻込みする人たちが多いんですよ。たぶん、死は確実に訪れるということを考えたくないんでしょうな。クラヴァートンもそんな心の準備はできてなかったんですな。そんな話はお迎えが近づいてきてからでいい、と言ってましたから。まだまだ長き春秋を送ると思っていたんですよ。
 三週間ほど前になるまで、それ以上の話はありませんでした。そしたら、その頃、彼に呼び出されましてね。病気だとは知ってましたが、たいしたことはないと聞いていたんです。ところが、お伺いすると、二、三日前にひどい発作に襲われたとのことで、いつまた襲ってくるか分からないと言うんです。新しい遺言書を作成する時期がきたとおっしゃいました。そしたら、その場ですぐ、指示を出しはじめたんです。
 その指示に基づいて遺言書の案を起草し、先日の火曜に正式に作成しました。そのときに、以前の遺言書を彼の立ち会いのもとで破棄しました。ただ、最初の遺言書がシンプルなものだったとすれば、新たに作成したものは、かなり奇妙な遺言書でした。彼の財産は、家を除いてすべて信託財産となります。プリーストリー博士、あなたと私がその受託者に指名されているのですよ」
 弁護士が相手を驚かせようとしたのだとすれば、確かに成功だった。「だが、リズリントンさん、それはあまりに常軌を逸しているよ!」博士は強い口調で言った。「クラヴァートンはそんな話は一切しなかった」
 「きっと金曜に話そうと思っていたのでしょう。その際に私から、あなたの了解は得たのかと聞いたら、そんな話をする機会がなかったと言ってましたから。ただ、あなたならきっと、その役割を引き受けてくれるはずだとはっきり言ってました。今頃になってなんですが、彼の遺志を受け入れていただけますか?」
 プリーストリー博士は眉をひそめた。法律上の問題に巻き込まれるのは、なんであれ、好ましくないことだったからだ。しかし、感傷的かもしれないが、相手への気遣いのほうが気持ちの上でまさった。友人の人生最後の日々を素知らぬ顔で過ごしてしまったという思いがあった。オールドランドの不安を真剣に考えてやらなかったという、うしろめたい気持ちもあった。今の自分にできるせめてものことは、クラヴァートンがゆだねてきた役割を引き受けることだ。
 「受託者の役目はお引き受けするよ」博士はしばらく考えたあと、重々しくそう言った。
 「そうおっしゃっていただき、安堵いたしました」と弁護士は言った。「私以上にクラヴァートンのことをご存じの方に共同で役目を担っていただけるのなら、とても心強いですよ。申し添えますと、彼も、なんの報酬もなしにご労苦を求めるつもりはありませんでした。遺言書では、蔵書を私たち二人に分与するとしています。私たちがいずれも書物に関心があることを知っていたんですよ、プリーストリー博士」
 「温かい心遣いだ。だが、私は受託者の仕事をよく知らない。クラヴァートンの財産に関して、私たちはなにをするのかね?」
 「一定期間、財産を信託のもとに管理するだけですよ。そのあいだ、利子から一定の支払いをすることです。主たる受益者はメアリ・ジョーン・アーチャーという人です。まだ未成年だと思いましたが?」
 弁護士は、プリーストリー博士ならその娘の名もよく知ってるだろうとばかりに、当たり前のごとく質問してきた。しかし、博士はかぶりを振り、「そのことはなにも知らんね」と答えた。「いくら思い返しても、そんな娘の名に心当たりはないよ」
 リズリントン氏は不思議そうに博士のほうを見ると、「クラヴァートンは彼女のことをお話ししなかったんですか? 母親のアーチャー夫人のことも?」と尋ねた。
 「彼の口からそんな名を聞いた憶えはないね」
 「ということは、私たちはどっちも同じ状況ということですな、プリーストリー博士。あなたなら、彼らのこともご存じだと思ってたんですがね。最初の遺言書では、この親子にはなにも触れてなかったんですよ。彼らのことは、先日、クラヴァートンが遺言書の指示をしたときにはじめて聞いたんです。アーチャー夫人の住所は、マートンベリーのウィロウズ荘です。たまたま知ってるんですが、マートンベリーは、ヨークシャーのノース・ライディングにある小さな町ですよ。なにか思い当たる節はありますか?」
 博士はまたもや首を振り、「まったくなにも」と答えた。「クラヴァートンがヨークシャーに関わりがあったなんて知らないね。もちろん、戦時中にイングランド北部で役職を得ていたのは知っているがね。もっと詳しい情報はないのかね?」
 「ありません。メアリ・アーチャーは親戚の方か、と思い切って尋ねてもみたんですよ。そしたら、アーチャー夫人は旧友だと答えると、とたんに話題を変えてしまったんです。この予想外の遺贈の背景には、若い頃のロマンスでもあるんじゃないかとも思ってるんですがね。もちろん、クラヴァートンらしからざることですよ。もっとも、十三番地の家に対するばかげたこだわりにしたってそうですがね。もしかすると、アーチャー夫人はかつての愛人で、けっきょく誰か別の人と結婚したとかじゃないですかね?」
 「かもしれんね。私にはなんとも言えないよ。言えるのはせいぜい、彼と戦前に親しくしていた頃は、彼は明らかに女性とつきあうのを避けていたというぐらいのことさ」
 「失望からくる反動かもしれませんな。珍しいことじゃありませんよ。まあ、いずれ分かります。アーチャー夫人には手紙を書いて、クラヴァートンの逝去を知らせましたが、返事が来るにはまだ間があるはずです。それより、クラヴァートンの遺言書の内容をご説明しましょう。
 受託者が管理をゆだねられる財産は、額面価格が十万ポンドを超える有価証券からなり、現在も年約四千ポンドの収入をもたらしています。この収入の処分については、こうです。まず、年二千ポンドが、アーチャー夫人に、娘が成人するまでのあいだ支払われます。そのあと、年千ポンドがアーチャー夫人に支払われるほか、千ポンドが娘に、二十五歳になるまでのあいだ支払われます。年五百ポンドがアイヴァー・ダーンフォードに支払われ、二百ポンドがミス・ヘレン・リトルコートに支払われます。残余財産は、一定の割合で各慈善団体に贈られます。そのリストは私が持っています」

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S・フチガミ

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