ジャック・フットレル「正体不明の男」(五)



 時おりすすり泣きが聞こえるほかは、しばらく沈黙が続いたが、女はハッチに激しくしがみつき、顔を彼の肩にうずめたままだった。それからこう言った。
 「私を憶えてないの?」彼女は繰り返し聞いた。「あなたの妻を? 本当に憶えていないの?」
 ハッチは科学者の顔に笑みが浮かんだままなのが見て取れたし、なにも言わなかった。
 「この人は間違いなくあなたのご主人なんだね?」と《思考機械》はきっぱりと問いただした。
 「あら、もちろんですわ」と女はすすり泣きながら言った。「ああ、ジョン、私を憶えてないの?」彼女は少し身を引いて、記者の顔をじっと見つめた。「憶えてないの、ジョン?」
 「お会いしたことがあるとは言えませんね」とハッチは心底から言った。「私は・・・その・・・実を言うと・・・」
「ドーン氏は記憶を完全に失っているのだ」と《思考機械》は説明した。「それはそうと、あなたなら彼のことを説明できるだろうね。彼は私の患者なんだ。私も関心を持っていてね」
 その声にはなだめるような響きがあり、ずっといら立っていた様子もしばし収まったようだった。女はハッチのそばに座った。彼女の顔は目が覚めるほど美しかったが、その顔を問いかけるように《思考機械》に向けた。片方の手は記者の手を軽くたたいていた。
 「どこのご出身ですか?」と科学者は言った。「つまり、ジョン・ドーンの出身地はどこかということですが」
 「バッファローですわ」と彼女はもっともらしく答えた。「この人はそれも憶えていませんの?」
 「職業は?」
 「この人、しばらく体の具合がよくありませんでしたので、今は実質的な仕事はしておりませんの」と女は言った。「以前は銀行の仕事をしておりました」
 「最後に会ったのはいつですか?」
 「六週間前ですわ。ある日、家を出て、それ以来消息が知れなくなりました。ピンカートン探偵社の探偵を雇って捜索させたんですけど、そしたら、ヤーマス・ホテルにいると報告してきまして。すぐに行きましたわ。これから一緒にバッファローに戻ります」彼女はハッチのほうに悩ましげな顔を向けた。「そうでしょ、あなた?」
 「ヴァン・ドゥーゼン教授のおっしゃるとおりにするよ」とどっちつかずの答え方をした。
 面白がっている様子が《思考機械》の細めた目からゆっくりと消えていった。ハッチが見ていると、彼の口は固く引き結ばれた。爆発が起きる、とハッチは感じた。しかし、科学者が口を開くと、その声は前にもまして柔らかかった。
 「ドーン夫人、一時的に記憶を喪失させる薬物のことはご存知ですかな?」
 彼女は目を見張ったが、自制心は失わなかった。
 「いいえ」とようやく言った。「なぜですの?」
 「むろん、この人があなたの夫でないことはご存じでしょうな?」
 今度はその質問も効果があった。女は突如立ち上がり、二人の男を見つめると、顔色が青ざめた。
 「夫ではない? どういうことですの?」
 「つまり」と答える声にはまたもやいら立ちが感じられた。「つまり、この件に関して本当のことをおっしゃっていただけなければ、警察を呼んであなたを引き渡さなくてはならぬということです。お分かりですかな?」
 女の唇が固く引き結ばれた。罠にはまったことに気づいたようだ。手袋をはめた手をきつく握り締めた。青ざめた顔は、次第に怒りのせいで血の気が上って赤くなった。
 「それと、まだ私の言う意味が分かっておられぬかもしれんので」と《思考機械》は説明した。「銅取引のことはみな知っていると申し上げよう。ここにいるジョン・ドーンなる人物がその被害者となった取引だよ。彼の症状はもう分かっている。君が本当のことを言えば、監獄行きは勘弁してやる。言わないなら、かなり食らい込むよ。それも君だけじゃない。仲間の共謀者たちもだ。さて、話す気になったかね?」
 「いいえ」と女は言い、出ていこうと立ち上がった。
 「それはやめたほうがいい」と《思考機械》は言った。「そのままじっとしていたほうが身のためだ。どのみちぶち込まれる。ハッチ君、マロリー部長刑事に電話を」
 ハッチは立ち上がり、隣の部屋に入っていった。
 「だましたわね」女はいきなり激しく叫んだ。
 「そう」と相手は満足げに言った。「次は、自分の夫くらい分かるようにしておくんだね。ところで、ハリスンはどこにいるのかね?」
 「これ以上話すつもりはないわ」とすぐさま答えが返ってきた。
 「いいだろう」と科学者は穏やかに言った。「マロリー部長刑事は数分でここに来る。それまでここのドアは鍵をかけておく」
 「あんたにそんな権利は・・・」と女は言いかけた。
 その言葉にとりあおうともせず、《思考機械》は隣の部屋に入っていった。そこで三十分ほど、ハッチ、ドーンと熱心に話し込んだ。話し終わると、ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」のマネージャーに次のような電報を打った。

 「来客帳簿に、三年前の一月、ファースト・ネームをハリーまたはヘンリーという男の名が載っていないか? 載っていたら、名前と特徴を回電願いたい。彼を客として招いた人物の名もあわせて知らせたし」

 この電報を打って数分後、玄関のベルが鳴り、マロリー部長刑事が入ってきた。
 「なにがあったのかね?」と彼は尋ねた。
 「隣の部屋に君の獲物がいるよ」と《思考機械》は答えた。「女だ。ジョン・ドーンを欺こうとした謀議で告発するよ。とりあえずその名で呼んでいるが、それが彼の本名かどうかは分からない」
「どれだけのことをご存じなんですか?」と部長刑事は聞いた。
 「実に多くのことを知ってるよ。しばらくすれば、もっと分かる。時が来れば話すよ。それまでは、その女を捕まえておいてくれ。君たちは、今晩、どこか出かけてもらったほうがよかろう。戻ってくる頃には、電報の回答も届いているだろうし、それでこの問題もはっきりするはずだ」
 抗議もむなしく、謎の女はマロリー部長刑事に連行されていった。ドーンとハッチは、すぐあとに出かけた。《思考機械》が次にとった行動は、モンタナ州ビュートのプレストン・ベル夫人に電報を打つことだった。その電報にはこう書いてあった。

 「ご主人は一時的な記憶喪失にかかってこちらにいる。至急おいでいただけないか。要回答」

 メッセンジャー・ボーイが電報を届けに来たとき、玄関口の階段に男がいた。《思考機械》が電報を受け取ると、マーサにマニングと名乗った男は《思考機械》に取り次がれた。
 「またマニングか」と科学者は心の中でつぶやいた。「ご案内してくれ」
 「どうしてこちらに伺ったか分かりますか?」とマニングは言った。
 「おお、もちろん」と科学者は言った。「ドーンの名前を思い出したんだね。それで、名前は?」
 マニングはあからさまに驚きの色を表し、答えに詰まって、科学者の顔を見つめるばかりだった。
 「ええ、そのとおりですよ」とようやく言い、にっこり笑った。「彼の名はピルスベリーです。やっと思い出しましたよ」
 「どうして思い出したのかね?」
 「雑誌の広告に、その名が大文字で出ていたのを見たんです。すぐに、それがドーンの本名だったことを思い出したんですよ」
 「ありがとう」と科学者は言った。「それで、例のご婦人は? 彼女は誰かね?」
 「どのご婦人ですって?」とマニングは聞いた。
 「いや、なんでもない。知らせてくれて感謝するよ。ほかに思い出したことはあるかね?」
 「いえ」とマニングは言った。少し当惑した様子で、しばらくして帰っていった。
 《思考機械》は、一時間ほど、指先を合わせながら天井を見つめていた。その黙想もマーサが来て破られた。
 「また電報でございます」
 《思考機械》は待ちかねたように受け取った。ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」のマネージャーからだった。

 「ヘンリー・C・カーニー、ハリー・メルツ、ヘンリー・ブレイク、ヘンリー・W・トルマン、ハリー・ピルスベリー、ヘンリー・カルバート、ヘンリー・ルイス・スミス。以上がその月のクラブへの来客。どの人物について追加情報をご所望か?」

 《思考機械》はピッツバーグに長距離電話をかけ、一時間以上も話した。電話を終わると、満足したようだった。
 「さて」と彼は心の中で言った。「あとはベル夫人からの回答を待つのみだ」
 回答が届いたのは深夜近くだった。ハッチとドーンはすでに劇場から戻ってきていて、電報が届いたときには、科学者と話をしていたところだった。
 「なにか重要なことでも?」とドーンは不安げに聞いた。
 「うむ」と科学者は言い、封筒の折り返しに指を差し入れた。「これではっきりする。最初から最後まで興味深い問題だったよ。ようやく・・・」
 彼は電報を開き、ちらりと見た。それから、当惑の色を浮かべ、かすかに口を開けると、テーブルの席に深々と座り、身をかがめて頭を抱えた。電文がテーブルに舞い落ちたので、ハッチは読んでみた。

 「ボストンにいる男性は夫ではありません。夫はいまホノルルにいます。今日も夫から電報を受け取ったところです。
プレストン・ベル夫人」

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジャック・フットレル「正体不明の男」(六-完)



 三人が再び顔を合わせたのは、三十六時間後だった。その前、《思考機械》はハッチとドーンに突然出て行くよう指示したのだった。記者は、なにかまったく思いがけないことが起きたと知った。プレストン・ベルに関係することだろうと推測するのが精いっぱいだった。三人が再び集合したのは、警察本部のマロリー部長刑事のオフィスだった。ドーンを自分の夫だと主張した謎の女も、マロリー、ハッチ、ドーン、《思考機械》とともに同席していた。
 「この女性は名を名乗ったかね?」というのが《思考機械》の最初の質問だった。
 「メアリー・ジョーンズです」部長刑事は苦笑いを浮かべて答えた。
 「住所は?」
 「言いません」
 「指名手配書の中に彼女の写真はあったかね?」
 「いえ。よく確認しましたから」
 「彼女のことを問い合わせてきた者は?」
 「ええ、男が一人。彼女のことを聞いてきたのではなく、一般的な質問をしてきただけですが、今になってみると、彼女のことを探ろうとしてきたんだと思いますね」
 《思考機械》は立ち上がり、女のほうに歩み寄った。彼女は《思考機械》を挑むように見上げた。
 「間違いがあったようだ、マロリーさん」と科学者は言った。「まったく私のミスだよ。この女性は釈放してあげよう。失礼な対応をしてしまい、申し訳ないと思っている」
 女は顔を輝かせながら、すぐさま立ち上がった。マロリーは嫌悪の表情を浮かべた。
 「罪状認否もなしに釈放するわけにいきませんよ」と捜査官は怒りを込めて言った。「こんなのは正規のやり方じゃない」
 「釈放しなきゃならんよ、マロリーさん」と《思考機械》は求めたが、捜査官は女の肩越しに驚くべきものを見た。《思考機械》がウィンクしたのだ。長く、はっきりと分かるウィンクだった。
 「まあ、分かりましたよ」とマロリーは言った。「正規のやり方ではありませんがね」
 シルクのスカートで大きな衣ずれの音を立てながら、女は足早に部屋から出ていった。再び自由の身になると、すぐさま姿を消してしまった。すると、《思考機械》の態度はがらりと変わった。
 「優秀な部下にあとをつけさせてくれ」と急いで指示した。「家までつけさせたら、夫として同居している男を逮捕してほしい。それから、二人ともここへ連れてきてくれたまえ。金を隠してないか、家の中を捜索してからね」
 「そりゃまたなぜ・・・こりゃいったいどういうことなんです?」とマロリーは驚きながら聞いた。
 「彼女のことを問い合わせてきた男は、彼女と同居していて、モンタナ州ビュートで起きた十七万五千ドルの横領事件で指名手配中の男なのだ。女を見失わないよう、部下に注意してくれたまえ」
 捜査官は急いで部屋を出ていった。十分後に戻ると、《思考機械》は、目を天井に向けたまま椅子に深々と腰掛けていた。ハッチとドーンはイライラしながら待っていた。
 「さて、マロリーさん」と科学者は言った。「この件で私の知っていることはすべてお話しする。話し終える頃には、君の部下も女と横領犯を連れて戻ってくるだろう。その男の名はハリスンだ。女のほうの名は知らない。ハリスン夫人とは思えないが、男には妻がいるようだ。だが、説明が必要だね。事実を一つ一つ結びつけていくとこうなる。バラバラに見ればわけが分からないが、一連の出来事を結びつければ必然的に導かれる論理的帰結だよ」
 捜査官は葉巻に火をつけ、ほかの者たちは姿勢を楽にして耳を傾けた。
 「この紳士は私のところにやってきた」と《思考機械》は語りはじめた。「記憶を失ったという話だった。名前、住所、職業はもちろん、自分のことはなに一つ知らないという。そのときは、精神科医が扱うべき症状だと思ったが、興味を引かれた。明らかに記憶喪失と分かる症状だったし、私もそう考えた。紙幣で一万ドル所持し、時計も持たず、身分証明につながる貴重品はなにも身に着けていないと話してくれるまではね。下着のメーカーの名前すらはぎ取られていた。意図的にされたことは明らかだった。
 そこから、これは記憶喪失症ではないと悟ったのだ。この病気は、街中を歩いている時や寝ている時、仕事をしている時に突如見舞うことはあるが、身元確認の手がかりを消そうとする欲求を生じたりはしない。それどころか、男は、記憶を失っているだけで、見たところ精神的にまったく正常だったし、なにより自分の身元を知りたがっていた。この男はそうした意思を持っていたし、手がかりを得るために、あらゆるチャンスをつかもうと心を砕いていた。私がしたほとんどの質問に、きちんと考え抜いた答えが返ってきた。それで、この男はかなり賢い男だと分かったのだ。
 だが、記憶喪失症ではないとすると、なんだというのか? なぜこんな状態になったのか? 薬物によるものか? インドにそんな薬物があるのは知っていた。大麻に似たやつだ。このため、とりあえずは薬物が原因だと想定したのだ。これを作業仮説に据えた。ほかにどんなことがいえるか? 優れた精神力を持ちながら、なにかの陰謀の被害者となった男がいる。薬を盛られて記憶を奪われ、厄介払いされた男だ。筆跡は変わっていないかもしれない。筆跡は精神疾患でもめったに変わったりしない。肉体的な癖だからね。
 そこまではいい。事故に遭った可能性がないか、頭部も調べてみたが、そんな形跡はなかった。両手とも白かったし、たこもなかった。強い精神力の持ち主だという点と考え合わせると、一番有力な職業として、投資家か銀行家ではないかと思えた。弁護士ということもあり得ただろう。だが、この男の身なりは、きちんとした服の手入れからしても、全体として見れば、弁護士ではなく金融関係者と思われた。
 次に、彼が目を覚ましてから、所持金を調べてみた。百ドル紙幣のうち、十五、六枚は新札で、連番のものだった。国立銀行が発行したものだ。誰宛てに発行したものか? 銀行に記録が残っている見込みはある。そこで、事実を照会する電報を打ち、ハッチ氏に頼んで、いろんな都市にいる仲間の記者にジョン・ドーンなる人物がいるか調べてもらったのだ。ジョン・ドーンが本名ということもあり得る。ホテルの台帳に記入したときには、薬を盛られ、自分の名前も忘れてしまっていて、ジョン・ドーンと署名したと思ってまず間違いあるまい。それがまず頭に浮かんだ名前だったのだ。だが、彼の名前ではない。
 銀行から回答が来るのを待つあいだに、西部に関する事柄を口にすることで彼の記憶を呼び覚まそうとしてみた。西部から金を携えてやってきたとも考えられたからだ。次に、彼が金融関係者だという前提で、金融街に行かせてみた。すると、ある結果が得られた。『銅』という言葉に反応し、『銅を売れ、銅、銅だ』と叫んで気を失ってしまったのだ。
 男の身元について立てた予測もまずまず裏づけが得られた。彼は、銅を市場で売るなり、その計画を立てる銅取引に関わっていたのだ。私は株式市場の内情には不明だ。だが、銅取引の話で気を失うような男は、ただの病気ではなく、重大な利害関係を持つ男に違いないとすぐさま気づいた。つまり、その男は金融関係者で、銅取引に関係があり、陰謀で薬を盛られたということだ。私の論理が理解できるかね、マロリーさん?」
 「もちろんです」とマロリーは答えた。
 「ちょうどその時、ビュートの銀行から電報が届いた。照会した百ドル紙幣は焼失したものだと知らせてきたのだ。この電報には、『支配人 プレストン・ベル』という署名があった。これが事実なら、男が所持していた紙幣は偽札ということになる。その点で疑問の余地があってはならない。男にプレストン・ベルを知っているか尋ねてみたが、彼が反応した名前はその名前だけだった。人はなにはさておき自分の名前を一番よく覚えているものだ。ということは、それが彼の名前なのか? とりあえず私はそう仮定した。
 まとめてみよう。プレストン・ベルは、ビュートの銀行の支配人であり、薬物を盛られ、陰謀の被害者となった。これは銅市場の変動となにか関係がある。しかし、この男がプレストン・ベルだとしたら、電報の署名は誰が書いたのか? 事務処理上の規則でその署名が付されただけなのか? 名前がそんなふうに使用されることはいくらでもある。とくに電報の場合はね。
 さて、ドーンか、プレストン・ベルかはともかく、この正体不明の男は私の居室で眠りについた。そのとき、くだんの紙幣が焼失したとされていることからして、この男は贋金づくりではないかと思い至り、ハッチ君に専門家のところへ鑑定を頼みに行ってもらった。それから、ビュートでの火災の詳細とともに、事件のことを知っている人物の名前を照会する電報を打った。そのあと、この男の靴を脱がせてメーカー名を調べてみた。そこにあったよ。靴は上物で、おそらく個人用にオーダーメードしたものだった。
 ただ、そのときはまだ、この男はプレストン・ベルだと信じていたのだ。今言った理由でね。メーカーと小売業者に電報を打って、靴の特徴を知らせた上で、金融業者か銀行家に靴を売った記録があるか照会した。デンヴァー警察にも電報を打ち、ここ四、五週間ほど不在にしている金融業者か銀行家がいるか照会した。それから、ハッチ氏から驚くべき情報がもたらされた。百ドル紙幣は本物だったのだ。つまり、プレストン・ベルは――この男がその当人だと思い始めていたのだが――、強盗か、もしくは金融関係の陰謀の被害者だということだ」
 続く沈黙のあいだ、全員の目が、ドーンだかプレストン・ベルだか分からないが、正体不明の男に注がれた。男はそわそわと手を握りしめながら前方を見つめていた。激しい精神的葛藤が表情に表れていた。相変わらず過去のことを思い出そうとしていたのだ。
 「次に」と《思考機械》は話を続けた。「デンヴァー警察から連絡があった。すぐに分かる範囲では、主だった金融業者や銀行家で金融街を離れている者はいないとのことだった。それで結論が出たわけではないが、参考にはなった。ビュートからもう一本、プレストン・ベルと署名のある電報が届いた。いわゆる百ドル紙幣焼失の状況について知らせてくれたものだ。焼失したとはっきり分かったわけではなかったよ。焼失したと想定されただけのことだったのだ。紙幣が最後に目撃されたのは、ハリスン頭取のオフィスだったのだ」
 「ハリスン、ハリスン、ハリスン」とドーンは繰り返し言った。
 「銀行でなにか財政問題が生じたことがぼんやりとうかがえた。おそらくハリスンはもちろん、ここにいるベル氏も、そのことを知っていたのだ。銀行というものは、現物が喪失したと確信しないかぎり、紙幣の再発行許可を申請したりしない。だが、紙幣は現にここにある。明らかになにかいんちきがあったのだ。そこで、ビュートの警察に電報を打って、いくつか質問をした。すると、ハリスンは十七万五千ドルを横領し、雲隠れしてしまったという回答が来た。焼失したとされている行方不明の紙幣は彼が握っていると、ついに分かったのだ。それは間違いない。では、ベルも盗みの共犯なのか?
 同じ電報に、ベル氏の評判は非常によいが、今は市内にいないとあった。それで、電報に支配人の署名を付するのが事務処理上の規則だという推定が裏づけられた。それとともに、この男はプレストン・ベルだという確信を得た。一連の状況がすべてつながったのだ。二足す二は必ず四になる、ということだ。
 さて、事件の筋書きはどのようなものか? 銅と関連があり、横領が絡んでいる。そこで、ベルを個人的に知っている者を探すため、彼をハッチ同伴で外を出歩かせた。前にもやったことだがね。突然、新たな人物が謎に加わってきた。最初は混乱をもたらす人物だったよ。マニング氏という男で、ドーンもしくはベルをハリーなにがしという名で知っていた。三年前に、ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」で会ったというのだ。
 ハッチがその男のことを話してくれたすぐあとに、デンヴァーの靴屋から電報が届いた。その電報によると、私が説明したとおりの靴をここ数か月内にプレストン・ベルからの注文で作ったということだった。売った相手は金融業者か銀行家だとして質問したのだが、電報でその名前を回答してもらったのだ。
 そのとき、女が夫のジョン・ドーンを訪ねてやってきた。はっきりした意図があったわけではないが、念のための用心に、まずハッチ氏に会わせた。女は、ハッチがドーンだと思い、彼を抱きしめてジョンと呼んだ。そこから、彼女が偽物と分かった。ジョン・ドーン、つまりプレストン・ベルの顔を見たことがなかったのだ。誰かの指示で動いているのか? だとすれば、それは何者か?」
 《思考機械》は、椅子に座る姿勢を正すのにちょっと間をおいて話を続けた。
 「心情というか、直感というか、何と呼ぼうとかまわんが、言葉では言い表しにくい、実に微妙な直感が働いてね。ハリスンとベルの現状とを直感的に結びつけてみたように、その女を直感的にハリスンと結びつけてみたのだ。事件のことは一語も新聞には出ていなかったし、事件のことを知っている者はごくわずかだったからだ。マニングという得体のしれない男が一万ドルを手に入れようとして女を操っているのかも? その点はまだ分からなかった。女に質問してみたが、なにも答えなかった。賢い女だったが、ハッチ氏を夫と早とちりしたのはとんだ失敗だったね」
 記者はわずかに顔を赤らめた。
 「彼女に薬物のことを率直に聞いてみた。女は落ち着き払っていたし、態度からしてもなにも知らない様子だった。だが、私は、知っているとにらんだ。それから、私は彼女の度肝を抜き、自分がミスを犯したと気づかせた。彼女をマロリー部長刑事に引き渡し、拘留してもらった。そのあと、ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」に電報を打ち、この事件で登場した謎の「ハリー」を確認してもらうよう頼んだ。そのときは確信を持っていたので、ベル夫人が実在するだろうとみて、ビュートにいるベル夫人にも夫のことを尋ねる電報を打った。
 それから、マニングが私を訪ねてきた。彼が来たのは、君の名前を思い出したからだと分かったよ」。《思考機械》は、この奇妙な身元の混乱の主である人物のほうを向いた。「私がそうだろうと言ったものだから、驚いていたようだがね。彼は君の名がハリー・ピルスベリーだと思い出したのだ。女のことも彼に尋ねてみたが、女のことは知らないようだったね。そこから、女は、君の敵らしいハリスンの共犯者にほかならないと分かったのだ。君を捕まえ、おそらくはとりこにするのが彼女の目的だった。少なくとも、銅が絡むなにか大きな取引が完了するまではね。以上が私の立てた推理だ。
 それから、ピッツバーグの「リンカーン・クラブ」から次の電報が届いた。ハリー・ピルスベリーという名が、三年前の一月に来た客として出てきたのだ。君のことだよ。マニングは間違いを犯すような男ではなかったわけだ。その時点で事件に関して解決すべき点が一つだけ残っていた。つまり、プレストン・ベル夫人からの回答だ。ベル夫人なる者が実在するとしてだがね。夫人なら夫の所在を知っているはずだからだ」
 再び沈黙が続いた。あまりにも多くのことがベルの頭を駆け巡った。それまでの話は、あまりに生々しかったし、ほかならぬ自分のことでもあったから、またもや思い出しかかった様子が彼の表情に表れた。
 「その電報によれば、プレストン・ベルはホノルルにいるとのことだった。夫人はその日に電信を受け取ったというのだ。正直言えば、私はまごついた。まごついたどころか、自分が組み立てた推論全体が目の前で音を立てて崩れたように思えた。再構築するのに何時間もかかったよ。細部にいたるまですべてを見直した。すると、この事件のあらゆる事実と整合する仮説が見えてきたのだ。その仮説が正しい。二足す二が四であるのと同じくね。それが論理というものだ」
 三十分後に捜査官がやってきて、マロリー刑事部長になにかささやいた。
 「いいぞ!」とマロリーは言った。「連れてこい」
 それから、さっきまで拘留されていた女と五十歳くらいの男が入ってきた。
 「ハリスン!」とベルはいきなり叫んだ。手を広げながら、よろめくように近づいていった。「ハリスン! そうだ! 分かったぞ!」
 「うむ、いいぞ、これでいい」と《思考機械》は言った。
 ベルはぶるぶると震える手をハリスンの喉元に伸ばしたが、マロリー部長刑事がベルを横に押しのけた。一瞬青ざめた顔をして立ち尽くすと、くずおれて床にのびてしまった。気を失ったのだ。《思考機械》は急いで診察した。
 「いいぞ!」彼は再びそう言った。「回復すれば、記憶はすべてよみがえっているだろう。逆に、ボストンからあとの出来事は忘れるよ。それはそうと、ハリスンさん、我々は薬物の件も、ホノルルでの新たな銅取引をめぐる駆け引きについても、現地であなたの仲間が逮捕されたことも知っている。あなたが使った薬物は、うまく効かなかったのだ。なにか付け加えることはあるかね?」
 囚人はなにも言わなかった。
 「この男の部屋は捜索したかね?」《思考機械》は二人を逮捕した捜査官に尋ねた。
 「はい。これを見つけました」
 分厚い札束だった。《思考機械》が、紙幣番号に目を走らせながら、ざっと数えると、七万ドルあった。最後に、六枚ほど抜き出した。ビュートの銀行火災で焼失したはずの二十七枚の一部だった。
 ハリスンと女は連行されていった。その後、すべての事実が判明した。ハリスンは自分が頭取をしていた期間に金を計画的に横領していた。火災も彼の差し金だった。それで一山当てられると期待していたのだ。女は、彼の妻ではなかった。ハリスンの逮捕後に判明した以上の事実に加え、彼が大きな銅取引に関わった同僚のベルを厄介払いし、別人をベルの名でホノルルに派遣して、現地で高価な銅資産の株を買い占めさせていたことも分かった。ビュートにいる妻に電信を送ったのも、ホノルルにいたこの共犯者だった。妻はなんの疑問も抱かずに受け取っていたのだ。
日が変わってから、ハッチは《思考機械》のところに立ち寄り、いくつか質問した。
 「ベルはどうして一万ドルも持ってたんですかね?」
 「おそらくその金を与えられたのだろう。殺してしまうよりも、自分の正体が分からぬままに国を方々さまよわせたほうが無難だったからだ」
 「どうやって当地にやってきたんでしょう?」
 「その質問の答えは裁判で明らかになるだろう」
 「それと、ベルがハリー・ピルスベリーの名で知られていたのはどうしてですか?」
 「あとで知ったが、ベルはUSスチール社の重役なんだ。三年前にピッツバーグで重役会の秘密会議が開かれてね。お忍びで会議に出席したので、「リンカーン・クラブ」ではハリー・ピルスベリーという名で自己紹介したのだ」
 「なるほど!」ハッチは声を上げた。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジャック・フットレル「ラルストン銀行強盗事件」(一)



 収納係のフィリップ・ダンストンは、慣れた手つきで、百ドル紙幣からなる、自分が束ねた計一万ドルの札束を数え直し終えた。小脇に積み上げた束の上に重ねると、メモにチェックの印を入れた。正確だった。札束は十八束あり、合計額は十万七千二百三十一ドルだった。それから、札束を一つ一つ取り上げ、それぞれに「P・D」という自分のイニシャルを付していった。これがラルストン国立銀行の確認手順だった。
 ラルストン国立銀行が小さな銀行からスタートして、金融界をリードする第一線の銀行にまで成長することができたのも、こんな些細なことにも注意を怠らなかったからだといえるかもしれない。ラルストン国立銀行繁栄の礎となったこの手順は、クィントン・フレイザー頭取が始めたものだが、彼は七十四歳になる今も実質的なトップの座にあった。採用されて五十年だが、そのうち三十五年を頭取として務めた。
 世間的には、この老いた銀行家は莫大な財産を有していると思われていたが、この世間の評価は、彼がチャリティに多額の寄付をしてきたことに由来する。だが、実のところ、この老人の個人財産は、妻以外に共有する者とてなかったが、さしたる額でもなかった。せいぜい、ささやかな趣味を持つ老夫婦が快適な生活を送れる程度のものだった。
 ダンストンは、札束をまとめ、支配人の個室に運び込むと、支配人の大きな平机の上にドサリと置いた。ランドルフ・ウェスト支配人は計算中だったが、計算を書いていた紙をポケットに突っ込むと、ダンストンが差し出したメモを受け取った。
 「合っていたかね?」と聞いた。
 「完全に合っています」とダンストンは答えた。
 「ありがとう。もう帰っていいよ」
 閉店時間を一時間まわっていた。ダンストンがコートを着ていると、ウェストが現金を持って個室から出てきて、預金者を泥棒から守る大きな鋼鉄製の金庫に現金をしまった。支配人は、金庫の前の廊下を掃除していた用務員のハリスに遠慮して一瞬立ち止まった。掃除をするのはいつも午後の遅い時間だった。
 「早くしてくれ」と支配人はもどかしそうに急かした。
 ハリスは急いで切り上げ、ウェストは金庫に現金を納めた。札束は十八束だった。
 「よろしいですか?」とダンストンは聞いた。
 「ああ」
 ウェストが最後の札束を片づけると、フレイザー頭取の私設秘書であるミス・クラーク、正確にはルイーズ・クラークが、頭取の部屋から出てきた。大きな封筒を持っていた。ダンストンがちらりと彼女のほうを見ると、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
 「ウェストさん、これお願いしますわ」と彼女は支配人に言った。「フレイザーさんが帰る前に、この書類を金庫にしまっておいてくれとおっしゃったんです。忘れてしまうところでしたわ」
 彼女は金庫の中を覗きながら、美しく青い目をぱっちりと見開いた。ウェスト氏は封筒を受け取り、なにも言わずに現金と一緒にしまい、彼女のほうは興味深げにその様子を見ていた。それから、ウェスト氏は重い扉を閉じた。彼女は、素早く力強い笑みをダンストンのほうに向けると、個室へと姿を消した。
 ウェストは金庫にかんぬきを掛け、組み合わせ式ダイヤルを回そうとつまむと、表のドアが開き、フレイザー頭取があたふたと入ってきた。
 「待ってくれ、ウェスト」と呼びかけた。「ミス・クラークが封筒を金庫の中に入れてくれと頼まなかったか?」
「ええ、いま入れたところですよ」
 「ちょっと待ってほしい」と老頭取は言うと、ダンストンが開けてくれたゲートをくぐり、金庫のところに行った。支配人は鋼鉄製の扉を開き、封筒をしまった現金区画の錠を開けた。頭取は封筒を取り出した。
 ウェストはダンストンのほうを向いて話しかけた。そのあいだ、頭取は封筒の中身を確かめていた。支配人が金庫にもう一度目を向けると、頭取はコートの内ポケットから手を出そうとしていたところだった。
 「もういいよ、ウェスト」と頭取は指示した。「錠をかけてくれたまえ」
 重い扉は再び閉じられ、かんぬきが差され、組合せ式ダイヤルが回された。フレイザー頭取は面白そうにその様子を見ていた。どうやら、その操作を見たことがなかったようだ。
 「今日はいくら収納したのかね?」と聞いた。
 「十二万九千ドルです」と支配人は答えた。「もちろん、セキュリティも万全です」
 「うむ」と頭取は小さな声で言った。「個人にしてみると、けっこうな額だな。自分のものにできればの話だがね。なあ、ウェスト」と頭取はそらぞらしく笑った。
 「まったくです」とウェストはほほ笑みながら答えた。「でも、そりゃ無理ですよ」
 ミス・クラークは、帰る身支度をすませ、頭取室のドアのところに立っていた。かわいい顔は、荒れ狂う風からピンクのほほを守るヴェールでほとんど隠れていた。
 「やあ、ミス・クラーク。帰る前に、ちょっとした手紙をタイプしてくれないかね?」と頭取は頼んだ。
 「もちろんですわ」と彼女は答え、個室に戻った。フレイザー氏もそのあとに続いた。
 ウェストとダンストンは銀行の柵の外に出たが、ダンストンはミス・クラークが出てくるのを待っていた。いつも彼女と一緒に地下鉄まで歩いて行くのだ。ダンストンが彼女に思いを寄せていることは公然の秘密だった。ウェストは用務員が掃除を終えるのを待っていた。
 「早くしてくれ、ハリス」と彼はもう一度言った。
 「分かりました」と答えが返ってきて、用務員はさらに力を込めてほうきを振るった。「もうちょっとです。中のほうは終わりましたので」
 ダンストンは柵を通して覗き込んだ。床はきれいになり、床板はピカピカと光沢を放つほどだった。ハリスが掃除する前は廊下に紙屑がたくさん散らかっていた。用務員が紙屑をちりとりにすっかり拾ったちょうどそのとき、ミス・クラークが頭取室から出てきた。彼女はダンストンと連れだって街路を歩いていった。その途中、二人は支配人のウェストが正面のドアから出てくるのを見た。彼は手にハンカチを持ち、急ぎ足で歩み去って行った。
 「フレイザーさんはなにか計算をしてたわ」ミス・クラークはダンストンに説明した。「あと一時間は仕事するそうよ」
 「君はきれいだよ」ダンストンは脈絡もなくそう言った。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上は、十一月十一日午後四時十五分にラルストン国立銀行であったことの詳細だ。その夜、銀行は強盗に入られた。難攻不落とされていた大きな鋼鉄製の金庫は爆破され、十二万九千ドルが消えていた。
 銀行の夜間警備員、ウィリアム・ヘイニーは、銀行内で意識を失い、縛られて猿ぐつわをかまされた状態で見つかった。彼のリボルバーは、弾を全部抜き取られてそばに置いてあった。意識不明になったのは頭を殴られた結果であり、病院に運ばれたが、意識を取り戻す見込みは乏しいとのことだった。
 鋼鉄製金庫の錠、蝶つがい、かんぬきは、強力な爆発物、おそらくはニトログリセリンで爆破されていた。時限鎖錠の小さなダイヤルから、爆発は二時三十九分に起きたと分かった。錠の残り部分は粉々に吹き飛ばされていた。
 こうして、強盗が入った時間ははっきり確定された。巡回中の警察官は四ブロックも離れたところにいたと分かった。爆発を聞いた者がいないのも無理はなかった。銀行は市内でも完全なビジネス街にあったし、夜はひと気がなくなるからだ。
 強盗は支配人の個室の窓を破って建物に侵入していた。その部屋は電気が煌々とついていたからだ。窓枠は外されていたし、侵入防止用の鋼鉄のバーが窓の外側に縦に何本もはめ込まれていたが、堅固な花崗岩に穿たれた受け口から引き抜かれていた。花崗岩は、白亜のようにボロボロに崩れていた。
 一つだけ手がかりがあった。白い亜麻製のハンカチが、爆破された金庫の前で見つかったのだ。強盗があった際に落ちたものに違いない。というのも、ダンストンが、銀行から帰るときにそんなものが落ちていなかったのをはっきり憶えていたからだ。あれば気づいたはずだし、用務員も掃除をしていたのだ。
 ハンカチはウェスト支配人の所持品だった。支配人はそのことを認めたが、なぜそこに落ちていたのかは説明できなかった。ミス・クラークとダンストンは口をそろえて、支配人は銀行を出る際にそのハンカチを持っていたと目撃証言をした。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジャック・フットレル「ラルストン銀行強盗事件」(二)



 フレイザー頭取は、十時に銀行に来ると、強盗のことを知らされた。頭取室に入ると、まるでぶん殴られてのびてしまったかのように、椅子に座って頭を抱え込んだ。ミス・クラークは、タイプライターに向かいながらも、深い同情の色を浮かべて老人の姿をしきりと盗み見ていた。彼女の目にも疲れが感じられた。室の外で捜査官たちが活動する様子も、閉じたドア越しに聞こえてきた。
 時おり、行員と捜査官たちが室に入ってきて質問した。頭取は、ぼうっとしたように返答をした。それから、重役会が開かれ、受けた損害は重役自身で埋め合わせるという採決がなされた。預金者のあいだに動揺はなかったが、それというのも、銀行の資産はほぼ無尽蔵だと知っていたからだ。
 ウェスト支配人は逮捕されなかった。重役たちが逮捕など受け入れるはずがなかったからだ。ウェストは十八年も支配人を務めていたし、重役たちも彼を心から信頼していたのだ。しかし、自分のハンカチがなぜそこに落ちていたのかは説明できなかった。ミス・クラークとダンストンが自分の帰る姿を目撃したあと、銀行には戻っていないときっぱり証言した。
 捜査を終えると、警察はこの強盗事件を、正体不明のプロの金庫破りの仕業と考えた。怪しい人物は洗いざらい調べるよう非常警報が発せられ、この捜索網により、重要な手がかりが出てくるものと期待された。マロリー部長刑事もそう言っていたし、銀行の幹部たちも彼の言葉を信じた。
 こうして、昼食時間になった。完全に無視されていたミス・クラークは、午前中ずっとタイプの前に座っていたが、席を立ってフレイザーのところに行った。
 「特に御用がございませんでしたら」と言った。「昼食に出てもよろしいでしょうか」
 「ああ、もちろんだとも」と彼は少し驚いたように答えた。どうやら彼女がいることをまったく失念していたようだ。
 彼女は一瞬、黙って彼のほうを見つめた。
 「本当にお気の毒です」と彼女はようやく言ったが、唇がかすかに震えていた。
 「ありがとう」と頭取は言い、かすかに笑った。「ショックだよ。こんなひどい事件は初めてだ」
 ミス・クラークは、そうっと出て行った。頭取室から出ると、一瞬立ち止まり、壊れた鋼鉄製金庫を不思議そうに見つめた。頭取は突然意を決したように立ち上がり、ウェストを呼ぶと、支配人はすぐにやってきた。
 「この事件で助けてくれそうな人を知っている」とフレイザーは期待を込めて言った。「こちらにお越しいただいて、検分してもらおうと思う。警察にとっても助けになるだろう。彼を知っているかね? ヴァン・ドゥーゼン教授だ」
 「知りません」とウェストは率直に言った。「ただ、この事件を解決してくれる人なら誰であれ歓迎ですよ。私の立場もやっかいなものですから」
 フレイザー頭取は、ヴァン・ドゥーゼン教授、すなわち、《思考機械》に電話をかけ、電話越しに少し話をした。それから、ウェストのほうを向いた。
 「来てくれるそうだ」と、ほっとしたように言った。「彼の発明品を市場に売りに出してやったことがあってね」
 一時間後、《思考機械》は、記者のハッチンスン・ハッチを伴ってやってきた。フレイザー頭取はこの科学者のことをよく知っていたが、ウェストのほうは、彼の奇妙な外観にぎょっとし、不気味な印象すら受けた。分かっている情報はすべて《思考機械》に提供された。彼は黙って耳を傾けたあと、立ち上がって、頭取室の中をうろうろと歩き回った。銀行家たちはその様子を面白そうに見ていた。ハッチはなにも言わず眺めていた。
 「ハンカチが見つかった場所はどこですか?」《思考機械》はようやく質問をした。
 「ここです」ウェストはその場所を指し示しながら言った。
 「これまでに、オフィスにすきま風が入ってきたことは?」
 「ありません。そうならぬよう、優れた換気システムを取り入れてますので」
 《思考機械》は開いた窓をしばらくじっと見つめていた。支配人の個室の窓だ。窓は何本もの鋼鉄の棒で守られていたが、今は受け口から引き抜かれていたし、受け口部分の花崗岩は白亜のように柔らかくなっていた。しばらくすると、《思考機械》は頭取と支配人のほうを向いた。
 「ハンカチはどこですか?」
 「私のデスクの中です」とフレイザーは答えた。「警察はハンカチに特別な意味があるとは思っていませんでしたよ。ただ、その・・・つまり・・・」と口ごもると、ウェストのほうを見た。
 「ただ、それが私を罪に陥れようとしたものだという点を別にすればね」ウェストが怒ったように言った。
 「おいおい」フレイザーが咎めるように言った。「誰もそんなことは・・・」
 「まあまあ。ハンカチはどこですか?」《思考機械》は困ったように割って入った。
 「私の執務室に来てください」と頭取は促した。
 《思考機械》が入っていくと、女性と出くわした。それはミス・クラークで、昼食から戻ってきたところだった。《思考機械》ははたと立ち止まった。彼がこの世で恐れる唯一のもの。それは女性だった。
 「ハンカチを出してください」と彼は頼んだ。
 フレイザー頭取は、ハンカチを取り出し、科学者のほっそりした手に渡した。《思考機械》は窓のそばに行き、裏表ひっくり返しながら綿密に調べた。最後にくんくんと匂いを嗅いでみた。まとわりつくようなスミレの香りがかすかにした。すると、科学者はいきなり、脈絡もなく、フレイザーに質問をはじめた。
 「銀行には女性職員が何人いますか?」と彼は尋ねた。
 「三人です」と頭取は答えた。「秘書のミス・クラークと、室外の受付に速記者が二人です」
 「男性は?」
 「私を含めて十四人です」
 頭取と支配人のウェストが《思考機械》のそれまでの行動に目を丸くしていたとすれば、今度はあっけにとられてしまった。彼はハンカチをハッチに渡し、自分のハンカチを取り出すと、自分の手をせっせと拭き、それもハッチに手渡した。
 「持っていてくれたまえ」と言った。
 彼は手をくんくん嗅ぐと、室外受付に出て行き、一人の女性速記者のデスクにまっすぐ歩み寄った。彼女におじぎすると、質問した。
 「君が使っている速記方法はなにかね?」
 「ピットマンですわ」驚いた様子の答えが返ってきた。
 科学者はくんくんと匂いを嗅いだ。そう、まさにくんくんとだ。すぐに彼女から離れると、もう一人の速記者のほうに行った。彼はまったく同じ行動をした。彼女のそばに行って質問し、答えを聞きながらくんくんと嗅いだのだ。ミス・クラークが、手紙を出すのに、室外受付を通って行った。彼女も科学者の質問に答えるはめになったが、彼はそのときも目を細めて彼女を見つめながら、鼻をくんくんさせた。
 「ほう」彼女の答えを聞くとそう言った。
 それから、銀行の職員一人一人のところに行き、各人に二言三言質問をした。その頃には、面白がっている様子のつぶやきがオフィスじゅうに広まっていた。最後に、《思考機械》は収納係のダンストンがいる部署に近づいて行った。青年は身をかがめて仕事に没頭していた。
 「この銀行に勤めて何年かね?」科学者はだしぬけに尋ねた。
 ダンストンは驚き、あわてて振り返った。
 「五年になります」と答えた。
 「仕事は大変そうだね」と《思考機械》は言った。「汗ばんでいるよ」
 「そうですか?」と青年はにっこりしながら聞き返した。
 尻ポケットからクシャクシャのハンカチを引っ張り出すと、はたいて広げ、額を拭いた。
 「ほう!」と《思考機械》はいきなり言った。
 ほんのかすかなスミレの香りがした。金庫の前に落ちていたハンカチと同じ匂いだった。

テーマ : ミステリ
ジャンル : 小説・文学

ジャック・フットレル「ラルストン銀行強盗事件」(三)



 《思考機械》は、フレイザー頭取、ウェスト支配人、ハッチをあとに従えて支配人の個室に戻った。
 「この部屋で話をして、誰かに立ち聞きされるおそれはありませんか?」と彼は聞いた。
 「ありません」と頭取は答えた。「幹部はここで会議を開きますので」
 「たとえば、部屋の外にいる者にこの音が聞こえますかな?」いきなり手を振り上げて、重い椅子をひっくり返した。
 「分かりませんが」と驚き声で答えが返ってきた。「どうしてですか?」
 《思考機械》はすぐさまドアのほうに行き、そうっと開けて外を覗くと、再び閉じた。
 「忌憚のない話をさせてもらっていいですかな?」と聞いた。
 「もちろん」と老銀行家は驚き顔で答えた。「当然ですとも」
 「あなたは難解な問題を提示なさった」《思考機械》は話を続けた。「結果がどうあれ、解決を求めておられるんでしょうな?」
 「もちろんです」頭取は今度もきっぱりと言ったが、その口調は重々しく、振り払いきれない恐怖がにじんでいた。
 「ということであれば」と《思考機械》は記者のほうを向いた。「ハッチ君、いくつか確かめてほしいことがある。まず、ミス・クラークが、現在もしくは過去に、スミレの香水を使っていたか知りたい。過去に使っていたのなら、使うのをやめたのはいつかもだ」
 「分かりました」と記者は言った。銀行の役員たちは、わけが分からぬまま目を見合わせた。
 「それと、ハッチ君」科学者は、奇妙な目を細めながら支配人の顔をじっと見つめた。「ここにいるウェスト氏のお宅に行き、服の洗濯屋の表示を自分の目で確かめるのと、氏ないし家族の誰かがスミレの香水を使ったことがないか、しかと確かめてきてほしい」
 支配人はいきなり赤面した。
 「この場でお答えしますよ」と彼は怒りを込めて言った。「ありません」
 「もちろん、そうおっしゃるでしょうな」と《思考機械》はそっけなく言った。「頼むから邪魔しないでください。言われたとおりにしてくれ、ハッチ君」
 ハッチは、この男の奇妙なやり方には慣れていたこともあり、この調査の目的がなんとなく理解できた。
 「収納係はどうしますか?」と聞いた。
 「彼のことはいい」と答えが返ってきた。
 ハッチはドアを後ろ手に閉めながら部屋を出た。離れていく途中で、ドアにかんぬきが掛けられる音が聞こえた。
 「この際申し上げさせていただきますがね、ヴァン・ドゥーゼン教授」と頭取は言った。「我々ははっきり確信しておりますが、ウェスト氏が事件に関係しているとか、なにか知っているなんて不可能だと・・・」
 「不可能なことなど存在しない」と《思考機械》はさえぎった。
 「でも、私は・・・」とウェストは腹を立てて言いかけた。
 「まあ、ちょっと待ちなさい」と《思考機械》は言った。「誰もあなたを告発などしていませんよ。私はただ、あなたのハンカチがどうしてこの銀行にあったのかを納得いくように説明し、お望みのとおり、嫌疑を晴らして差し上げようとしているのです」
 支配人は椅子に深々と座り、フレイザー頭取は両者をかわるがわる見た。頭取は、さっきまでは心配そうな顔をしていたが、今はただ驚くばかりという表情だった。
 「あなたのハンカチがこの銀行で見つかったが、どうやら金庫を爆破した連中が落としていったようだ」《思考機械》は、話しながら、長くほっそりした両手の指先を合わせた。「前夜にはなかったものだ。掃除をした用務員がそう証言している。たまたま目撃したダンストンも同じ証言をしている。ミス・クラークとダンストンは口を揃えて、銀行から帰る際にあなたがハンカチを持っていたと証言している。したがって、そのハンカチは、あなたの帰ったあと、強盗が露見する前に、その場所にもたらされたことになる」
 支配人はうなずいた。
 「あなたは香水を使っていないし、家族も使っていないと言いましたね。ハッチ君がその裏付けをとれば、あなたの嫌疑を晴らすのに役立つでしょう。だが、ハンカチがあなたの手を離れてから、この場所に現れるまでに、それに触れた者は香水を使っていたのです。さて、その人物とは誰か? その機会があったのは誰なのか?
 あなたがハンカチをなくし、たまたまそれが強盗どもの手に渡り、その強盗が香水を使っていて、さらには、そのハンカチを銀行に――それもあなた自身の銀行にだ!――持ってきて、そこに残していった、などという可能性はまず除外していい。そんな状況が生じる偶然の連鎖など、百万に一つの可能性もないでしょう」
 《思考機械》はしばらく口を閉ざし、目を細めて天井をじっと見つめた。
 「たとえば、洗濯屋かどこかでなくしたというなら、今申し上げた偶然が起きたことになるわけで、その可能性はほぼ除外されます。したがって、ハンカチを手に入れるチャンスを考えれば、この銀行に勤めている者が、強盗事件にもかかわりがあったか、一味の一人だったとみていい。いや、間違いなくそうです」
 《思考機械》はまったく静かな口調で話していたが、その効果は絶大だった。老頭取は、よろめきながら立ち上がり、 《思考機械》のほうをぼんやりと見つめた。またもや支配人は上気して顔を赤く染めた。
 「その人物は」と《思考機械》は淡々と続けた。「ハンカチを見つけ、強盗の際にうっかり落としてしまったか、あるいは、ハンカチを盗んで、意図的に残していったかのどちらかですよ。今申し上げたように、ウェスト氏は除外していいでしょう。彼が強盗の一味だったら、わざとハンカチを落としたりはしません。ですので、彼は香水も使っていないし、したがって、発見された場所に自分でハンカチを落としたのではないと想定することにしましょう」
 「不可能だよ! そんなことは信じられんし、うちの職員にかぎって・・・」とフレイザー氏が言いかけた。
 「不可能という言葉は使わないでいただきたい」と《思考機械》がさえぎった。「その言葉にはひどくいらいらさせられるのです。すべては一つの決定的な問いに集約される。つまり、銀行内で香水を使っている者は誰か、ということです」
 「知りません」と二人の役員は答えた。
 「私は知っている」と《思考機械》は言った。「二人しかいない。収納係のダンストンとミス・クラークです」
 「だが、彼らは・・・」
 「ダンストンは、ハンカチに残っていたのと、似ているどころか、まったく同じスミレの香水を使っています」と《思考機械》は続けた。「ミス・クラークは、強いバラの香りの香水を使っています」
 「だが、二人とも、この銀行の中でも、最も信用のおける職員だ」とフレイザー氏は力を込めて言った。「それに、彼らは金庫を爆破する方法など知るまい。警察の話では、プロの仕業だということだぞ」
 「フレイザーさん、多額の金策を試みたり、最近実際に工面したりしたことは?」と科学者はだしぬけに尋ねた。
 「ええ、まあ」と頭取は言った。「工面しましたよ。ここ一週間、自分の個人口座で九万ドルの金策をしてきました」
 「あなたは、ウェストさん?」
 支配人はかすかに顔を赤くした。質問の口調が気に食わなかったのかもしれないが、ちょっと間があいた。
 「いえ」とようやく答えた。
 「分かりました」と科学者は言うと、立ち上がり、手をこすり合わせた。「では、職員たちを身体検査しましょうか」
 「なんですって?」と二人の男は声を上げた。フレイザー氏が言い添えた。「あまりに馬鹿げている。何の意味もない。それに、銀行強盗なら、ほかならぬその銀行に、強盗の証拠を持ち込んだり、まして、盗んだ金を携えてきたりはせんだろうに」
 「銀行ほど安全な場所はありませんよ」と《思考機械》は反論した。「職員が強盗犯の一人なら、金も携えているというのは、おおいにあり得ることですよ。むしろ、そうでないほうが考えにくいですね。あなた方が職員を疑うはずがないと見越しているからです。犯人がウェスト氏だとすれば別ですが」
 彼はひと息ついた。「身体検査は私がやりますよ。もちろん、女性三人は別ですが」と顔を赤らめながら言い添えた。 「女性たちは、二人組みにして、お互いに検査させればいいでしょう」
 フレイザー氏とウェスト氏は、しばらく小声で話し合った。
 「職員たちが同意するなら、かまいませんよ」フレイザー氏はようやく言った。「なんの役にも立たんとは思いますがね」
 「皆さんも同意しますよ」と《思考機械》は言った。「全員、この部屋に呼んでください」
 困惑と驚きが広がる中、銀行内の女性三人、男性十四人が支配人室に集められ、外側のドアも施錠された。《思考機械》は、彼らしい簡潔さで語りかけた。
 「昨夜の強盗事件の調査にあたって」と説明をはじめた。「この銀行の職員全員を身体検査する必要が出てきました」驚きを表すささやき声が部屋中を駆け巡った。「やましいところのない者であれば、もちろんご異議なきものと思います。ご了解いただけますね?」
 あちこちで互いにささやきあう声が起こった。ダンストンは怒りで顔を上気させた。ミス・クラークは、フレイザー氏のそばに立っていたが、わずかに青ざめた。ダンストンは彼女のほうを向いて話しかけた。
 「女性たちはどうするのですか?」と彼は聞いた。
 「女性たちもです」と科学者は言った。「女性は女性同士で互いに検査してもらう。もちろん、別の部屋でね」
 「ぼくはそんな手続きには従わんぞ」ダンストンはずけずけと言った。「恐れてるからじゃない。侮辱だと思うからだ」
 銀行役員も《思考機械》も同時に気づいたが、ハンカチの香水と同じ香水を使っていた銀行職員が真っ先に身体検査に異議を唱えたのだ。支配人と頭取は、驚いたように互いを見交わした。
 「私もいやだわ」と女の声がした。
 《思考機械》は彼女のほうに目を向けた。ミス・ウィリス。室外受付の速記係の一人だ。ミス・クラークともう一人の女性職員は青ざめたが、どちらもなにも言わなかった。
 「ほかに異議のある方は?」と《思考機械》は聞いた。
 あとはみな黙って従う構えだった。男たちが前に進み出ると、科学者はいかにも型どおりに身体検査していった。なにもなし! ついに残るは三人だけ。ダンストン、ウェスト、フレイザーだ。ダンストンは、ほかの連中が従った以上、仕方がないとばかりに進み出た。女性三人は一か所に固まっていた。《思考機械》は、ダンストンの身体検査をしながら、女性たちに語りかけた。
 「ご婦人方は別室に行って、自分たちで身体検査をしていただきたい」と言った。「金が出てきたら、私のところへ持ってきてください。ほかのものはけっこうです」
 「いやよ、冗談じゃない」とミス・ウィリスはいきなり叫んだ。「こんなのひどいわ」
 ミス・クラークは真っ青に青ざめ、気を失いそうになり、両手を上げて、なにも言わずにフレイザー頭取の腕の中に飛び込んだ。とたんに、わっと泣き出した。
 「ひどい」彼女はすすり泣いた。フレイザー頭取にしがみつくと、両手を振り上げ、頭取の胸に顔をうずめた。頭取は父親のように語りかけながらなだめ、彼女の髪をぎこちなく撫でた。《思考機械》はダンストンの身体検査を終えた。なにもなし! すると、ミス・クラークは気を取り直し、涙目を拭いた。
 「もちろん、従わなきゃいけないわよね」目に怒りをにじませながら言った。
 ミス・ウィリスも泣いていたが、ダンストンと同様、従うしかなく、女性三人は隣の部屋に移動した。張りつめた沈黙が続いたあと、彼女たちは戻ってきた。いずれも首を横に振った。《思考機械》はがっかりしたようだった。
 「おやおや!」と声を上げた。「では、フレイザーさんだ」頭取のほうに行くと、立ち止まってスカーフ止めを拾い上げた。
 「あなたの物ですな」と言った。「落ちましたよ」と言うと、老頭取の身体検査をしにかかった。
 「なに、私まで調べる必要があると?」頭取は驚き顔でそう言い、思わず身を引いた。「私は・・・私は頭取ですぞ」
 「ほかの職員も、あなたの立ち会いのもとで身体検査を受けました。あなたも、職員の立ち会いのもとで身体検査させてもらいますよ」《思考機械》は辛らつに言った。
 「だが・・・そうは言っても・・・」頭取は口ごもった。
 「なにか心配なことでも?」科学者は問いただした。
 「いや、あるはずがない」慌てて答えが返ってきた。「だが・・・あまりに常軌を逸しているよ」
 「こうするのが一番ですよ」《思考機械》はそう言うと、頭取が身をかわすより早く、そのほっそりした指を胸の内ポケットに滑り込ませた。そこからすぐさま、百ドル紙幣百枚、すなわち、一万ドルの札束を取り出した。札束には、「P・D」という収納係のイニシャルと、「o・k-R・W」という文字が記されていた。
 「なんだと!」フレイザー氏は真っ青になって叫んだ。
 「おやおや!」《思考機械》は再びそう言うと、猟犬が臭跡を嗅ぐみたいに、紙幣の束を興味深そうにくんくんと嗅いだ。

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ジャンル : 小説・文学

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