フリーマンの墓碑

 『オシリスの眼』の中で、失踪したジョン・ベリンガムは、自分の死体が埋葬される場所に強いこだわりを示し、それを遺言書の中で厳格に指定する。それが作品のプロットの重要なポイントをなしているのだが、似たようなこだわりは英国人に限ったものではなく、人類共通の自然な心情に根差すものでもあるように思える。
 作中で、語り手のバークリー医師は、「くたばった」あとに自分の死体をどうこうしろと指定するのは馬鹿げたことだと吐き捨てるように発言するし、ソーンダイクもこれを受けて、自分の死体がどうなろうと気にしないと応じる。加えて、普段、死体と接することの多い医師がそうした心情に理解を示すのは難しいことにも触れている。自身、医師でもあったフリーマンの考え方も、実はそこに何程か反映されているのかもしれない。
 その一方で、ソーンダイクは、そうしたこだわりを示す「心情」に一定の理解も示している。保守的な気質の強かったフリーマンは、意外とそうした心情を自らも共有していたのかと思えなくもない。
 なぜそんなことに触れたのかというと、実はグレイヴズエンドにあるフリーマン自身の墓が、1943年の没後、長年、墓石はおろか、何の目印もないままに放置されていたからだ。その理由はよく分からない。フリーマンは家庭内では厳格な父親だったらしく、デヴィッド・イアン・チャップマンは、家族の判断が働いた可能性を示唆しているのだが、いくら煙たい父親でも、死後にそんな冷たい仕打ちをするものだろうか。もしかすると、目印を設けないのは本人の遺志だったのかもしれない。バークリー医師やソーンダイク博士の発言に見られるように、死後に自分の死体がどう扱われようとかまわないという思いがあったとすれば、それも不思議ではない気がするからだ。
 だが、モーツァルトに墓がないことを残念に思うファンがいるのと同様、そんな状態をほうっておけない人々もいるものだ。1979年に、英米の有志が資金を集め、フリーマンの墓に花崗岩製の墓碑が建てられた。グレイヴズエンドのウィリアム・G・ダイク市長夫妻をはじめ、約35人の参列者のもと、ささやかなセレモニーが行われ、その中には、ミステリ作家・批評家のH・R・F・キーティングも加わっていて、短いスピーチを行ったという。その際の写真もある。

            Gravestone
              右から三人目がキーティング
              ノーマン・ドナルドスン“In Search of Dr. Thorndyke”改訂版(1998)より


 墓碑には、

               RICHARD AUSTIN
                  FREEMAN
                  1862-1943
             PHYSICIAN AND AUTHOR
           ERECTED BY THE FRIENDS OF
               “DR. THORNDYKE”
                    1979

と刻まれている。フリーマン自身の遺志に即したものかどうかはともかく、ファンの一人としては、キーティングらの配慮に拍手を送りたい気持ちにもなるというものだ。

脱線の余談――『オシリスの眼』の感想を聞くと・・・

※『オシリスの眼』のプロットを明かしていますので、未読の方はご注意ください。

 『オシリスの眼』は読者の皆様のご好評をいただいているようで、まずは読んでいただいた方々に感謝申し上げたい。読まれた方も増え、身近な人とも感想を共有できるようになったおかけで、いろんな意見を聞く中で認識を改めたこともいろいろ出てきている。息抜きにちょっとそんなことをざっくばらんに書いてみたい。
 以前の記事でも書いたが、読まれた方の感想などを聞くと、必ずしも「ゲームの慣習」で容易に真相を見抜く人ばかりではないようで、トリックや意外性の点でも評価しようとする向きが多いのに気づく。「死体隠蔽のアイデアが面白い」、「発見された骨のまとまり方のホワイダニットがユニーク」といった意見が特にそうだ。後期の代表作『猿の肖像』は、ナルスジャックが分析しているように、ロジックこそ緻密ではあるのだが、真相があまりに見え透いていて「ゲームの慣習」で早々と見抜いてしまう読者が多く、その点が不評の一因でもあったようだ。こうした観点からすると、『オシリスの眼』はロジックとトリックのバランスがうまく取れた作品と見ることもできるのだろう。
 その一方で、「犯人を当てた」という人の意見も、いろいろ聞くと興味深い。その「推理」のプロセスを集約すると、「ベリンガムの遺言書には、犯人に対して一定の金額のほか、エジプト関連のコレクションを遺贈するとされている。犯人はエジプト学に一方ならぬ関心を抱いている。コレクションの中に、犯人がどうしても欲しい貴重な遺物が含まれており、それが殺人の動機だと思った」、「遺言書に記載のある人間の中で、消去法で行くと、そいつが一番盲点の人物らしいから」という推論をした人が多いようだ。直接当事者は犯人として見え透いているから、意外性を狙って、犯人は目立たないもう一人の遺言執行者、動機は金銭よりも考古学的価値のある遺物、というわけだ。「ゲームの慣習」による推論なら、まあこんなものかもしれない。実際、こんなプロットでも十分成り立つし、傑作とまでは言わずとも、レッド・ヘリングをうまくちりばめて錯綜させれば、立派に水準以上の作品が出来上がるのではないだろうか。
 やや脱線するが、なぜか我が国では評判の高い『証拠は眠る』にしても、この作品をフーダニット、ハウダニットの側面から「代表作」と考えている人がいかに多いかを感じる。実際、これがフリーマンの代表作のように見なされているのは日本の特殊現象のようなものだが、その一方で、同書第17章以降でソーンダイクが展開する緻密な推論の積み重ねの非凡さに言及する人は少ない。多くの読者が「トリック」に目を奪われて、フリーマン本来の特長を意識しないまま作品を読んでいるのはこんなところにも表れている。とはいうものの、推理小説の読み方にルールがあるわけではないし、従来型の読み方の中からも、いろんな目の付け所があることが分かって興味深かった。
 ちょっと意外だったのは、現代の法医学の水準からすれば、古代人の骨を現代人の骨と取り違えることはあり得ないという指摘も一方であるのだが、こうした時代的制約をプロットの限界や瑕疵と捉える人はそれほどいないことだ。我が国の読者はこうした点については意外とおおらかなように思える。例えば、国産ミステリで言えば、1990年代に出たよく知られた作品があるが、その中で、一方では当時最先端のIT知識を盛り込みながら、いくら親子で似ていたとしても、十五歳も歳の違う娘の死体を医師が母親と間違えて気づかないという、信じがたい設定が平気でまかり通っている。確かにこんな例に比べたら、時代的制約があるとはいえ、フリーマンの科学捜査の描写のほうがリアリティがあると言えるかもしれない。
 もう一つ意外に思ったのは、バークリー医師とルース・ベリンガムの恋愛エピソード。私などは、いかにも旧時代的なお約束の恋愛描写のように思えて仕方なかったのだが、これを好ましいと思う読者の方が予想以上に多いのに驚かされた。悠然としたストーリー展開も、そんな恋愛エピソードのおかげで読み応えがあるという意見も聞く。チャンドラーがそんな描写を好んだというのも、実はそれなりに理由のあることだったのかもしれないと認識を改めつつあるところだ。確かに、最近の犯罪小説で描かれるような、ドロドロした男女関係やあからさまな性描写にうんざりしている読者にとっては、一服の清涼剤なのかもしれない。
 百年以上前の作品とは思えないほど文章がモダンで古さを感じさせないという意見も聞く。訳者の立場として誠にありがたい評価なのだが、これは要は、翻訳という作業が、単に横のものを縦に直すだけでなく、古いものを現代風に言い表す作業でもあるからだ。
 同書の英初版が刊行されたのは百年以上前の1911年。それは優雅に二輪馬車が走り、ガス灯がともるロンドンの描写からも伝わってくる。我が国で言えば、明治44年。文学では、島崎藤村や夏目漱石が作品を発表していた時代だ。この時代の小説を今日の我々が読めば、舞台背景の描写はもちろんのこと、表現や文体に違和感を覚えるものがあるのは当然で、現在出ている文庫本等が、今日の読者が読みやすいように漢字や仮名遣いなどに最低限の修正を加えているのも当然だ。
 実は英語とて例外ではない。クラシックなミステリを読んでいると、今日では廃れてしまった表現がいろいろ出てくるし、語彙だけでなく、もってまわった言い回しも多い。原文は、若い人が読めば眉をひそめるような表現に溢れている。おそらく、『オシリスの眼』のようなクラシックを原書で読む英語圏の読者は、古い英語表現にあちこち引っかかりながら読んでいるに違いない。しかし、翻訳で読む読者は、言語だけでなく、表現も現代風に訳されたものを読んでいるため、そのことに気づかない。ある意味、翻訳で読む読者は英語圏の本来の読者よりも得をしている面もあると言えるのかもしれない。
 最後に、疑問に思われた方もいるようなので、バジャー警部の最期について簡単に触れておこう。『赤い拇指紋』では、ミラー警視が刑事裁判所から犯人を尾行するものの、捕まえる場面はない。のちの短編「前科者」では、犯人を見失ったことが言及されている。倒叙に分類してもいい“When Rogues Fall Out”は、『赤い拇指紋』の続編でもある作品で、この逃げおおせた犯人が再び登場し、ソーンダイクと対決することになる。バジャー警部はこの犯人に殺されてしまうのだ。ソーンダイクにも平気で食ってかかるユニークな警部だが、さすがにお気の毒である。

『二人のウィリング』が「このミステリーがすごい!」で第15位に

 本日刊行された「2017年版 このミステリーがすごい!」(宝島社)において、ヘレン・マクロイ『二人のウィリング』(ちくま文庫)が海外編の第15位にランクインした。
 講談社の「文庫翻訳ミステリー・ベスト10」、HMMの「ミステリ・ベスト・ランキング」でも同じことを思ったが、ランキングの上位に並ぶ作品の多くは、近年の犯罪小説や警察小説、サスペンス小説等であり、クラシックの本格作品は『二人のウィリング』くらいであることから、これは大変貴重な評価と受け止めている。(『ルーフォック・オルメスの冒険』はクラシックではあろうが、本格作品にカテゴライズするのは無理があるだろう。)
 解説を執筆された三橋暁氏は、「もう一人の自分というドッペルゲンガー現象への興味は、先立つ『暗い鏡の中に』で深い次元へ到達済みだが、冒頭から一気に読者を絡めとる本作では、フーダニットと冒険要素が拮抗する展開へとスマートに移行して見せる」と内容を要約しておられるが、総評では、「世相や殺伐とした時代の空気を反映」した作品が多いことに触れつつ、『二人のウィリング』を「反ファシズムの精神を秘めた」ものとして言及しておられ、まさに我が意を得たりという思いである。
 この場を借りて、評価していただいた皆様、それ以上に、読んでいただいた読者の皆様に感謝申し上げたい。そして、編集者の藤原氏、磯部氏にあらためて厚く御礼申し上げたい。以前の記事の繰り返しになるかもしれないが、こういう謝辞は何度繰り返しても気持ちのいいものである。


               二人のウィリング

探偵小説黄金期の作家としてのフリーマン

 ソーンダイク博士にしばしば付けられる形容辞は、「シャーロック・ホームズのライヴァル」というものだ。この点については、以前の記事でも書いたのだが、ソーンダイク博士の生みの親、リチャード・オースティン・フリーマンは、ホームズの生みの親、コナン・ドイルの同時代人というより、黄金期の作家に数えるほうがふさわしい。
 例えば、ソーンダイク博士のシリーズは、刊行年としては1907年から1942年にまたがるが、これを『スタイルズの怪事件』(1920)でデビューしたアガサ・クリスティと比較すると、生前刊行された長編全21作のうち、クリスティのデビュー以前に刊行されたものは4作だけであり、あとの17作は彼女と並行した活動期間に刊行されたものだ。
 「ホームズのライヴァル」というレッテルが生じた主な原因は、ホームズものが連載されていた「ストランド・マガジン」のライヴァル誌だった「ピアスンズ・マガジン」のオーナー、アーサー・ピアスンが『赤い拇指紋』に注目し、フリーマンに依頼してソーンダイク博士ものの短編を同誌に連載させたことにある。しかし、その連載期間も1927年までで、それ以降は、フリーマンはソーンダイクものの短編を書かなくなり、もっぱら長編のみで博士を活躍させている。
 その意味で、フリーマンを、アーサー・モリスン、バロネス・オルツィ、アーネスト・ブラマといった作家たちと並べて「ホームズのライヴァル」というレッテルで括るのは不当であり、実際の著作活動の内容や期間にもそぐわないだけでなく、同時代においても必ずしもそうは見なされていなかったことにも留意すべきだろう。『オシリスの眼』のあとがきでも触れたが、フリーマンは、クリスティ、セイヤーズ、クロフツ、ベイリーと並んで英国の推理作家の〝ビッグ・ファイヴ〟に数えられた。これはハワード・ヘイクラフトの『娯楽としての殺人』(1941)がソースであり(国書刊行会の邦訳143、174頁)、ヘイクラフトもまた、フリーマンを黄金期の作家の代表と見なしていたのだ。このため、上記あとがきでも、黄金期の作家の一人として扱い、「ホームズのライヴァル」のような印象を与えないように努めたつもりである。
 そう言うと、「ではなぜ、帯に『シャーロック・ホームズ最大のライヴァル』と謳っているのか」と問われそうだが、これはあくまで帯だからだ。私も最初にこの帯の案をお示しいただいた時、正直言えば、一瞬躊躇を感じないではなかった。しかし、よく考えてみていただきたい。コアな推理小説のファンであれば、「黄金期」と言われてもすぐピンとくるだろう。しかし、普段、推理小説にさほど親しんでいない一般の方々は「推理小説の黄金期」と言われても、どの時代を指すのかも分からない人がほとんどだ。実際、身近な人に聞いてみれば分かるが、ドイルやクリスティの名前くらいは知っていても、カー、クロフツ、ヴァン・ダインと言われても、聞いたことがないという人のほうがむしろ多い。そう思わない人は、おそらく推理小説のファン同士で固まってばかりいる人たちだろう。
 つまり、大多数の人にとっては、海外の推理小説と言えば、すなわち「ホームズ」であり、「黄金期のビッグ・ファイヴの一人」と言うより、「ホームズ最大のライヴァル」と言われたほうがイメージをつかみやすく、そのほうがアピールしやすい。帯の文句は、文字通り〝惹句〟、つまり、人の目を惹くためのキャッチ・コピーであり、その意味では、「ホームズ最大のライヴァル」というのは推理小説の惹句としてこれ以上のものはない(それに、上記で述べたとおり、決して事実に反しているわけでもない)。なので、私はむしろ版元さんの言葉の選択をいかにも思慮に富んだものとして多としたのである。違和感を抱かれたコアなファンの方もおられるかもしれないが、それはそれで理由があることもご理解いただきたい。
 いささか脱線したが、それはそれとして、やはりフリーマンは黄金期の作家として評価するほうがふさわしい。『オシリスの眼』では、登場人物たちは馬車に乗って移動し、照明器具にランタンを使っているが、『キャッツ・アイ』(1923)ではタクシーで移動しているし、ソーンダイクも懐中電灯を使っている。いかにもヴィクトリア朝風のイメージがあるのも初期作品だけで、のちの作品では、クリスティやクロフツの作品と比べても特に違和感はないのだ。
 特に、謎解きのプロットという点では、先に記事で紹介させていただいたストラングル成田氏の書評にもあるように、「フェアな手がかりと推理による正統的謎解き小説の確立者」としてのフリーマンは、むしろクイーンなどの黄金時代の作家の先駆者として評価すべきなのだ。それは『オシリスの眼』を読まれた方であれば、きっとご納得いただけるだろう。
 ただ、フリーマン自身はあまりに保守的で、都市開発や近代的な流行に対して批判的だった。『オシリスの眼』でも、バークリー医師とルース・ベリンガムの会話に、近代化していく街並みの様子を嘆き、古き良き時代に戻したほうがいいという趣旨のやりとりが出てくるが、こうした過去へのノスタルジアは他の作品にもしばしば見られ、『猿の肖像』でも、過ぎ去った時代を懐かしみつつ、芸術を含め、新たな時代の潮流に対する批判精神が色濃く表れている。さながらツヴァイクの『昨日の世界』を連想させるほどだ。
 それだけに、一方ではエックス線写真撮影のような(当時としては)新たな技術を採り入れることに積極的でありながら、文化や文明の見方については保守的で、それは恋愛描写などにも表れているし、全体の雰囲気も地味で古風になりがちなのだ。だが、そうした描写や雰囲気に惑わされることなく、探偵小説作家としてのフリーマンの位置づけを、プロットの特徴や実際の活動内容・期間に即して、もう一度見直してほしいと思うのである。

「本格ミステリ・ベスト10」で『二人のウィリング』が第二位、『九つの解決』が第八位に

 今年の「本格ミステリ・ベスト10」の海外ランキングに、ヘレン・マクロイ『二人のウィリング』(ちくま文庫)が第二位、J・J・コニントン『九つの解決』(論創海外ミステリ)が第八位にランクインしたとのご連絡を編集者の藤原さんからいただきました。
 評価していただいた皆様、そしてなにより、読んでいただいた読者の皆様に心から感謝申し上げます。(『オシリスの眼』(ちくま文庫)は今年の対象ではなかったようだ。)
 年に数多の刊行点数がある海外本格作品の中で、私が翻訳・紹介させていただいた作品を二作ともベストテンに選んでいただけるとは望外の喜びと思っております。皆様からいただいた評価を励みとし、今後とも優れた本格作品を多くの読者の皆様にご紹介していきたいと考えておりますので、引き続きご支援をいただければ幸いに存じます。
 あらためて、筑摩書房、論創社、そして編集者の藤原氏、磯部氏、黒田氏にこの場を借りて心から感謝申し上げます。


               二人のウィリング


               九つの解決

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」に『オシリスの眼』の書評

 「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の「クラシック・ミステリ玉手箱」の書評で、ストラングル成田氏に『オシリスの眼』を取り上げていただきました。
 「これでもか、とばかり、真相に結び付く手がかりと推理を次々と開示していく迫力に満ちた終章は、時代はもちろん逆だが、クイーンばりですらある。エジプト学が単なるペダントリーに終わらず、プロットに密接に関わっている点も特筆すべきだろう。フェアな手がかりと推理による正統的謎解き小説の確立者としての、フリーマンの先駆性をまざまざと示す作品だ。」と書評を結んでおられます。
 文庫解説では、フリーマンらしさを強調するために、敢えてトリック云々はさほど強調しないよう努めた面もあるのですが、成田氏は本作の真相における「大胆な力技」にも触れておられます。『オシリスの眼』は、「ゲームの慣習」でほぼ確実に犯人が分かってしまう『猿の肖像』に比べると、フーダニットやハウダニットの面でも、まずまずの意外性を持つプロットであることから、必ずしも容易に真相を見抜く読者ばかりではないようで、それだけに、トリックや意外性の視点で評価しようとする読者も少なからずおられるように思えます。
 それまで意識しなかったフリーマンの作品の特長に目を向け、面白さにあらためて気づいてくださった読者がおられたとすれば、それで私の解説は十分役割を果たしたと思っているのですが、「ゲームの慣習」に従って推論する読み方を否定するつもりはありませんし、むしろ自分自身、そうした推理小説の読み方を存分に楽しんでいる読者だと思っています。『オシリスの眼』をそうした視点からも楽しんでいただけた読者がおられるなら、それもまた訳者にとって望外の喜びというものでしょう。
 それにしても、ストラングル(絞殺)とはすごいペンネームです・・・。

『オシリスの眼』の小説としての面白さ

 ‘John Thorndyke’s Journal’第5巻(1993年冬)に、‘Austin Freeman’s Finest Work?’という論稿が掲載されている。執筆者は、ジョン・サッカー。レスターシャーのカービー・マックスロー出身の元校長で、「ディケンズ・フェロウシップ」の会員。“Edwin Drood – Antichrist in the Cathedral”(1990)という『エドウィン・ドルードの謎』に関する研究書を出している。
 ここでいう「フリーマンの最良の作品」とは、もちろん、『オシリスの眼』のことである。だが、サッカーの挙げる理由は、謎解きとしてのプロットやロジックにあるのではない。推理の興味と恋愛要素をうまく融合しているところにあるのだ。
 ソーンダイクも、バークリー医師やルース・ベリンガムに見せる思いやりに示されるように、法医学的な推理の能力だけでなく、人間的な温かさを持っているし、それは『ポッターマック氏の失策』のようなのちの作品でも顕著である。ドイルが創造したホームズに見られるように、推理小説作家の多くは、探偵に人間味のない科学や推理の能力を付与することはあっても、人間的・道徳的な個性を付与しすぎないようにしがちだが、ソーンダイクは決してそうではないというわけだ。
 こうした点を踏まえながら、サッカーは、「『オシリスの眼』において第一級の小説家としての資質を示した」とフリーマンを称賛して論稿を結んでいる。
 同書における恋愛面の要素や描写などは、やや陳腐なサブプロットのように思えてしまうところもあるのだが、むしろそうした面を積極的に評価しようとする識者の意見もあることは興味深い。確かに、ソーンダイクに人間的な温かみが顕著だからこそ、登場人物同士の個性のコントラストも際立ち、ストーリーを一層読み応えのあるものにしていることは事実だろう。

『二人のウィリング』がHMM「ミステリ・ベスト・ランキング」第14位に

 今月の「ミステリマガジン」に、「特集 ミステリが読みたい! 2017年版」として、「ミステリ・ベスト・ランキング」というアンケート調査結果が掲載されており、その海外編に、ヘレン・マクロイ『二人のウィリング』(ちくま文庫)が14位にランクインしている。
 「ミステリマガジン」は、それこそ中学時代から読んできた雑誌なのだが、実はこうしたランキングがあることをはっきり意識したのは、昨年、『あなたは誰?』を11位に選んでいただいたのがきっかけ。もともと国内のこうしたアンケート調査に関心が乏しかったせいもあるのだが、実を言うと、それは今もあまり変わっておらず、自分で気づくより知人や編集者さんから教えてもらうことのほうが多い。アンテナが低くてお恥ずかしい限りである。
 昨年も同じことを思ったが、ランキング上位に並ぶ作品の多くは、近年の犯罪小説や警察小説、サスペンス小説等であり、クラシック作品は稀なので、これは貴重な評価と受け止めている。個人的には、ベストテンの中では、2位のスティーヴン・キング『ミスター・メルセデス』がお気に入りだが、リストには未読の作品もあり、これをきっかけに読んでみたいところだ。

脱線の余談――金田一耕助の人気を実感

 当ブログのテーマの設定上、国産ミステリに触れることはほとんどない。そんなこともあって、シミルボンに書評を寄稿し始めた時には、違いをつける意味でも国産ミステリを積極的に取り上げようと思ったのだけれど、なかなか手が回らず、何作か取り上げただけでほうりっぱなしになっている。次に気が向くのはいつのことやら。
 たまたま前の記事で『犬神家の一族』に触れたが、これも『オシリスの眼』に関連してのこと。ただ、いざ書いてから気づいたが、この両作の酷似に言及した議論は意外と見当たらない。『オシリスの眼』自体が日本の読者にとっては長年手の届かない作品だったし、気づく人はなかなかいなかったのだろう。
 私にとっても、横溝正史の金田一耕助シリーズは中学時代から愛読したシリーズだが、海外作品に読書傾向が偏るようになって以来、関連本なども集めることはなかった。
 かつてパシフィカから刊行され、稀覯本と化している「名探偵読本」というガイドブックのシリーズがあり、古書で買い集めようとした時がある。ホームズ、メグレ、ポアロとミス・マープル等々と、海外の名探偵たちを取り上げたシリーズだったが、もともと全6巻の予定が、2巻追加となり、その最終巻が「金田一耕助」と、例外的に日本人を取り上げることになったらしい。
 海外の古書店と取引があっても、国内にお付き合いは特にないので、普通に探すしかなかったのだが、第7巻の「怪盗ルパン」までは比較的容易に手に入ったのに、最終巻の「金田一耕助」だけがなかなか見つからない。見つけても、どういうわけか、これだけは法外な値段が付いている。このため、ずいぶん長い間、この最終巻だけ欠番のままだったのだが、他の巻に比べて発行部数が少なかったはずはないだろうし、これだけが特に入手が難しかったところからすると、ニーズが他の巻よりはるかに高かったということなのだろう。我が国における金田一耕助の人気の高さを実感したものだ。
 この本にも随所で触れられているのだが、初登場作の『本陣殺人事件』によれば、金田一耕助は、A・A・ミルンの『赤い館の秘密』の探偵、アントニー・ギリンガムをモデルにしているらしい。ところが、どこがどう似ているのか、さっぱり分からない。「名探偵読本」には、権田萬治氏による「海外の名探偵と金田一耕助――アントニー・ギリンガムとの比較論」という論稿も収録されているのだけれど、権田氏も、類似点の乏しい両者の比較に相当四苦八苦されたらしいのが行間から伝わってくる。
 こうした論稿を参照しても、横溝氏が海外の作品からどれだけの影響を受けたのか、なかなか読み解けないのだが、『本陣殺人事件』はカーやドイルの影響が明瞭だし、津山事件(『八つ墓村』)や帝銀事件(『悪魔が来りて笛を吹く』)のような実際の事件をモデルにした作品もあるので、面白い着想やプロットのヒントは外からも積極的に取り入れるにやぶさかではなかったに違いない。海外の作品との接点について、もっといろんな議論が出てくるのを期待したいところだ。


                   名探偵読本8

脱線の余談――『オシリスの眼』と『犬神家の一族』

 『オシリスの眼』は、古典というだけあって、後の作品にも影響を与えたものが少なくない。シミルボンの書評でも言及したが、J・J・コニントンの『九つの解決』(1928)やダーモット・モーラーの“The Mummy Case”(1933)は、もちろんそれ自体優れた作品だが、直接的な影響を受けた作品の代表例だ。
 だが、もう一つ、もしかするとそうではないかといつも心をよぎる国産ミステリがある。横溝正史の『犬神家の一族』(1950-1951)だ。
 奇想天外な遺言書をきっかけに事件が発展していく点、そして、大団円の付け方が、妙に似ていると思えて仕方がない。そう思うのは、おそらく私だけではあるまい。敢えて言えば、(両作のプロットに触れてしまうので言いにくいが)「〇〇〇〇し」テーマを採り入れている点もそうだ。(「犬神」は「ベリンガム(Bellingham)」から連想して付けた名前か、と思うこともある。)
 といっても、似ているとはっきり言えるのはその程度で、『九つの解決』や“The Mummy Case”ほど、影響を受けたと明瞭に分かるほどではない。だから、ただの偶然だと言われれば、そうかもしれないとも思えてくる。ただ、横溝氏は原書で海外ミステリを読んでいたというし、自ら翻訳を手がけたこともある人なので(私もヒュームの『二輪馬車の秘密』は横溝訳で読んだ)、あり得ないわけでもないだろう。(あるいは、大正九年から「新青年」に連載されたという保篠龍緒訳『白骨の謎』を目にしていた可能性もある。)
 実際に影響を受けたかどうかはともかく、今日の視点で読んで、両者に接点を感じるのは、プロットだけではない。時代を感じさせる作品という点でも実はそうだ。
 『オシリスの眼』は、エドワード朝時代のロンドンを彷彿とさせる描写が魅力の一つだが、『犬神家の一族』も、戦後間もない日本の地方の描写が独特のオーラを放っている。現代の同じ町、土地を知ってはいても、自分が体験したことのない時代の、二度と再現できないその町の姿や人々の様子を生々しく伝え、過去に思いをはせるきっかけを与えてくれるのは、同時代に書かれた作品ならではの魅力だろう。
 そう思うようになって以来、『オシリスの眼』の結び部分に来ると、なにゆえか、私の頭の中では、大野雄二さん作曲の「愛のバラード」が鳴り響いてしまうのだった(笑)
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S・フチガミ

Author:S・フチガミ
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